第26話 5月14日
今からここに記すのは、
片田舎にひっそりと建つアパートの一室が過ごした、5月14日の出来事である。
時刻は朝の9時を少し過ぎた。
まさに五月晴れというべきか、カーテンの開いた窓から太陽の光が差し込んでいる。
1DKほどの狭さだが、物は散乱しておらず、すっきりとしていた。
靴箱やクローゼットなどの収納が多いことはたしかだが、ただ設備が整っているだけでは、こうも整頓されない。
この部屋がすっきりとしているのは、綺麗好きの女性が住んでいるためであろう。
玄関前にはスリッパが揃えて置いてあり、リビングにあるカントリー調のテーブルに椅子がぴったりと入れ込んである。
整頓だけでなく、掃除も隅々まで行っている女性。
その範囲は、ついつい手を抜きがちな浴室にまで及ぶ。
掃除の最後に拭き掃除までするものだから、壁にも床にも水滴1つついていない。
テーブルの上に置かれた籠の中に積まれた、
ビニールで包装された市販のお菓子に、
唯一生活感を感じられる。
壁掛け時計が、午後の3時を指す。
肩程まで黒髪を伸ばし、ゆったりとしたワンピースをまとう女性が、窓の側に立って外の景色を眺めていた。
輝くような新緑が枝を彩り、小鳥が「チェチェッ」と鳴いて飛び去って行くのはなんとものどかである。
女性はくるっと半身を翻して、テーブルの側までくると、籠の中で1番上に積まれたクッキーを細い指で押す。
少し力が強いせいか、ビニールがガサガサッと音を立ててへこんだ。
彼女はただ押しただけで静かに手を引っ込めて、ぺたぺたとその場から離れた。
その足で女性は短い廊下を歩き、
スリッパのわきを通って素足で玄関まで行ったかと思うと、
ドアスコープに片目を押しつけて外をじっと見た。
しばらくそのまま静止してゆっくりと目を離し、振り向いて段差を上がる。
その時、揃えてあったスリッパの踵に左足の小指が引っかかり、
右側のスリッパが半歩前に出た。
女性はそのままキッチンや部屋をすり足で歩いてまわり、時たまリビングの天井を見上げて過ごした。
ゆったりと過ごしていても、流れを遅く感じるだけで時間は進むものである。
夕方の5時になった。
女性は浴室に入り、折れ戸を閉めて蛇口のハンドルをひねる。
キュッと短く音が鳴り、シャワーヘッドに開いた無数の穴からザーッと水が噴き出た。
角のない丸みを帯びた体を覆うようにして、水が落ちていく。
5分ほど浴びた彼女は戸を開いて浴室から出た。
リビングに戻った彼女は、壁に掛けられた時計を確認した。
カチッカチッと淡々として時を刻む時計。
長針が8を指し示し、5時40分になったのを確認すると、女性は天井を見上げた。
そこには、ネジ式のフックがついていたであろう小さな穴が空いている。
底を小さな黒目でしばらく眺めて、手元に目をやる。
何もない手の平を上に向けて両の指を軽く曲げる。
車のハンドルを回すようにくるくると手のうちにある何かを時計回りに送って、
両手の距離を左右にくっとひらき、
頭を通すような動作をした。
利き腕は右なのだろう。
椅子の背もたれに右手を伸ばし、
一番山になったところを掴んで手前に引く。
女性は華奢な足を、右左と交互に座面の上に乗せ上った。
そして、筒状に丸めた右手を頭上に持っていき、両手をうんと伸ばして何かを結ぶ動作をした。
いっぱいに伸ばした両手を首元まで下げ、
そこに顎を預け、足のつま先で椅子の座面を蹴った。
女性の足が空中でばたつく。
体をまとうワンピースがその動きに合わせて激しい衣擦れ音を出す。
その足は最後思い切り椅子の背もたれを蹴りつけ、動きが次第にゆっくりとなった。
そして、動きを止めたその足は、ゆっくりと前後に揺れる。
しばらくして、天井に吸い込まれるように彼女は消えた。
時刻は午後6時10分を回った。
すっかり暗くなった部屋の中に、鍵を開ける音が響く。
玄関のドアについたサムターンが半回転し、ドアが開いた。
「疲れた~。」と呟いて、
柔らかな茶髪をなびかせた女性が仕事から帰ってきた。
彼女はすぐに壁のスイッチを押して明かりをつける。
足元にある、乱れたスリッパを見て眉間にしわを刻み、半歩前に出た方を引き寄せてそろえ、足を差し入れた。
そのままパチパチと電気を点けて、部屋の隅に鞄を置き、リビングに向かう。
「あれ…。朝慌てて出たっけ?」
彼女は机から大きく離れた椅子の背を両手でつかみ、定位置へと戻した。
ふと籠の中のお菓子に目をやって、
一番上にあるクッキーを手に取ってビニールを破いた。
「あちゃー。袋の中で割れちゃってるや…。」
そう言って立ったままクッキーの欠片を口に運ぶ。
口元をもごもご動かしながら窓際に寄って外を眺めた。
今日は晴れたおかげか、夜空に浮かぶ三日月が白く輝いている。
その美しさに微笑むと、静かにカーテンを閉めた。
彼女はクローゼットの中から、肌着とパジャマを選んで取り出し、腕に抱えて浴室へ向かった。
会社という戦場がため、自身の体をきつく締めあげていたストッキングやヘアゴムを外していく。
身が軽くなると同時に、仕事のプレッシャーからも解放されたような、清々しい気持ちになったようで、固い表情が緩んでいた。
彼女は折れ戸に手をかけて開き、その穏やかな顔をひきつらせた。
昨晩掃除をして、水滴1つ残さぬよう拭いたはずの浴室が、
辺り一面水浸しになっているのだから当然のことである。
換気扇のスイッチを睨みつけて「ちゃんと効いてんのかな…。」とぼやく。
シャワーヘッドを睨めば、そこからぽたぽたと水がしたたり落ちていた。
「壊れちゃったかな~。嫌だなあもう。
あれ、ちゃんと閉まってないじゃん。
緩んでるの~?」
ぶつぶつ文句を言いながら、濡れた床へと足を運び、ぴったりと戸を閉めた。
慣れた手つきでつまみを倒せば、
ザーッっと音を立てて、シャワーから水が噴き出した。
シャワーの水は女性の髪を濡らし、肌を伝って足にまとわりつきながら排水溝に流れ込んでいく。
脱衣場から見れば、すりガラス状になったドアが、浴室内の熱気によって白くくもっていくのが分かる。
さて、立ちこもる湯気と同じように、
折れ戸の前へぼんやりとした白い影がゆらゆらと集まってきた。
もやもやと揺らいでいたそれは次第にまとまり、あのワンピースを身にまとった女性へと変貌した。
両の腕をだらりと体の横へたらし、俯いて立っている。
彼女は頭をゆっくりと回転させ、
浴室の方へ向けたかと思うと、
体は動かさず、首をぐうっと伸ばして、
ドアにびったりと顔を押しつけた。
しばらく眺めた女性は、
今度はゆっくりと首を縮めていき、
最初の俯いた姿勢に戻って、ぺたっぺたっと去っていった。
ただ去っていたのではない。
一歩一歩、歩くごとにつま先から消えていき、とうとう煙のように姿をくらました。
ガララッと折れ戸が開いた。
茶色い髪の先からぽたぽたと水滴を落としながら、女性が出てきた。
ふわふわのバスタオルで髪と体をしっかりと拭き、別のタオルを引っ張り出して頭を包む。
肌触りのよい肌着とパジャマを身にまとって、数歩進んだ彼女は眉をひそめ、その場にしゃがんだ。
数センチ先の床に手を伸ばして、気分を害した原因をつまみ上げる。
彼女の指には、黒く長い一本の髪の毛がつままれていた。
少し眺めて首をかしげ、それをゴミ箱に捨てた。
この日から1カ月経たないうちに、この部屋の住人は出て行ってしまった。
家族にも友人にも、「今の部屋、狭いけど収納多くて住みやすいんだ!」と自慢していたのに。
5月14日になると突然前触れもなく現れる黒髪の女性を、この部屋は毎年見続けている。
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