5 やぐるう
筆者は歳を重ねられた方が話される
その土地特有の訛りが大好きです。
普段聞きなれない言葉にその土地の歴史を感じ、ついついどんな意味なのか調べたり聞いたりしてしまいます。
このような趣味が高じて
介護の資格を取り高齢者施設で働いたことがあります。
これからお話しするのは、
今から5、6年前、
まだ介護士として
特別養護老人ホームで働いていた筆者が
体験したお話です。
愛知県は三河地方の
特別養護老人ホームで働いていました。
入社して数年経ち、
業務や介護にも慣れてきて、
馴染みの利用者さんとの関わりが
楽しくなってきた頃でした。
新人の頃からずっと同じフロアを請け負って
働いていますので
利用者さんの性格や好み、ご病気などが
カルテを見ずとも頭に入っております。
だからこそ、その体験は
ただの気のせいで片づけられるものでは
なかったのです。
その日は
早番(筆者の施設では早朝から夕方までの勤務のこと)でした。
お昼の休憩から戻ったとき、
Aさんが落ち着きのない様子でいるのを
見かけました。
このAさんについて簡単にご説明させていただきます。
Aさんは、愛知で生まれそだった
生粋の三河人で、人生経験が豊富な
ちょっとやそっとのことでは動じない
肝のすわった性格の女性です。
身体的な障害があり、
車椅子を自分の足でこいでご移動される方で、
それを理由に介護が必要だと
施設に入居されましたが、
年相応の物忘れ以外はしっかりされた方でいらっしゃいました。
そんなAさんが車椅子でうろうろと
右往左往されているのだから
何事かとすぐに話しかけました。
「部屋に行かなきゃ。
すぐにでも行かなきゃ。」
私はその言い方に少しぎょっとしました。
普段は姉御肌でちゃきちゃきと話される
Aさん。
それなのに、この時はまるで少しでも触れたら悲鳴を上げそうな、そんな怯えた様子で、
助けを求める子供のような口調だったのです。
「どうして行かないといけないのですか?」
と伺うと、
Aさんは私と目を合わせずに
「男の子がいるから。」
と答えました。
もちろん施設に子供なんているはずが
ありません。
そう説明しても全く聞かずに、
いや、私の声が聞こえていないような具合で
不自由な腕を使いタイヤを握って、
頑なに部屋に行こうとするのです。
普段ならこちらの話を少しでも聞いてくださるのに、全く聞き入れてもらえませんでした。
否定しては余計に混乱させるだけだと
私はAさんと一緒にお部屋に行きました。
すると、不思議そうに見渡して
「あら?さっきはいたのだけれど。」
とすぐに納得されたのです。
認知症の症状にしては、
あまりにもあっさりとした納得の仕方に、私はますます不思議に思いました。
「そうでしたか。まあ、Aさん。おやつでもたべませんか?」
彼女はお菓子が好きなので、
お茶をすれば落ち着くだろうとリビングルームにお連れしました。
Aさんはいつものように美味しそうに
おやつを召し上がられていて、
飲み込みも悪くないし、脳に何かあったわけでは無さそうだなと安堵して、
落ち着いた頃を見計らい、
興味本意でその男の子のことを聞きました。
「お部屋にいたのは、どんな子だったの?」
そんな具合です。
するとこう返されました。
「小学校低学年ぐらいの男の子だよ。
3、4年生ぐらいかなぁ。」
思っていたよりも具体的に見た目を答えられたので、確かにAさんには見えていたんだなと驚きました。
ますます好奇心をくすぐられた私は
続けて質問しました。
「その子、何をしていたの?」
Aさん、途端に暗い表情になって
シワのよった唇をにじりと開けて
こう、答えられました。
「“やぐっていた”の。
寝ている私がいる部屋に
わさわざ入ってきて、
私の、側で、やぐってた。」
ーやぐっていた。
それを聞いて硬直する私の前で
Aさんは震え始めました。
「早く行かなきゃ。
男の子がいるの。早く行かなきゃ。
お部屋に行きたい。行かなきゃ。」
あれだけ怯えながら男の子の様子を語った後に
その子の元へ行こうとする異様さ。
男の子に呼ばれている。
何故かそう思って
「食べた後すぐ横になると
気分悪くなるから」
とか
「先にトイレ行っときましょう」
とか
いつもと変わらないような風を装って
必死に止め、しばらくその場で休んでいただきました。
すると数十分後には
普段のAさんに戻られていたのです。
“やぐっていた”
この言葉の意味、ご存じでしょうか。
これは三河地方の方言なんです。
もともとの形は
“やぐるう”というこの言葉。
苦しみ悶える、という意味なんです。
例えるなら
背中の届かないところが痒くて
手足を滅茶苦茶に動かして
身をよじらせるような、
そんな様子を指した言葉です。
私は、
Aさんがやぐっていたと言った時に
見知らぬ男の子が
手足をばたつかせながら
悶え苦しんでいる光景が浮かび
ゾワッと鳥肌が立ったわけです。
私が見たわけではないので
その子があの世のものとは限りませんし、
Aさんの思い違いかもしれませんが、
個人的にはとても恐ろしく不思議な体験でした。
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