『……聞こえてるかい? はじめまして、黄泉寺くんの元・同僚の、沢木です』

 なんて暢気なと言わんばかりに絆夏が顔をしかめた。すぐに、まるで見透かしているかのような沢木の爽やかな笑い声が缶から零れた。

『気分を害させてしまったのなら謝るよ。ごめんね。これでも、僕も慌ててるんだ。外の世界に危害を加えるつもりはないから、キミたちは安心していいいよ』

「外の……世界……?」

 絆夏は訝しげな目を黄泉寺に向けた。しかし、答えるよりも早く沢木はさらに続けた。

『実は時間が少ないんだ。他のポポポ委員も僕と同じ命令を受けていてね。なんとか時間を稼いだんだけど、いつまでもつか分からないんだ』

 他の委員という単語に、絆夏は鋭く反応した。銃のスライドを引き椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。間にいた絖瀬は両手を大きく広げ、ぎゅっと目を瞑った。

『――待った! 撃っちゃダメだ!』沢木が緊迫した声で言った。『キミたちが黄泉寺くんたちを損失させても事態は何も変わらない! 最悪の場合、キミたちにターゲットがうつるかもしれないよ!』

 ありえない話ではない。以前、黄泉寺は損失優先度『S』だった絆夏を見逃したが、再会したとき絆夏の優先度は『D』に低下していた。

 損失優先度の計算はリアルタイムで行われる。

 アポカリプサーが損失優先度『S』を見逃した黄泉寺こそアポカリプスに邪魔な存在だと、再計算したのかもしれない。その可能性こそ、黄泉寺が恐れていたことだ。

 はっ、と黄泉寺は気づいた。

 アポカリプサーは判断装置として人を組み込んだAIだ。ポポポ委員はアポカリプサー自身であり、それを壊すとはすなわちAIの自殺を意味する。

 世界を破滅に導こうとするアポカプサーが、世界が壊れる前に自殺するはずがない。アポカリプサーのAI部分はミスをしない。自身の手により絶対の防御下におかれるポポポ委員を判断装置から除外するためには、適度に判断ミスをしてくれるポポポ委員の手を借りるしかない。

 最初から、アポカリプサーに仕組まれていたのではないか。

 突然の異動、絖瀬との出会い、『理由ある反抗』、それから絆夏との再会――黄泉寺たちが最善だと思いとってきた行動はすべて、アポカリプサーが膨大な演算により前もって敷いたレールをなぞっただけにすぎなかったのではないか。

 すべて、黄泉寺を判断装置から除外するためだけに、用意されたのではないか――。

「いったい、なんの話をしてるんですか!?」

 絆夏が缶に向かって――缶の向こうにいる沢木に向かって吼えた。

『――おっと。そうだった。単刀直入に言うよ。僕はアポカリプサーの指示に従ってキミたちを助けようとしているんだ。より正確に言うなら、人的資源を、になるかもしれないけどね』

 続いて聞こえた沢木のため息に、黄泉寺は苦笑する彼の顔を見た気がした。

 たまらず、黄泉寺は缶に向かって訊ねた。

「人的資源をって……俺は、俺はどっちなんです……?」

『――違うよ』

「違う? 違うって、どっちって意味ですか!?」

『もちろん、キミたちはポポポ委員って意味さ』

 は?

「ちょ、ま、待って。待って欲しいッス!」

 固まる黄泉寺の代弁をするかのように、絖瀬が叫んだ。

「おかしくないッスか!? だって、アポカリプサーさんに頼まれたって……アポカリプサーさんがポポポ委員に対して損失させろなんて言うはずがないじゃないッスか!」

『すぐにわかるよ。僕もすぐには理解できなかったからね。ただ、その説明は後だ。さっきも言った通り、時間が無いんだ――アポカリプサー、ロアリングを――』

 ロアリング?

 黄泉寺は両耳を覆おうと手を伸ばしながら叫んだ。

「耳を塞いで! 竜が吠える!」

 刹那、天井が、壁が、床が鳴動した。人の意識を物理的に刈り取る竜の咆哮。動体検知を兼ねたポポポメカ一号のロアリングが、建物ごと黄泉寺たちを揺さぶった。

 暴力的な音圧に、人の手の平による覆いなど、何の約にも立たなかった。

 三半規管を一時的に破壊され、黄泉寺は強烈な目眩と吐き気に襲われた。目につく物すべてがぐにゃぐにゃと歪み、自分と一緒に世界が回っているようだった。

 絖瀬が頭を抱え、何かを叫んでいた。声は聞こえなかった。耳が機能していなかった

 椅子から滑り落ちた絆夏が、躰を痙攣させていた。床に転がる鍋神も白目を剥いていた。

 何とか躰を起そうともがいていた黄泉寺は、床を通じて、その音を聞いた。

 再び、轟音が部屋に満ちた。耐えられやしなかった。

 黄泉寺の頭が、ゴン、と床を打った。

 その音だけは骨を通じて聞き取ることができた。

 電灯が、大きく、ゆっくりと、長楕円を描くように揺れている。アルミ製の灰皿を逆さにしたような形のフード。フライングソーサーとはよく言ったものだと思った。

 黄泉寺は、じっとUFOの遊覧飛行を見つめていた。視界の方は相変わらずだが、激しい頭痛は消えていた。痛みを感じなくなっただけかもしれない。

 頬の下にあるはずの湿った毛布の感触もなかった。饐えた水の臭いも、カビ臭さもわからなくなっている。ふいに、鼻からぬるりと液体が流れ出た。思い通りに動かない腕をやたらめったに振り回して顔にやった。バチンと当たった。黒っぽい紅色。血だ。

 黄泉寺の手が、床に落ちた。重すぎたのだ。

 コツン、と鳴った。骨ではなく、耳で聞いた。

 ――音が戻ってきたのかと、黄泉寺はみぞおちに力を入れて吐き気をこらえながら、安堵の息をついた。

 竜の咆哮というのはこうも恐ろしいのかと思った。

 コツン。

 床を伝って靴音が聞こえた。気がした。

 また音がした。靴音だ。間違いない。状況からして沢木だろう。

 黄泉寺は酩酊したかのように鈍くなった頭で必死になって考えた。

 俺たちのことをポポポ委員だと言ったのに、なぜ。

 だぽぉぉぉん、という独特な、コラプサー弾の射出音が鳴った。足音が近づいてくる。

 思い通りに動かない躰に苛立ちながら、黄泉寺は扉に顔を向けた。足音が近づいてくる。もうすぐそこまで来ている。姿が見えた。

 ――沢木だ。

 部屋の入口に立つ沢木は、最後に会ったときと同じようなラフな格好だった。ただ、右腕は腕を丸々覆う奇妙な形の銃に突っ込んでいて、左手に銀色に輝くケースを下げていた。

 他に変わったところは見当たらない。サラサラの金髪も、女性であれば十人が十人とも網膜に焼きつけるだろう整った顔立ちも、変わりはなかった。

 沢木がケースを掲げて何事か言ったが、黄泉寺は聞き取れなかった。

 沢木は困ったような顔をして小さく肩を竦めた。テーブルの上の食料品を押しのけてケースを置き、右腕を奇妙な形の銃から引き抜き、ケースの留め具を外していった。

 と、沢木は何かを探すようにテーブルの回りを見回し始めた。床に落ちていた絆夏の九ミリ機関けん銃に目を留め、幽かに微笑んだ。拾い上げ、スライドを引いた。飛び出した弾が床で跳ねて硬質な音を響かせた。

 黄泉寺の耳は、その音を拾おうとしない。

 沢木は銃の弾倉を引き抜いて残弾を確かめ、横たわったままの黄泉寺の眼前に置いた。

 再びケースの元に戻り、開けた。十三インチのノートPCらのような端末と、折りたたみ式のプリンター、光沢のあるハガキ大の白紙を出した。

 沢木はPCを開き、スリープモードを解除した。プリンターを展開してPCに接続し、紙を数枚セットした。続いて黄泉寺のカメラからマイクロSDを抜き、PCに挿し直した。

 プリンターに紙が吸い込まれていく。

 写真を印刷しているのだ。

 印刷はものの十秒ほどで終わった。

 沢木は印刷された写真を見て微笑むと、一枚、ポケットにしまった。

「――そろそろ、聞こえるようになってきたかい?」

 そう訊ね、沢木は鍋神の服の後ろ襟を掴んだ。ずるずると絆夏のすぐ横まで引きずり、並べて寝かせた。

 天井を仰いだ沢木は左手を胸に当てて、ひとつ、深呼吸をした。

「それじゃあ、損失処理を始めようか」

 言って、沢木は奇妙な形の銃を黄泉寺に向けた。

「――僕は、できればキミを損失させたくないんだ。だから、キミが決めてくれるかい? 早くしないと他のポポポ委員がここに着いちゃうからね」

 決める? 何を? 俺の損失を?

 意識はまだ朦朧としていたが、黄泉寺は目の前の銃を握った。腕を伸ばし、肘を床で固定して、沢木の胸に狙いをつけた。

「や……めて……くだ……さ……撃ち……ます、よ……?」

 なんとかそれだけ言えた。気を抜けば舌を噛んでしまいそうだった。この非常事態にも、まずは警告しようと思った自分が滑稽だった。

 沢木は黄泉寺に微笑みかけ、まるで天気の話をするかのような調子で言った。

「うん。死にたくなかったら僕を撃つしかないよ。僕は黄泉寺くんの友達のつもりだから、他のポポポ委員に損失させるくらいなら僕の手でと思ってるからね。それを防ぐには、アポカリプサーの判断装置として、僕が撃たなくちゃいけない」

「い……しょに……」

 一緒にいけないのか。呂律が回らず、たったそれだけの質問も慎重に言う必要があった。

 沢木は右腕を覆う銃を黄泉寺に向けたまま、首を左右に振った。

「言ったよね? 黄泉寺くん自身が選ばなくちゃいけないんだ。このままだと僕は君を損失させる。君が僕を撃ってくれれば、僕は判断ミスをした装置として死ねる」

「だから、なんで沢木さんが死ななくちゃいけないんだって!」

 目の奥が痛むほどの怒りが黄泉寺の意識を覚醒させた。目を瞬き、照星を沢木の胸に重ねる。距離はほんの数メートルしかない。外さない。

 沢木は細く、長く、息を吐いた。

「実を言うとね、僕は、人間になってはいけない人間なんだよ」

「人間になってはいけない人間……?」

 照星の向こうで沢木が小さく頷いた。

「――小学生のころ、僕は学級委員をしていてね」沢木は記憶をなぞるように淡々と話した。「ひとり気になる子がいたんだ。教室の一番うしろ、窓際の席で、ずっと外を見ていた普通の子さ。その子が、ある日とつぜん学校に来なくなったんだ。心配したよ。友達としてじゃなくて、クラス委員としてだけどね。そしたら、何日かして、担任の先生に呼び出されたんだ」

 憔悴を隠しきれない顔をしていた教師は、言いにくそうにもごもごと口を動かしたという。

 沢木くん。あの子はいじめられてたりしたのかな。

「――自殺だったらしい。先生の名誉のために補足しておくと、先生は最後まで僕に尋ねていいのか迷ってた。クラスメイトの自殺なんて子供に聞かせる話じゃないからね。実際、聞かされた僕は混乱したよ。とてつもなく混乱した」

 沢木は頬の皮をひきつらせるようにして笑った。

「なんにも感じなかったんだ」

「……何も?」

「そう。へぇ、って感じで。まぁ学級委員として責任みたいなのは感じたかな。だからみんなに聞いて回ったんだけど、イジメなんてなかった。仲間はずれにされたりとかもない。ただ、授業で班を組んだりするときはよくても、遊びに誘うと断られるって話だった。僕はまた混乱した。いっそイジメがあってほしかった。納得がいくから」

 似ている、と黄泉寺は思った。まるで自分の話をされているような気分だった。

「僕は彼の家を訪ねたよ。引っ越しの準備をしてた。お母さんに会ったら、泣かれてね。『友達がいたのね』って。違うのに。友達のフリしたよ。『何か聞いてる?』『いじめられてたの?』『あの子は何か悩んでたりしてたの?』お母さんに何か聞かれるたびに首を横に振った」

 沢木は涙をこらえるように眉を歪めた。

「遺書はなかった。ある日、とつぜん、近くのマンションの屋上から飛んだ。彼はどこまでも普通で、何もかも空っぽだった。生まれて、死んだ。途中には何もなかった」

 沢木は銃口を下ろした。

「黄泉寺くんの写真の話、あのときは上手く流せたけど、刺さったよ。僕は彼の軽さに気づいたとき、強烈に何かを感じたんだ。でも、それが何だったのか、まるで思い出せない――失礼に聞こえるかもしれないけど、黄泉寺くんは彼とダブって見えてね。どうしても構わずにいられなかった。だって、そうだろ? 彼を飛ばせたのは、きっと僕なんだよ。気づいていたのに見過ごしたんだ。彼が飛べなくなるように、重しになれたはずなのに」

 沢木は両手を横に広げて言った。

「僕の〈人間的な話〉はこれでおしまい。――さぁ、お互い、ポポポ委員の仕事に戻ろうか。」

 沢木の断罪を求める言葉に、黄泉寺は顔を歪め、銃を下ろした。 

 ――引けない。

 引けるわけがない。黄泉寺の銃を握る手はぶるぶると震えていた。

 黄泉寺は激しい呼吸を繰り返していた。強い拍動が視界を揺らしていた。いくら息を吸っても楽にならない。銃のグリップを握る手に力が入りすぎ、指先は真っ白になっていた。

「――撃てませんよ。撃てるわけない」

「……そっか。じゃあ、これなら?」

 言って沢木は絆夏に銃口を向けた。まだ躰が小さいからなのか、意識は戻っていなかった。

「やめ――やめてくださいよ……なんで……」

「『たったひとつの冴えたやりかた』なんじゃないかな。僕はそう思う」

 沢木は悲しげな笑みを浮かべ、小さく息を吸った。

「五秒」

「やめてください」

「優先度を考えてみて」

「やめろって」

「三秒」

「本気じゃないんでしょ!?」

「二」

「沢木さん!」

「一」

 瞬間、黄泉寺は哮りながら立ち上がった。銃口を沢木の顔に向け、肩を押し込み、正確に狙いを定めたがしかし――

 だらりと両手を下げた。

「――撃てない。撃てません……撃てるわけないでしょ!?」

 なんでそうしなくちゃいけないのか、理解できない。納得がいかない。アポカリプサーにそう言われたからって、それを利用して、そのとおりに動く沢木が分からない。

 確かにポポポ委員に参加したのは自分の意志だ。

 盲目的にアポカリプサーに従ってきたのも自分だ。

 だけど、

「いますぐそれを下ろせ! 俺たちはアポカリプサーの人間的判断装置なんだろ!? だったらそんな……そんなの、言い訳にしかならない!」

 そうだ。

 アポカリプサーがポポポ委員に示すのはアポカプサーが統計に基づいて算出した優先度の判定でしかない。最終的に損失させるかどうか判定するのはポポポ委員自身なのだ。

 優先度が高いから損失させるとか、優先度が低いから見逃すなんていうのは思考停止でしかない。アポカリプサーから委ねられた判断装置としての役割を放棄することに他ならない。

「俺たち自身もアポカリプサーの一部なら、正解も間違いもないじゃないですか。優先度の判定なんて、俺たちが自分たちの責任を放棄できるように用意されたいいわけでしかない。決めるのは俺たちでしょ? ……だったら、もし沢木さんが絆夏ちゃんを撃つなら、それは沢木さんが殺したってことでしょ? だったら、俺は止めます。やめろって言いますよ。俺はアポカリプサーの一部だから、止めろって言ったのは、沢木さんが信じてるアポカリプサーの言葉ってことになる……違いますか?」

 叫ぶように言葉を連ねて、息が切れていた。いや、胸が苦しいのは、叫び続けたからではなく、思考停止して重ねてきた自分の罪を認めたからかもしれない。

 絆夏がいうカタキとは、アポカリプサーだ。

 黄泉寺はアポカリプサーの一部だった。

 だったら、断罪されるのは、絆夏を見逃した黄泉寺なのだ。誤って小さな子の父親を殺傷した絖瀬なのだ。いまなおアポカリプサーに罪をなすりつけようとする沢木なのだ。言い訳をやめようとする――自分たちに都合の良い世界を壊そうとする黄泉寺の死を願う、ポポポ委員全員が断罪されなければならないのである。

「……なら、僕はアポカリプサーの指示に従おうかな」

 ――まだ言うか! 

 と、顔をあげた黄泉寺は、沢木がそっと銃口を下げるのを見た。そして、

 ポーン、

 と、乾パンの缶の底からアポカリプサーの呼び出し音が鳴り響いた。

『プレフロンタルコーテクスの構築を確認。旧アポカリプサーから分離されます』

「……え?」

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