第18話 井戸の神様



こうして鉛筆を握り、机に正面から向かって背筋を伸ばし、誰かへの宛でもなく文章を書くのは一体いつぶりだろうか。



独白の為に書くというのに、見知らぬ誰かへの手紙でもあるかのようで、鉛筆を握っては置き、考え込みを繰り返し、二十分も過ぎてしまった。



妻に恥を忍んでこの便箋と封筒を買ってきてもらったが、ご丁寧に花柄がついており、気恥ずかしくもある。


特に誰かに書くというわけではないから適当に頼むとは言ったが、まさかこんなに可愛らしいものを買ってくるとは思わなんだ。



普段はしっかり者で気が利く妻が、浮かれて少し高めのお洒落な便箋を買ってきたのは、頼んだ時期が悪かったのかもしれない。




先日、長女の美佐子のところで孫が生まれた。

元気な男の子だった。



美佐子の体調が落ち着いてから面会に行き、

赤ちゃん用のベッドですやすやと眠っていた孫。

目に入れても痛くないとはこのことかと、頬が自然と緩むのに任せた。



病院着に身を包んだ美佐子に促されて抱きかかえれば、

茶色くしみの目立つ腕の中で、柔らかく瑞々しい孫が呑気にあくびをした。


その姿に目頭が熱くなって、何も言えなくなった。



待ち望んでいた訳ではなく、結婚も出産も美佐子の人生だからと気にしてはいなかったが、いざ、孫が生まれると、まるでこの日が来るのを幾何年も待ち望んでいたような気持ちになったのには驚いた。



妻は待ち望んでいたのか、張り切って今も赤ちゃん用の服だの哺乳瓶だのと買い集めている。

あまり顔を出すなとは言ったが、あの浮かれようだと聞いていないだろう。



この様子だと、しばらくこの老体の存在はないものとして扱われるだろう。

寂しいことではあるが、今は好都合でもある。



なぜならこれから書くことは、誰かに見られてはいけないものだと思うからだ。




孫のこの腕に抱いた時、その愛らしさに涙腺を熱くした。

だが、私はそんな思いに浸っていいいような立派な人間ではない。


幼き命に感動するなんてことは、自分には許されていないことなのだ。




自分の子供が生まれた時は、仕事が忙しく生活を守ることに必死だった。

今は縁側で爪切りするぐらいしかやることがない。

要は一人で過ごす時間が長くなった。



孫の誕生は嬉しかったが、同時に私に忘れようとしていた過去を思い起こさせた。

妻が孫のことでうきうきと出かけて一人になる度に、幼少期に見た過去の亡霊に取りつかれ、心が沈むのである。



何か出来ることがあったのではないか、ただの傍観者でしかいられなかった自分を今になって責めている。



誰かに話せば、孫が生まれて幸せであることを罪だと糾弾されそうで恐ろしい。



罪人でありながらそれから逃げたいと望んでいる甘さに呆れるが、

あの日のことを書くことで心が少しでも楽になるのではないか、そんな藁にもすがる思いで鉛筆を握っている。








自分が幼かった頃、日本はまだ二・二六事件が起こる前で、過激な軍の思想がまだ庶民には根付いていなかった。


子供の目から見れば平和であったように見えた。

過ごした環境がそう思わせたのかもしれない。



田舎の村にあった私の家はいつも明るかった。

それは、ある種の余裕から来ていたのだろう。



代々続く百姓で家は金銭面ではあまり恵まれていなかったが、裕福な生活を送っていた。


それは実家の敷地内にあった井戸のおかげである。



村では水を得るのに水桶を担いでわざわざ山を登らなければいけない。

しかし、家のど真ん中に井戸があり、そんな苦労などいらなかった。


井戸水が沸いた経緯を何度も祖母から聞かされてそらで言える。


父を身ごもった時、祖母の夢枕に白い光に包まれた女性が現れて「庭の真ん中を掘ってください。」と頼んできた。


その言葉通り掘ったところ、湧き水がこんこんと出てきたのだとか。


その水は冷たくほんのり甘くて美味しいものだった。



父を身ごもるまで出産に難があった祖母。

しかし、その水を飲むようになってから子宝に恵まれてどれも安産であった。

不思議なことに、子供が生まれる度に水は清く美しくなり勢いが増す。



神様からの授かりものだと、屋根付きの立派な井戸をつくって村に開放したところ、山に登るよりずっといいと村人がこぞって来るようになり、水のお礼に野菜や肉やらをもらうようになった。


ただの百姓でありながら、生活は裕福になったのである。



そんなわけで実家では井戸のことを「井戸神様」と言って崇め、大事にしていた。




井戸に神様がいるということを実感したのは、ある夜のこと。


当時三歳だった私は夜中にふっと目が覚めた。

どうも外が眩しくて仕方ない。

中庭で何かが光っているらしかった。


両脇に寝ている兄達を起こそうとするがピクリともしない。


いったいこの光は何だろうと障子を少し開けて見て目を見張った。



真ん中にある屋根がついた井戸の周りで、蛍ぐらいの大きさのまばゆい光がふらーふらーと揺れているのだ。

それはただの光であったけれど、その場から動かずにこちらを見ているように感じた。

あまりの美しさにずっと見ていたが、しばらくしてふっと消えてしまった。


井戸の神様は僕たち子供を見守ってくれていたんだ、とその時は思った。




井戸と過ごし、成長して五歳になった時。


母が子供を身ごもった。


上に兄が四人いて可愛がられながらもこき使われていた私は、自分の下に兄弟が出来ると聞いて喜んだ。

どんな遊びが出来るだろう、何を教えてやろうとわくわくして大きくなった母の腹を擦っていた。



数日後、無事に男の子が生まれた。

可愛らしい赤ちゃんとあまりの柔らかさに驚いた。


その日はせがんで父と母と赤ちゃんがいる部屋で一緒に寝ることになった。


早く寝なさいと言われたが、弟が可愛くて仕方ない。

隣でにまにましながら眺めていた。




両親の寝息が聞こえてきた。

もうすっかり夜中。



そろそろ自分も寝ようと目を閉じようとした時、眩しい光が目に入ってきた。



あの、中庭の方からである。


直感で、あ、井戸神様が来たと思った。

光はどんどん大きくなり、障子に近づく。


障子の格子の影が落ちて、弟を囲む。

一人でにすーっと障子が開いた。



あっと息をのむ。

光だけだと思ったら、そこには見知らぬ女が立っていたからだ。


白装束ではない白い着物に身を包み、長い髪の毛をゆらゆらと水中のように漂わせている。

その顔立ちは整っているが、目に光はなく落ちくぼんでいた。



美しい光に包まれているというのに、私はその女に底知れぬ恐怖を抱いた。



その女はまっすぐと弟を見ている。



何かする気だと思ったが、私は恐怖で寝たふりをしてしまった。

かばおうと思えば、体を動かし盾となって守ることが出来たのに。

女が気づいていないことを良いことに、私は薄目を開けて寝たふりをしたのだ。



女は、弟のことをしばらく眺め、下瞼をぐっと上げてにたあっと笑うと、ゆっくりとすり足をして近寄り、覆いかぶさった。



細く骨ばった指を頬に這わせてぐっと掴むと、蚊の鳴くような細い声で一言。



「やあっと会えましたわ。リュウタロウ様…。」と呟いた。



聞いたことのない名に唖然としていると、すやすやと眠っていた弟の目がカッと開いた。



そして、野太い男の声で「うああああああ!」と叫んだのだ。



そのすさまじい悲鳴に、私は気を失った。




翌朝、母の泣きわめく声で目が覚めた。

弟が息をしていなかったのだ。

血色のよかったはずの顔は青白くなり、母の腕の中でぐったりとしている。



医者が来て言った。

高熱が出たのだろうと。

なぜなら、弟は全身ぐっしょりと濡れていたから。



その日から井戸水は少しずつ枯れていき、とうとう出なくなった。








今でも思う。


あの日、弟を救えたのではないかと。


でも、私は保身に走り、弟を見殺しにしたんだ。


その罪悪感が今でも巣食っている。



孫が生まれてめでたい空気の我が家。

こんな時に誰かに話すことなどできやしない。

不謹慎だと怪訝な顔で見られて終わりだ。



せめてもの救いをとここに書き捨てる。

誰かに見られぬよう、押し入れの奥にしまうことにしよう。



愛する孫が無事に成長することを願ってやまない。






平成四年 六月 二日 火曜日 

郷田卓男  ここに記す

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