ひたすら逃走

 ここは浄瑠璃町の片隅の寿司屋。

 場末の寿司屋というか、いわゆるガード下の寿司屋だ。古びた壁の色や黄ばんだお品書きからして、寂れた哀愁すら漂う。


 しかし、最近は老婆の職人が入り、とても腕が良く、またリーズナブルな価格の素材を美味しく握るとの評判で客が増えつつあった。


「はい、イクラお待ちっ!」


「すみませーん、熱燗追加! それと今日のお勧め何かな?」


「そうさね、今日はクエのいいやつが入ったよ! あとは定番のサンマだね」


 金曜日の夜ということもあり、この店も例に漏れず活気づいていた。


「いやあ、おばちゃんの寿司は美味いね! イワシは脂が乗ってるし、しめ鯖なんかこの締め加減がいいね!」


「ああ、腕さえ良ければ素材がB級品でも特上寿司に化けるさね」


「言うねえ、ばあちゃん!」


「お姉さんとお呼びっ!」


「ははは、こりゃかなわんな」



 職人は気さくで客達とも軽妙に会話をしながら握っていく。客もまた美味しそうに食べ、次々と注文をしていく。よくある週末の夜の飲み屋の光景であった。


 その和やかな空気を脅かすように黒服の男たちが店に踏み込んできた。


「ちょっと、お客さん。混んでいるから外でお待ち……!」


「ふっふっふ、こんな所に潜んでいたか。スシババアこと馬場寿子」


 そう、かつて寿子が激怒させた依頼主、ヤクザの組長である浜寿司はまひさしの手下である若頭の我利達であった。


「おやまあ、よく見つけたね」


 カウンターの中の職人のおばちゃんこと馬場寿子は、彼らの目を見ずに客の注文した寿司を握りながら答える。


「当たり前だ。俺らのリサーチ力を舐めんな。今度こそおやっさんの元へ来てもらうぞ」


「前回は殺そうとしたくせに」


「うるさいな、何としても生きて連れてこいとのおやっさんの意向なんだよ」


 我利ガリが勝ち誇ったようにカウンターへ近づく。客は修羅場が始まったことを察して逃げ出し、周囲には店主を含め誰もいなくなっていた。


「やれやれ、せっかくの稼ぎどきだというのにどうしてくれんだい」


「お前さんがおやっさんの要望に答えればいいことだ」


「だから言っただろう、コーン寿司は邪道だ」


「なんだとぉ! 貴様、まだ懲りずに言うか!」


 我利の部下、浜地ハマチが血気盛んにカウンターをドンと叩く。


「まあ、待て浜地。破壊すると暴対法絡みで警察サツが来る。それは俺たちにとっても面倒だ」


「しかし、我利さん!」


「なあ、前も言ったが、握ることは難しいことではない。しかし、ポリシーと言って頑なにコーン寿司を握らない。何故なんだ?」


 我利は前回と同じく優しく尋ねる。それに対する寿子の受け答えは淡々としたものであった。


「百歩譲って生ハム寿司はまだ許せる。炭水化物とタンパク質の組み合わせだからね。しかし、コーンは炭水化物同士の組み合わせだ。邪道極まりないね」


「なんだとぉ! 貴様、お好み焼きで白ご飯を食う大阪人をdisってるのかぁ?!」


「おい、浜地、怒る方向が違うぞ」


 我利は血気盛んで、なおかつおバカな部下を窘める。


「だって、お好み焼きは大阪人の心ですっ! 炭水化物同士を否定されたら、ワイはどないすれば……」


「ううっ!!」


 もう一人の部下である和佐美ワサビも泣き出す。


「お、お前までどうした?!」


「炭水化物同士を否定されるなら、焼きそばパンの立場はっっ!! あれだって炭水化物のハーモニーが織り成すグルメ! それを否定されたら、されたらっ!! 焼きそばパンが好きな俺はっ! 俺はっ! 一体どうすればっ!!」


「いや、だからお前らいろいろズレてる」


「「それに糖質制限しろなんて我利さんに言われてるから寿司だって控えているのにっっ!」」


 確かに浜地と和佐美はやや太り気味だ。これは追い込みをかけるときに敏捷性が必須の黒服としては致命的である。

 そのためか二人とも最近は動きも鈍くなり、我利はダイエットと運動をしろと注意したばかりでもあった。


「まあ、二人とも泣くのはおよしよ。これでも食べて元気を出しなさい」


 黙々と何かを握っていた寿子は泣いている二人の前に稲荷寿司を差し出した。


 不思議そうな顔をしながらも二人はそれを口にする。


「「こ、これは!!」」


「見た目が稲荷寿司なのに甘くない!」


「しかも中身がシャリじゃない!」


「こ、これはおからだ!しかも、かなり良い大豆から作られたおからだ!」


「味付けも絶妙だ!カツオと昆布出汁がしっかりとしていながらも、甘味は味醂のみ! 絶妙な味のバランス!」


「お、お前ら何を言っているんだ?!」


 二人の食レポに呆気に取られた我利の元へ寿子から稲荷寿司が差し出される。


「お前さんも食べてみるといい」


 半信半疑ながらも稲荷寿司を口にした我利は驚愕の表情となる。


「こ、この味は! 山陰地方の“ ののこめし”!!」


「さすがだね、我利さん。鳥取に伝わる“ ののこめし”をヒントにした試作品さ。安い材料、糖質制限。限られた条件でお客さんを喜ばせようとしてね。

 炭水化物同士を合わせるのは楽さ。しかし、そればかりでは手軽に腹を満たせても、カロリー過多になる恐れがある。最近は寿司よりお造りの注文が増えているくらいだ」


「し、しかし、稲荷寿司におからとは、それこそ邪道なのでは……」


「ははははっ! あんたにしては不勉強だねえ!」


 我利の問いかけに寿子はクールに笑い飛ばした。


「稲荷寿司の歴史を調べてごらんよ。江戸時代は米は贅沢品でもあったから、米の代わりにおからを入れていた説があるのさ。ちゃんと伝統に沿っているさ」


「な、なんだ……と?」


「伝統を踏襲しつつ、時代の流れに沿う。それは寿司の世界でも同じさ」


「なら、コーン寿司だって……」


「「ありがとうございますっ!!!」」


 我利がツッコミを入れるその前に部下の二人が感涙して寿子に礼を言ってきた。


「ダイエットも我慢せずに工夫すれば美味しいものが食べられるのですねっ!」


「これで、筋トレやランニングを頑張れそうな気がしますっ!」


「よしっ! おやっさんの所までランニングだっ!」


「おうっ!!」


「我利さん、ペースメーカーお願いしますっ!」


 二人は勢いよく扉を開け、どこかに走り去ってしまった。


「ち、ちょっと、お前ら! 待て!」


 我利は二人の文字通りの暴走を止めるべく、店外へ飛び出し、戻ってくることはなかった。


「やれやれ、あたしを捕まえに来たのじゃなかったのかねえ。さて、この隙にずらかる準備をするかね」


 馬場寿子、通称スシババア。彼女の逃避行はまだまだ続く。

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