30 遮る
※Aさん本人の希望で、場所などに若干のフェイクを入れております。
「あくまで、心霊といった類は面白がるぐらいで、完全に信じている訳ではないんですよね。」
理知的で思慮深く物事を客観的に見る、
Aさんらしいオカルトの捉え方であります。
私が働く老人ホームに入社されたAさん。
この方の冷静な判断力と深い知識に、いつも助けられてきました。
「何故、そこまで博識なのですか?」と伺った際に、
「ここに来る前に別の施設で介護をしてきたんで。」と教えてくださって、
ああ、だからかと納得したものです。
オカルトや心霊は一種の娯楽だと受け止めているAさんですが、一度だけ肝を冷やす体験をしたことがあるのだとか。
今から十数年前、B県にある6階建てのナーシングホームで働いていたAさん。
環境がよく、働くことに苦はなかったそうですが、ただ、一つだけ気がかりなことがありました。
それは、Aさんと別の階で働く、霊感が強い友人が会う度に話すこと。
ナーシングホームということで患者様のケアのためにフロアを巡回することがあります。
友人が巡回中に廊下を歩いていると、黒いもやもやとした得体の知れない影が突然視界に現れ、それは漂ったのち、病室にすっと入っていく。
その影が入った病室の患者は必ず、近いうちに亡くなってしまうのです。
不気味だ、と、怯える友人の話をAさんは、(自分には霊感はないし見たこともない。疲れでも出てたのだろう。)と、
どこか他人ごととして聞き流していたのでした。
ある日のこと。
時刻は丁度、深夜の2時あたり。
夜勤の巡回をしていたAさんは、Cさんという利用者さんの病室で足を止めました。
病室は入って手前にトイレ、奥にベッドルームがあります。
Aさんが足を止めたのは、Cさんの部屋のトイレの電気がついていたからでした。
その方は比較的自立しているのですが、歩行に若干の不安があり、過去に転んでけがをされたことがありますので、Aさんは見守りをすることにしたのです。
(最近のCさんは歩行も安定しているし、よっぽど怪我をすることはないだろう。)
そう考えたAさんは、直接トイレの中にお邪魔するのではなく、外から音などを確認するというかたちをとりました。
Cさんの病室があるフロアの全体は四角形で、壁沿いに病室が等間隔に並び、中央には中庭があって、四方をガラスの窓で囲んでいました。
丁度、カタカナの“ロ”のような形であります。
Cさんの病室の前には、窓に接するようにソファが置いてあるので、
Aさんはそこに腰を掛け、Cさんがトイレから出てくるのを待つことにしました。
特にすることがないAさんは、癖である腕組みをしながら、トイレから漏れている光をぼーっと眺めます。
疲れが溜まっていたのか、動かさない体の重みがずっしとのしかかります。
(なんだか、眠いな…。)
身体を左に倒し、瞼がゆっくりと落ちるままにして、Aさんは目を閉じました。
その瞬間、ぴきっと全身が固まってしまったのです。
それに驚き目を開けましたが、それ以外は全く動かせません。
普通だったらパニックになってしまう状況。
しかし、Aさんは「自分の意思で体が動かせないのはこんな感じなのか。」と初めての感覚を面白がり楽しんだそう。
たしかに、どこをどう動かそうとしても動かせないというのはなかなかない体験でありますから。
(これが金縛りか。)
あがいても無駄だろうと、自然に解けるのを待つことにしたAさん。
身体の力をすっかり抜いて平常心を保ちました。
その、Aさんの肩が、
突然後ろにぐっと引かれたのです。
それまでの余裕はどこへやら、血の気がさーっとひいていきました。
心臓が、どっどっと激しく鼓動し始めます。
肩を掴んだそれは、強い力でぐっと肉を握ってきたかと思うと、案外あっさり離れていきました。
何が起きているのか、背後には何がいるのか、それを確認しようにも、身体は動かせない。
いよいよ、自分がまずい状況に追い込まれていると実感したAさん。
ただ、なすすべなくCさんの病室を見つめることしか出来ません。
逃げたくても逃げられない、唯一の救いは視界に映るいつもと変わらぬ景色。
このままやり過ごせられたら、どれほど良かったでしょう。
(…え…?)
Aさんの顔面を覆うように、それは上から現れました。
それは、人間の手でありました。
黒色がかった肌で、関節部分がごつごつとした男の手。
その手は手の平をこちらに向け、小指から順に指を開いて視界を遮ってきたのです。
ちょうど、扇子が開くときのような動きをして、曲線の軌道に沿って消えていきました。
消えると同時に金縛りが解け、身体が動かせるようになり、Aさんは慌てて跳ね起きました。
状況が飲み込めず、困惑するAさん。
前触れもなく、トントンというノックが聞こえ、はっとして顔を上げます。
そこにいたのは満面の笑みを浮かべたCさんで、トイレが終わったという合図のノックをしていたのでした。
「とまあこんな体験です。後にも先にもそれだけでしたね。」
「それは…とても怖い体験ですね。夜勤中にそんなことがあったら耐えられません。」
「一瞬でしたけど、あの手ははっきりと覚えているんです。まあ、疲れていたので何かの影を見間違えたという線は捨てきれませんがね。」
恐ろしい体験をしたのに、いつもの調子で冷静に分析するAさんにほっとして、思わず笑ってしまいました。
「ははは。確かにそうですね。中庭に患者さんが迷い込んでいて、手を振ったりとかしてたのかもしれませんね。」
「ただ…。」
「ただ?」
Aさんは指を組み俯きました。
顔を左右に振り、額をぐりぐりと組んだ指に押しつけます。
しばらくして、口端を三日月のように釣り上げたかと思うと、ははっと息を漏らしました。
「私がいたフロア、3階なんですよね。」
「え…。」
中庭があると聞いていたので、私はてっきり、1階での出来事だと思っていました。
「いや、いやいや、中庭があると言ったじゃないですか。」
「中庭として植物などが埋まっているのは1階です。そこを上から眺められるようにとはめ殺しの窓が備え付けられてたんですよ。」
「じゃあ、てことは…。」
足場なんてない。
Aさんの後ろに人が立てる場所はなく、中庭から伸びた影が顔にかかることなど、あり得ないのです。
では、あの手は一体なんだったのでしょう。
辞めてしまった今、それを確認する手立てはありません。
そのナーシングホームは今でもB県のとある場所にあるそうです。
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