第25話 初恋



夕日が差し込む教室に、俺は駆け込んだ。



歴史の授業で出された宿題のプリントを置き忘れてしまったのだ。



A4プリントの両面に

びっしりと印字された問題文と、

いくつもの空欄。


そして、自分で調べて記述するようにと

設けられた大きな四角い枠に嫌気がさして

机の奥に入れてしまったのが間違いだった。



中学に入ると勉強のレベルが上がって、

宿題も増えると兄貴から聞いていたけれど、

まさかここまでとは思わなかった。



先生が言った

「成績に関わるから。」という言葉が、

数メートル先まで迫っていた家に背を向けさせた。




大人から子供扱いされるのは嫌だけれど、

勉強や責任からは逃れたくて、

都合よく子供であろうとしていた。



その考えの甘さを、初めて宿題を忘れた日に浴びた「高校いけないぞ。」という先生の言葉で知った。




週3回の活動しかしない将棋部の俺はないけれど、他の部活は熱心に午後の活動をしていた。



おかげでまだ施錠はされておらず、

職員室に寄らずとも教室に入ることが出来た。



(今のうちにさっさと宿題を持って帰ろう。)



椅子を引いて引き出しに手を突っ込み、

指先に触れた紙をつまんで引いた。



「…あ?」



引き出しから、しなって出てきた白い紙には、あの嫌になりそうなほど密集していた

ゴシック体の字がない。




代わりにボールペンで書いたであろう

がたがたの字が並んでいた。







『はじめまして。

 あなたはぼくを知らないでしょう。

 ぼくは少し前にあなたを知りました。

 その日からぼくはあなたに夢中です。

 ぼくはあなたが大好きです。

 これは、ぼくの初めての恋だと思います。

 あなたと仲良くなりたくて手紙を書きました。

 お返事待っています。』




その内容に、俺は赤面した。



(こ、これ、ラブレターってやつ!?俺に?誰が?いや…“ぼく”?)



そこで気づいたが、俺がいたのは自分の席ではなかった。


隣の、伊藤さんの席だった。




(やべ…。伊藤さん宛の手紙か。

それにしては、ちょっと雑過ぎないか?)



手紙をまじまじと見て、裏側から文字が透けているのが分かり裏返す。


裏面は面談のお知らせが印刷されていた。

日付を見れば、5年前のもの。



どっかで拾ったであろう紙の裏という適当さに反して、その文章はふざけた様子もなく、真剣さをにじませている。



(ま、何に書くかは自由だけどさ…。せめて封筒に入れるくらいしろよ。)



見てはいけないものを見てしまったという後悔に耐えかねて、送り主に責任転嫁する。



手紙はそのまま引き出しに入れた。



自分の机の中を探り、しわくちゃになっていたプリントを取り出して、鞄に入れることもせず、教室を後にした。












翌日、登校すると、伊藤さんが席に座って手紙に目を通していた。



俺は知らない風を装い、黙って席に着いたが、どんな反応をするか気になってちらちらと見てしまう。



もともと大人しい彼女。

無表情で黙って読む横顔からはなんの感情も読み取れない。



少しは驚くんじゃないかと思って見ていたが、そのまま何も言わずに

紙を鞄にしまってしまった。



細く華奢な腕が、たくさんの教科書を鞄から掴み上げて、使う順番に引き出しに入れている。



どうやらどうとも思っていないらしい。



それもそうだ。


差出人の名前もない、しかも拾ったであろうプリントの裏を使った変な手紙だ。

相手にする気すら起きないだろう。









帰りのホームルームが終わってチャイムが鳴る。


部活や家に行きたくてしょうがない俺達は、

挨拶が終わるとすぐ帰り支度をして、

先生の前では抑えていたくだらない話を吐き出しあった。



騒がしくなった教室の中だが、

友達の声がはっきりと聞こえる。



「おーい帰るべ。」

「おっす。今行くわ!」

「先玄関行ってるな。」

「おう!」



そう返して、俺は筆箱を鞄の隙間に無理やり押し込む。



ふと、伊藤さんの方に目をやった。


別に見ようと思っていた訳じゃない。


まだ帰り支度もせず座っている彼女は、目立っていたんだ。



上から見下ろせば、

まつ毛が長いこと、意外に唇が膨らんでいることが分かる。



伊藤さんは引き出しから取り出した教科書を鞄に静かに入れると、最後、水色のクリアファイルから一枚の紙を取り出して、空になった引き出しに入れた。



その光景に目を丸くしていると、

伊藤さんは鞄を持ってさっさと教室から出て行ってしまった。



返事を書いたのだろうか、それとも、たまたま明日提出するプリントを入れたのか。



気になって仕方ないが、この人ごみの中で確認したら、その行動をいじられてしまう。



明日早く来てその紙を見ることにした。










目覚ましのベルより早く目を覚ますことなんて初めてだ。


Tシャツを1枚だけ着た母さんも「今日は雪でも降るわね。」と驚いていた。




一番乗りで着いた教室。


個性のない机の行列の中、

手紙が入っているであろう伊藤さんの席だけは飛び出て見えた。



俺は念のため廊下を見回して誰も来ないのを確認してから、小走りで机に向かい、引き出しに手を突っ込む。


指先に、薄い紙が触れて、心臓が高鳴った。



自問した。


(黙って見ていいのか?)



でも、好奇心は抑えられない。


そこに書いてあった文字に、俺は落胆した。



伊藤さんの字ではないと分かる、がたがたに歪んだ字。


最初、俺が誤って見てしまった手紙と同じ字だ。



伊藤さんの反応が分からなかったのは残念だが、読めば分かるだろうと俺はじっと手紙を見た。




『お返事、ありがとう。

 とても嬉しいよ。

 あなたの名前は香純かすみというのですね。

 ぼくの名前を教えてほしいとのことでしたが、それは出来ないです。ごめんなさい。

 返事はまた、この中に入れてくれると嬉しい。

 返事をくれる優しい香純。

 ぼくはとても香純が好きになりました。

 きっともっと仲良くなれるはずです。

 また返事をください。』



香純、そういえば伊藤さんはそんな名前だった。



どうやら、伊藤さんは差出人不明の手紙に返事を書いたようだ。


たぶん、内容は簡単な自己紹介と返事の仕方が分からない、といったものだろう。



それにしても、勝手に見た俺が言えたことじゃないが、内容が気持ち悪い。


名前が言えないってどういうことだ。


それに、好きになりました、なんて。


一枚目の手紙から察するに、伊藤さんは送り主と面識がない。


正体を明かさずにこんなこと書くなんて、正直、気持ち悪いとしか思えなかった。







待ちに待った給食の時間。

向かい合わせになった伊藤さんの手元に目がいく。


いつもはゆっくりと食べているのに、今日は箸でこんもりとおかずを掴んで、ぱっぱと早く口に運んでいた。



あっという間に食べ終わったかと思うと、食器を片付けて立ち上がった。



「伊藤、もう食べ終わったのか?」



担任も驚いた様子で伊藤さんに問いかける。



「はい。すみませんが、席を離れてもいいですか?やりたいことがあるんです。」

「あ、ああ。えと、食べたばっかだから、運動とかは…。」



普段、はっきりと自分の意見を言うことがない伊藤さんに、まっすぐ目を見て言われ困惑したのか、担任は見当違いな注意をもごもごとした。



「しないです。大丈夫です。失礼します。」



短く静かに言って、伊藤さんは後ろの壁にあるロッカーに行くと、

鞄の中から封に入ったレターセットを取り出して口角をきゅっと上げ、耳を赤くしたまま立ち去った。



物静かで、無表情で無口な伊藤さんが、見せた初めての笑顔だった。




「お前話聞いてる?」

友達が5回ぐらい言った頃に、伊藤さんは戻ってきた。


胸の前で伏せてあるのは、両手が添えられた手紙。



彼女はクローバーの模様が描かれた緑の封筒を、そっと机の中にしまった。











部活終わり、

「忘れ物を取りに行く」と友達に嘘をついて立ち寄った誰もいない教室。


俺の手の中には、緑の封筒。



(流石に駄目だろ。)



心の中で唱えただけの静止する言葉は何の効力もない。



自分自身、こんな非常識な行動をすることに驚いてる。



だけど、あのへんな手紙にどんな返事をしたか、好奇心が抑えられなかったんだ。


そうだ。これは好奇心だ。冒険だ、冒険なんだ。


男子は気になったら抑えられないんだ。だから、しょうがないんだ。




シールをそっと剥がしていく。

粘着面と接していた柄が、針の穴ぐらい剥がれてしまったけど、これぐらいならセーフだろう。



封筒の中には1枚だけ入った便箋。

二つ折りにされたそれをそっと開く。




『誰かさんへ。

 名前を言えない事情があるんですね。

 残念ですけど、仕方ありませんね。

 手紙なんて書くの久々で、緊張してます。

 文字をかくのは苦手。

でも、思いを込めて書いてくれたのに、ただの紙で返事を書くのは嫌だったの。

変だね。一度も会ったことないのに、私、あなたのことが好きになってきてる。

分からない。恋なんて小説の中でしか見たことないもん。

でも、あなたに返事を書くためのレターセット選んでいる時、「あ、私、あなたのことが好きだ。」

そう思ったから、きっとこれは恋なんだと思う。

誰かに好きと言われるのが初めてで浮かれてるだけかもしれない。

でも、あなたの字、不器用だけど思いを伝えようとする文章にどうしようもなくひかれてしまったの。

名前を言えないあなたには無理なお願いかもしれないけれど、会いたいです。

あなたに会いたい。

私に会ってくれませんか?

お返事待ってます。

香純より。』



俺はそっと手紙を折りたたんで、封筒の中へ入れた。


捲れてしまったシールは、少しのしわが入ってしまったけど、しっかり貼りついた。









夜、眠ることが出来なかった。


純粋な伊藤さんの思いが詰まった手紙を、ただの冒険心で勝手に開いてしまったことに対する罪悪感のせいで。


それなのに、俺は馬鹿だ。


朝が来た時にはもう罪悪感が薄れて、(奴は、なんて返事したんだ?)そんなことを考えてしまっていた。


「あ、あんたまたこんな早くに起きて…。あ、ちょっと、ご飯は!?」

「いらない。」


母さんの目も見ずに家を出た。






朝の部活があったのに救われた。


7時30分だというのに、校舎は開き、教室は解放されていた。



入口で、ぴたっと立ち止まる。

一瞬、視界の端に、何かの影が壁に沿ってすっと上るのが見えたのだ。



(誰かいるのか?)



慌ててそこを見るが、何もいない。



(気のせいか。)



教室の時計を見上げて、ようやく俺は自分が馬鹿なことをしていることに気づいた。



(7時35分て…。こんな早い時間に手紙の返信持ってこれる訳ないだろ。何やってんだよ。他人の手紙覗くのに、早く来るって…。馬鹿だよ、ほんと。)



自分に対して舌打ちをして乱暴に荷物を置く。


椅子にどかっと腰を掛けて、天井を見上げた。



(ぼろい校舎。天井にヒビが入ってる。)



ボーっとヒビを眺めるうちに頭の中が空になると、俺は無意識に顔を左に向けた。



左には、伊藤さんの席。



(あるわけ、ねえよ。こんな早い時間に。)



否定するものの、手はするする伸びて、椅子の背を掴んでいた。



(ねえよ。あるわけない。)



そのままズーっと音を立てて引く。



(…あった。)



白い紙が2枚だけ、折って入っている。


それを指先でつまんで、自分の方に引き寄せた。


プリントの裏ではない。

真っ白なコピー用紙だ。


今までのようにプリントの裏よりはうんと見栄えが良いが、それでも手紙としてはちゃっちいもんだ。



(俺より先に来ていた奴がいたんだ。)



会いたかったような、会いたくないような。



そんな矛盾した気持ちを抱えながら、俺は紙をそっと開いた。




『香純。返事ありがとう。すごく嬉しい。

 紙も綺麗だ。本でしか知らない。封筒に入った手紙。

 何度も言うよ。ぼくはきみが大好きだ。

 ただ仲良くなれればと思っていた。

 会いたい、その言葉、本当に嬉しい。

 もちろん、僕もだよ。

 ぼくも香純に会いたい。今すぐに。』



まっすぐすぎる奴の気持ちがありありと書かれていた。


男の俺にも突き刺さる文章だ。



ただ続きが気になる。

そんな、アニメでも見るかのような軽い気持ちで手紙を読んできた自分を、この時初めて恥ずかしく思った。



(手紙を勝手に読むのは、これを最後にしよう。)



黙って1枚目を後ろに送って、2枚目に目を通した。



そこに書かれていた文章を、俺は冷静に読むことが出来なかった。






『ぼくは口が小さいから、いつもは校庭に生えた草を食べています。

 それと同じぐらい、香純を好きになれそうです。

 最近、足りてないんですよ。

 人が。人が。人が。

 早く香純を連れていきたい。

 なぜなら、こんなにも好きだから。

 誰でもいい訳じゃない。香純がいい。香純が欲しい。

 ぼくは今すぐにでも、この4本の腕で抱きしめたい。

 ぼくは足が無いけれど代わりにしっぽが沢山生えて地面を這えますからどこでも行けるのです。

 ぼくは壁の隙間を行ける程体が平たいので、学校中を案内出来ます。

 きっと香純も気にいるはずです。

 早く、香純を連れ去りたいです。どうか、返事をください。はい、とだけ書いて。』



読み終わる前に、気がつけば俺はその手紙を破いていた。



とにかく、この手紙を伊藤さんが読む前に消さなければいけない。

その思いでいっぱいだった。




跡形もなく破り、肩で息をしていると、どこからかじっとりとした視線を向けられているのに気づいた。



ひりひりと皮膚を刺すような視線の元を、辺りを見回して探す。



周囲には、何もない。

残るのは、上。



(いやいや、上って…。そんなわけ…。)



あり得ないと思いはしたが、意識すればするほど、頭上からひりひりするような視線を浴びているように感ぜられる。



ゆっくりと、顔を上に向けた。




天井にある細かなヒビの奥に、黄色い玉のようなものが見える。



それが何か見ようと目を凝らしたことを、俺は後悔した。




それは、目だった。



人間ではない、鳥のように丸い目。


その周りを、ミミズみたいにぐにぐにした肉が囲っている。


真ん中の瞳孔は淡い緑色で、一瞬大きく開いたかと思うと、瞬きを1回して、ふっと消えてしまった。




呆然として立ちすくんだ。



(一体今のは何だったんだ。少なくとも、人間じゃない…!)



視線を手の中に握りこんんだ手紙のかけらへと落とした。


頭の中で、2枚目の手紙にあった異様な文章がぐるぐると踊る。



(4本の腕…、たくさんのしっぽ…。冗談じゃないとしたら、手紙の主は人間じゃない。ば、化け物だ…!)



もう一度、俺は天井のヒビを見上げる。



(多分、あの目は奴の目だ。ずっとあそこから見て…。)





「はよーっす!」




驚き振り返れば、友達が教室に入ってくるところだった。



「どうしたんだよ!早くね!?」

「え、あ。」

「なぁにこぶし握っちゃってんの~。は?紙?」



だらだら歩いて近寄ってきたそいつは、俺の足元に目をやった。



俺ははっとして、床に散乱した千切れた紙を拾い集めてポッケにねじ込む。




「…なんでもねえよ。」

「ふーん。ま、いいや。…あ、そういえばさ、昨日のお笑い番組見た!?」




そいつは荷物を適当に置いて俺の席でべらべら喋る。


紙に突っ込まれたくない俺は、それを笑ったり、適当に突っ込んだりして相手をした。




数十分後、続々と登校してきたみんなにまぎれて伊藤さんが教室に入ってきた。


俺を見ると目をそらし、ささっと席について真っ先に引き出しの中を見た。



が、そこには当然だが、何も入っていない。


一瞬、彼女の目が潤んだかの様に見えた。


その目は、俺の心に暗い影を落とした。



帰りのホームルームが終わったというのに、伊藤さんは支度もせず、席に腰を掛けていた。

目線の先は、返信のこない引き出し。



この日以降、奴から伊藤さんに手紙が来ることはなくなった。













こんな話、一から順序だてて話したところで、信じてもらえるはずがない。



万が一、信じてもらえたとしても、そいつは俺のことを異形なものから伊藤さんを助けたヒーローだと考えるだろう。



そんな善意の満ちた思考は、俺を苦しめるだけだ。

だから、余計に俺はこの話を口外したくない。




あの時、紙を破って捨てたのは、

伊藤さんを助けるという正義からきたものではない。


奴の手紙を見た時に沸いた黒い気持ちによる、衝動的なものだった。


その行為は、俺の中にある汚さを突き付けるもので、自分に対し失望と嫌悪を感じている。




俺はヒーローも戦隊も好きだった。

なんなら今でも、漫画を読んでは、世界を救う主人公を応援している。



でも、あの時俺の中には伊藤さんを助けたいという思いは1ミリだってなかった。


代わりに泥みたいな黒い感情が沸いて、あの手紙を無我夢中で引き裂いた。



小学生の時、ドッジボールで球を思い切り当てられた時もこんな気持ちにはならなかった。



この感情にどう向き合えばいいのか、そもそも名前が何なのか、どんなものなのか分からない。


こんな気持ち抱いたのは初めてでどうしたらいいか分からない。



分からない、分からないけれど、

俺はたぶん、手紙の送り主が異形でなかったとしても、

きっと同じことをしたと確信している。



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