第35話 番外編 私が一番になる
番外編 私が一番になる
こんなに恵まれた生活が送れるようになるなんて、夢にも思っていなかった。
朝起きたらご飯があって、洗濯された綺麗なお洋服があって、たくさんの家族がいて。
学校にも通えて、お昼にはお弁当があって、学校が終わって家に帰ったら、嬉しいおやつの時間が待っている。
それから夕食の時間まで、みんなと遊んで、楽しい夕食の時間が終わったら、お風呂に入って、学校の宿題をやり終えたら、ふかふかのあったかいベッドで眠りにつく。
きっとここは、天国よりも素敵な場所なんだと思う。
私の生まれ育った村は、ノウティス領の奴隷村の中でも、特に条件の悪い村だった。
村の外の山や森には、どこにでも魔物がいて、自由に歩き回ることもできなかったし、雨の日や曇ってる日には、昼間でも村のすぐ近くに、魔物の姿を見かけることもあった。
今みたいに、家に帰るとおやつがもらえることなんてなかった。食事も大抵が一日に一度で、できるだけ早い時間に頑張って眠らないと、お腹が空きすぎて眠れなくなるなんてことも、しばしばあった。
月に一度、お城の兵隊さん達が村にやって来る日には、お家の中で静かに隠れてなければならなかった。私が十歳を迎えた辺りからは特に、お母さんは頑なに、外に出ることを許してくれなくなった。
逆にその日のお母さんは、夜遅くまで家に帰っては来なかった。奴隷兵として徴集されたお父さんは、私がもっと幼い頃に戦死していて、灯りをつけることも許してもらえない寂しい部屋で、一人で毛布を頭から被って、ひっそりとただ、時間が過ぎるのを待ってなければならなかった。
それでも次の日には、お母さんはすごく優しくて、ご飯もちょっとだけ豪華だった。
お母さんがどんな仕事をしているのか、最初はよく分からなかったけれど、今は分かる。
私ももう十二で、あと三年もして成人すれば、同じ仕事をして生計を立てていくことになるんだろうと、理解していた。
私だけじゃなく、周りの女の子達みんなが、それが当たり前なんだと思っていた。
それでも私は、それが不幸なことだなんて思ったことはなかった。だって、それ以外の世界を知らなかったのだから。
不幸だと思ったのは、いきなりやって来た兵隊さん達に、村が焼かれて、住む家を失ったときだ。
たくさんの人が殺されたのを見た。
お母さんと近所の人達と一緒に、森の中を必死に走った。
安全な道には兵隊さん達がたくさんいて、逃げる場所は、魔物の住処である森の中しかなかった。
兵隊さんは追って来なかったけれど、魔物は襲って来た。そこでもたくさんの人が死んだ。
お母さんも、熊の魔物に食べられた。どうすることもできず、声も出なくて、ただ怖くて震えていることしかできなかった。
お母さんが半分くらいになったときに、何人かのロードが助けに来てくれた。セラお姉ちゃんの部下達だった。
ちょっとだけ、助けてくれなくても良かったのにと思った。
もっと早くに助けに来てくれれば良かったのにとは、ずっと後になってから思った。そのときはただ、お母さんと一緒に死ねたら良かったのにとしか思わなかった。
それからセラお姉ちゃん達と一緒に、レインティアに逃げることになった。一緒の村に住んでいた人達が、どれくらいいるのかは分からなかったけれど、少なくとも周りには、見知った顔は一人もいなかった。
私を助けてくれたロード達は、レインティアに逃げる途中で、みんないなくなった。
私はきっと厄病神なんだと思った。
気がついたら、お母さんが死んでから、一言も喋っていなかった。
セラお姉ちゃんだけは、何度も笑顔で私に話しかけてくれた。怪我していないかだとか、お腹は空いてないかだとか、いろいろ。
その度に私は、頷いたり、首を振ったりして返事をした。どうしても言葉を発する気にはなれなかった。
ちゃんと話さなきゃいけないんだとは、分かっていた。ちゃんと口に出して、助けてくれてありがとうと言える相手は、すでにいなくなっていたけれど。そのことに気づいてからは更に、言葉を話すことが、億劫になっていった。
ガタゴトと馬車に揺られながらの旅路で、移り変わる景色は、目に入っては来なかった。
いつも同じ風景にしか見えなかった。
くすんで、灰色で、薄暗く、物悲しいだけの風景。
周りの子供達もみんな、進んで話そうとする者は、誰もいない。
ある者は私と同じに、俯いて黙り込み、ある者は呆然と空を見上げ、ある者は辺りをキョロキョロと伺いながら、いつもビクビクと怯えていた。
…ふと気がつけば、馬車がものすごい勢いで走っていた。やがて馬車が止まると、月明かりに照らされ、馬車を取り囲む巨大なサソリの姿が目に入ってきた。
セラお姉ちゃん達が、必死になって追い払おうとしているけれど、明らかに劣勢なのが分かる。周りの大人達も、諦めたかのように暗い顔つきをしていた。
ああ…ようやくお母さんのところに行けるんだ。
ぼんやりと、そんなことを考えていた。
そしたら…
薄暗く、灰色の風景の中に、見惚れるほどにキラキラと、輝く色が飛び込んできた。
いきなり現れたそれは、黒と灰色の景色の中で、白銀色に輝く、狼のような姿をしていた。
ゆらゆらと燃え上がるように、揺らめく体毛が、輝く細かな光を撒き散らしながらものすごい速さで、馬車に向かって大きな鋏を振り下ろそうとしていた巨大なサソリを、遠くに投げ飛ばした。
クルンと空中で宙返りしたキラキラの狼が、チラリとこちらに視線を向ける。
その力強い瞳と目が合ったとき、一気に、景色の中に色が戻ってきた。
まるで大雨が降った後に、太陽が大地を照らすように、暖かく、キラキラと煌めく世界が、視界いっぱいに広がってゆく。
暗く沈んだ胸の中を、感じたことのない不思議な想いが、キュッと締め付けたような気がして、思わずハッとして目を見開いた。
溢れる涙が止まらなくなる。
その後、狼人間…シュウお兄ちゃんは、魔物の群れをあっという間にやっつけてしまった。
馬車のみんなから歓声が上がる。その声を聞きながら、なんとなく、それまでと違う、何か大きな変化が起こったのを感じていた。
それが何だったのかは、よくわからない。わからないけれど、ただ一つだけ、絶対にやらなきゃいけないことがあると、強く思っていた。
助けてくれてありがとう、と…ちゃんと口に出して、言わなきゃいけないんだと。
それからは、毎日が楽しくなった。
次の日には、毎日魔物に怯えてビクビクしていた子が、魔物なんて怖くないと、強気に威張り散らすようになった。シュウお兄ちゃんと鬼ごっこをした、すぐ後のことだった。
その日のうちに、そんなこと言うんじゃありませんと、セラお姉ちゃんにこっぴどく叱られていたけれど。
次の日には、男の子達みんなが、シュウお兄ちゃんみたいな、ロードになりたいと言い始めた。
なれるわけがないのにと思った。だって、シュウお兄ちゃんはとっても強くて、楽しくて、優しくて、世界一カッコいいんだもの。
誰もシュウお兄ちゃんみたいに、なれるわけがない。これはもう、揺るぎない決定事項。
女の子達の何人かが、大きくなったらシュウお兄ちゃんの、お嫁さんになるんだと言い出したけれど…それも無理だと思った。
普通の女の子に振り向いてくれるわけがないもの。たとえ、どれだけ可愛くても。
シュウお兄ちゃんに似合うのは、可愛いだけじゃない、誰にも負けない特技を持った、特別な女の子だ。できれば、シュウお兄ちゃんに足りないものを、補ってくれる女の子がいいと思う。
そうだなぁ…たとえば、たくさんお金を稼ぐことができるとか、大事だと思う。
そうなると、上級ロードであるセラお姉ちゃんなんかは、ピッタリなんだろうなぁ…。すごく美人で、優しいし、ときどき怒ると怖いけれど、気遣いのできる、すごく素敵な女性だと思う。
マリカお姉ちゃんも悪くない。すっごく可愛いし、優しくて面倒見が良くって、いつも私達と一緒にいてくれる。それに伝説の竜神様で、とっても強い。
アリエルお姉ちゃんもいいと思う。マリカお姉ちゃんと同じ竜族らしいし、たくさんの部下を従えている。ちょくちょくアリエルお姉ちゃんを訪ねて来る部下らしい人達に、あれこれテキパキと指示を出している。アリエル商会っていう、商業都市アクロティアを拠点とする、大きな商会の主人らしい。
目下、私の一番の目標だ。商人になりたいと言った私に、商売のやり方を色々教えてくれると約束してくれた。
…今のままだと、私がいくら可愛くなっても、振り向いてなんかもらえない。もっと頑張らないと…。
あと三年もすれば、私も大人になる。だからそれまでに、もっと勉強して、アリエルお姉ちゃんに負けないくらいに賢くなるんだ。
それに、強くならなきゃいけない。
シュウお兄ちゃんのそばにいるには、賢いだけじゃダメだ。守ってもらうだけじゃダメだ。足手纏いになんかなりたくない。
シュウお兄ちゃんは、レインティアを救おうとしているらしい。そのために色々と頑張っている。
シュウお兄ちゃん一人なら、どうにでもできるんだと思う。戦って生き残ることも、安全な場所まで逃げることも。だけどそれだけじゃない。シュウお兄ちゃんは、世界を救おうとしている。
「自分達だけ逃げるわけにはいかない。マスターロードになれば尚更、責任ものしかかってくる。今さら部外者面できないからさ」
そう言ったときのシュウお兄ちゃんは、ここではない、どこか遠くを見つめるようにして、仕方なさそうに笑っていた。
「ま、なんとかするよ。とりあえず魔導具は、もうちょっと資金が集まってからになるけど。他にもやることはある。まずは…」
立ち上がったシュウお兄ちゃんの腰に、思わず抱きついてしまった。そんなにもみんなのことを考えているシュウお兄ちゃんが、すごく誇らしかった。
そうして、こんなにも身長差があるのかと、ちょっと落ち込んだ気分になった。
同年代の子達と比べても、私は小さい方だ。あと三年で、どれだけ大きくなれるのだろう。もしかしたら絶望的かも知れない。
シュウお兄ちゃんは、そんな私の頭を、よしよしと優しく撫でてくれた。その手はすごく暖かくて、落ち込んだ私の気持ちなど、あっという間にどこかに消し飛ばしてくれた。
そのまま腰に回した手に力を込めて、ギュッとシュウお兄ちゃんのお腹に顔を埋める。
すごく幸せな匂いがした。
チャンスがあったら、またこうやって抱きついてやろうと思った。…ちょっとズルい考えかも知れないけれど、子供の特権だもの。それくらいは許してほしい。なんかマリカお姉ちゃんがジト目でこちらを見ていたけれど…。
あと三年。あと三年経ったら、私もシュウお兄ちゃんの隣に立ってられる女になるんだ。
もちろん、たくさん頑張らなきゃいけない。シュウお兄ちゃんにも負けないくらい。
男の子達が始めた魔導具を使っての、ロードになるための特訓にも混ざるし、何より、商売人としてのイロハを、アリエルお姉ちゃんに叩き込んでもらうんだ。どんな困難にも負けはしない。私には、すごく大きな目標があるもの。
いつの日かきっと、私がシュウお兄ちゃんの一番になるんだ。
…そんなの、無理だって分かってる。だけどきっと、シュウお兄ちゃんなら、どんな無理なことでも、初めから諦めたりはしない。
だから頑張る。頑張れる。
私が一番になる。
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