第20話 管を通る



駅近くの居酒屋の個室席はすでに満席である。



仕事を終えた他人同士のサラリーマンが間隔を詰めて、カウンター席に座るほどの繁盛ぶりだ。




店員を呼ぶ声と酔っ払いの大きな笑い声、

下品な冗談が酒の臭いと共に店内に散漫していた。




早めの集合が功を奏した2人組の男子大学生は、混みあった店内の4人掛けの個室でゆったりと酒を呑んでいた。



大分話しつくし話題が切れたらしく、

鮭の皮を食うか食わないかといった結論の出ない雑談で場を繋ぐが、

最初こそ面白かったものの次第に沈黙が増えとうとう沈黙してしまった。



ビールが5センチほど残ったジョッキを持ち上げて、隼斗はやとは空を見上げながら言った。



「苦手なものかあ?なんだろな。」



突然話し始めた隼斗を向かいに座る亮太は

(ああ、大分酔いが回っているな。)と冷めた目線を送った。


弱いからほどほどにしておけと言ったのに、今手にした4杯目のビールを空にしようとしている。


酔いでぼんやりしている隼斗は、隣の席で大声で話している集団の話題が耳に入って、それをあたかも自分に投げかけられた疑問だと勘違いしてしまったらしかった。



自分自身も酔いが回っているから、

そんなこと聞いてないと訂正するのも面倒だと

亮太はそのまま流す。



「俺は思い浮かばねえよ。亮太は?」



放っておけば静かになると思っていたのに、話題を振られてしまった。



仕方なく回転が鈍くなった頭を使って、

自分が苦手なものについて考えをめぐらす亮太。


そうして、最初に思いついたシチュエーションを答えた。



「俺はあれだな。インフルエンザの検査みたいなやつ。あれだめ。」

「へー。そうなんだあ。」

低く太い声が相槌を打つ。

「あー、あれかあ。俺もダメだ。」

「テレビで鼻から胃カメラ入れるの見たんだけど、あれも無理。あの細長い管みたいなやつが神経詰まって敏感なところにぐりぐり入ってくるのマジで無理。内側なんて抵抗しようないじゃん。」

「うわぁ。細かくいうなよ…。なんか痛くなってきたわ。」



隼斗はインフルエンザの検査で使うあの白い棒が鼻の奥を通る時を思い出し、つーんとした痛みを感じて鼻梁びりょうを擦った。



「ごめんごめん。」

「今ので酔い覚めたわ。」

「じゃあ、きりもいいしそろそろ帰るか。」

「おう。じゃ、俺出すから1000円で良いよ。」

「まてまて。それは悪いって。ほら、きっかり半分な。」



亮太はお札を差し出して、

さらに財布から1円単位まで正確に割った金額分の小銭を手渡した。



「細かい~。ま、もらっとくな。」



実は隼斗は憧れの俳優がしたというスマートな支払いをしたかったので、その小銭を内心しぶしぶ受け取った。



2人は店の出先でそれぞれの家路へと別れる。

隼斗はすぐ側の駅に向かって、亮太は少し先にあるアパートへと歩き出した。



深夜0時半。



暗がりの中、探らずとも位置が分かるスイッチに手を伸ばして電気を点ける。



玄関の淡い光が、遮りのない狭い部屋まで照らした。



居酒屋からアパートまでの距離を歩いているうちに酔いは覚めている。


玄関横のシャワールームに向かい、服を脱いで洗濯機に放り込む。



汗をかいたわけではないが、時間帯を理由に日課のシャワーを諦めることは彼の性格上難しいことだった。



1日の終わりにシャワーを浴びたいというだけであって、掛ける時間や洗う順番にこだわりがあるわけではない。



汚れた訳ではないからと軽く体を流す気でいた。




年が若い彼は、激しい運動をせずとも酒を呑んで体が火照れば頭皮に脂がにじむ。



水圧を上げてシャワーヘッド掴んで頭上に持っていき、爪を立てて髪をゆすぶった。


勢いよく降り注ぐシャワーの水がべたつく脂を押し流していくのが心地いい。



内側を水が通る振動でシャワーホースが細かく震えている。


頭上から降り注ぐ水が耳の裏を伝う。



流されきれなかった水が耳の溝を通って穴に触れた瞬間、

亮太は慌ててシャワーのスイッチを切り、

投げ飛ばすようにシャワーフックに掛けると頭を激しく振って耳を塞いだ。




耳に水が入るのが嫌だったわけではない。




頭から流れ落ちてきた水が耳の穴に触れた瞬間、シャワーから出ている水が固いゼリーのようになった。



その異質な物体はどろどろと頭皮に沿うように垂れていくかと思えば、自分の耳の中にぐぐっと入りこもうとくる…そんな風に感じて慌ててシャワーを自身から引き離したのである。




唖然としてシャワーを見るが、

ぶつぶつとあいた小さな穴からはゼリー状のものは少しもついておらず、

しっとりと濡れているだけ。



気がつけば自分の髪からも、

ただの水が水滴となってしたたるばかりである。



酔いが思っていたよりも回っていたのかと思ったが、あまりに気持ち悪い感触がはっきりと体に残っているわけで、再度頭を振って手で体についた水滴を払って浴室を後にした。




その日からである。亮太の日常は、妙な感覚によって侵されるようになった。







電車で通学中、音楽を聴こうとスマホに差し込んだイヤホンを耳に当てた。


聞きなれた曲は、次第に歪んでメロディーも歌詞も聞こえないただの振動に変わると、それがだんだんと強くなり、耳の中をどんどんと揺らした。



また、階段の丸い手すりを掴んで上っていると、内側を何かが通っているような振動が伝い、自分に向かって迫ってくるのだ。



とにかく、彼は細長くそれでいて何かを通せるような空間があるもの、つまり管を見たり意識したりするだけで、

何かが自分を脅かしてくるような嫌な感覚に襲われるようになり、とうとう生活がままならなくなってしまった。








ある土曜日の夜。


隼斗の部屋のインターホンが鳴らされた。




突然のことに驚きつつ、テレビを見るゆったりとした時間を邪魔されたことに苛立った彼は、玄関に向かってドアスコープを覗く。



そこに立っていたやつれた男を見て目を見開くと、一度目を離し少し考えてもう一度その男の顔を確認した。



目にクマができ、頬がこけてはいるがそこにいたのは友人の亮太であった。


最近大学を休みがちで会えていなかった友人の突然の訪問に驚いたが、速やかに鍵を開けて招き入れる。




「おう、亮太どうし…。」

「どうしてくれんだよ!」


玄関に上がり込むやいなや、亮太は隼斗に掴みかかった。

痩せた体からは想像もつかない強い力である。


「お前のせいで、お前のせいで!」

「ど、どうしたんだよ。落ち着けって!な?」



普段は穏やかな亮太の鬼気迫る剣幕に気圧されて、強気な性格の隼斗も弱弱しい声で必死になだめる。



「とりあえず…座ろう。な?」



亮太は静かに頷くとテレビがついた明るいリビングに向かってすり足で向かった。


そのあとを静かについていく隼斗。



2人は机を挟んで対面に座り、隼斗はテレビを消した。



「で、どうしたんだよ。何があったんだ?」

「…。」

「最近大学休んでるし、みんな心配してたぞ。」

「…。」

「俺のせいって…。何しかしたか?教えてくれよ。」

「…居酒屋、覚えてるか?」

「居酒屋…。あ、ああ。1カ月ぐらい前に行ったな。それがどうし…。」

「そうだ…そうだよ…!あの時、お前が変な話題振ってきたせいで、そのせいで俺は細長いものが体に入ってくる妄想をするようになったんだ!お前があの時言わなければ!」



机に手をつき、前のめりになって目をかっと開き隼斗はに噛みつくように大声で捲し立てる亮太。



「ちょ、ちょっと落ち着けって!勝手にヒートアップすんなよ。順をおって説明してくれよ!」



亮太は鼻息を荒くしながら、

居酒屋で隼斗から苦手なものは何か聞いてきたこと、それに対し管みたいな細長いものが体の中に入ってくるのが苦手だと答えたその日の夜から、

得体の知れない何かに侵食されるような嫌な感覚に襲われるようになり、生活がままならなくなったことを訴えた。



「お前が、あの日、苦手なものなんだって聞いてきたせいで、気持ち悪い感覚に悩まされて…。意識するようになったら蛇口も水を通す管みたいなもんだろ?コンビニのバイトも辞めざるを得なくなって…。」

「亮太、何言ってんだよ…。」



一息に喋り肩で息をする亮太を呆然と見ながら隼斗は言った。



「あの話題を振ったのは…お前じゃなかったか?」

「…は、はあ?」

「お前が突然、苦手なもの教えてよって言ったんだろ。急に何言いだすかと思ったけど、水を差すのもなんだし話にのってあげたんだよ。」

「は?何言ってんだよ。お前からだって!」

「いや、亮太が言ったよ。…亮太の声だったと思う…。いや、このまま考えても平行線だ。お互いに疲れてたんだよ。な?」

「…。」

「もう遅いから寝よう。」

「どういうことだよ…。だって確かに隼斗から…。」

「亮太、布団敷くよ。寝るんだ。クマ酷いぞ。

お前、真面目な性格だから考えすぎただけだって。な?」



隼斗は優しく亮太の肩を叩く。



「分かった…。そうだな。寝る。寝るよ…。」



隼斗は机を片付けて寝支度を整える。


寝巻のジャージを貸そうとしたが、亮太は袖やズボンの足を見ると激しく首を振って拒否した。



よく見ると、服は何日も替えていないようである。



(明日、銭湯でも連れて行ってやろうかな。)

隼斗はそんなことを考えて「おやすみ。」と消灯した。




深夜、突然隼斗は目を覚ます。

頭が少しずつ冴えてくると、隣から亮太のうめき声が聞こえてきた。



何かあったかとそちらを見て「どうした?」と声を掛けようとしたが言葉が出ない。

それどころか、ぴしっと体が硬直し動けないのだ。



目の前には仰向けに寝ている亮太がいる。

苦悶の表情で身をよじる彼がかっと目を見開いた。

その目は足元を見つめ、わなわなと震えている。



隼斗は唯一動かせる目を動かして同じように足元に視線を向け、凍り付いた。




壁から太いミミズ…いや、イソメのような細長い触手が数本生えてうごめいている。



それはするすと布団の上を滑っていく。



「…めろ、やめろ…!やめてくれ!」



懇願する亮太の声も聞かず、小指ほどの太さのそれが彼の眼前に躍り出た。



脈動しながらゆっくりと、耳、鼻、口へと入り込んでいく。



「うぐっぐ…ぐがあ!」



こもった声で叫ぶ亮太に容赦なく入り込んでいく触手。


次第に声が聞こえなくなると、亮太は白目を剥いて激しく痙攣した。




その光景を直視できなくなった隼斗は目を閉じ意識を手放して、体が布団の上でのたうち回る音を聞きながらそのまま気絶してしまった。





目が覚め、全身に汗をかいて起き上がる。



「はあ…はあ…。は!りょ、亮太!?」



慌てて隣を見ると、そこは抜け殻のように口を開けた布団があるばかりで、家の中のどこを探しても彼は見つからなかった。



電話もSNSも繋がらない、音信不通となってしまったのである。



大学から、亮太が一身上の都合で退学したと聞かされたのは、その1週間後のことだった。









隼斗は駅近くのハンバーガー屋に立ち寄っていた。

CMで見た新作を食べたくなったのである。




「お持ち帰りですか?」



近くに食べられるようなベンチはなく、

家に着くころには冷めてしまうだろうと考えて、隼斗は「ここで食べてきます。」と答えた。



トレーを持って席に着き、カップにストローを刺してコーラを一口飲む。



後ろの席にいるのは女子高生だろうか。


高い大きな笑い声を上げながらしゃべっている。




(うるさいな…。)




そう思いながら、セットのポテトに手を伸ばした時である。




「苦手なこと教えてよお。」




甲高い女子高生の声に混じって、太く低い性別の分からない声が言った。



その声を聞いて、隼斗の手が止まる。



そして、恐る恐る後ろを振り返った。



4人掛けの席に座っている女子高生の集団の側に真っ黒な影が立っている。




「えー?苦手なやつ?なんだろ。」

「私ね、黒板ひっかく音!あれ駄目!」

1人が告白した時だった。



真黒い影の恐らく頭であろう部分の口もとが裂けて、赤黒い舌のようなものが覗きかすかに動いた。



「へー。そうなんだあ。」




隼斗は静かに姿勢を元に戻すと、ハンバーガーとポテトを掴み、カップを握りしめて店から飛び出た。





あの女子高生の行く末を思うと不憫ふびんでならないが、対策が分からない限り救いようがなく、逃げることしか出来なかった。




確証があるわけではないが、あの影は亮太に憑りついたものと同じものだと隼斗は思い、身の危険を感じて店を飛び出したのである。




そして、居酒屋にいた時に苦手なものを聞いてきたのは亮太ではないことに気づいた。



なぜなら、「苦手なもの教えてよお。」と言ったあの声は、居酒屋で聞いたものと全く同じだったからだ。



何故、亮太のものではないあの不気味な声をすんなり受け入れられたのか…。

今思い返すとおかしい話である。




きっとあの影は、ああして無差別に人を選び苦手なものを聞いて、白状した者に憑りついては体を乗っ取ってしまうのだろう。





人の波の中、影に怯えながら無意識に握りしめた拳の中で、

ハンバーガーがグシャッと悲鳴を上げて潰れた。




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