第17話 目覚める



『続いてはエンタメコーナー。

最初に飛び込んできたのは、俳優の松岡透也さんと女優のみくりさんの熱愛報道です!』



学校がある日は見ることがなかった芸能ニュースのコーナーを、

体操座りをしながら椅子の上でぼーっと眺めていた。



ここのところ続く猛暑のせいではない。

現に今、この部屋にはクーラーが聞いていて涼しく快適だ。



元凶は昨日、ハンドボール部のグループチャットに届いたメッセージ。



“顧問から連絡!台風が来るから、明日の部活は中止だって。”



あんな連絡がなければ今頃、

私はグラウンドでトライアングル・パスをしているところだ。


寝過ごしてしまって食べ損ねた朝食のサンドウィッチをもそもそとついばむ。




「加乃子!ちゃんと座って食べなさいよ。行儀悪い。」



後ろにあるキッチンで食器の片づけをしているお母さんの小言が飛んできた。



しぶしぶ体を机に向けて足を下ろしたが、上の空で足をぶらぶらさせる。



そんな私を見て、呆れたように鼻から息を吐くお母さん。




「加乃子。気持ちは分かるけれど、台風が来るなら仕方ないじゃない。

天気予報でも言ってたわよ。今日は特に風が強いって。」



その言葉にぴくっとこめかみが痙攣けいれんする。



手にしたサンドウィッチを口から離してお母さんを睨みつけた。



「直撃じゃなくて進路それるんだよ!?

時間ずらしたらおさまって出来るかもしれないじゃんか!苦手なバックパスを克服したかったのに!夏休みぐらいだよ?沢山練習できるの!」



そこまで一息で言って、ぼそぼそのサンドウィッチに噛みつく。




「へぇ~。難しいんだね。そのバックパスっていうやつ。」



いかにも興味ないといった、

気持ちのこもっていない相槌を打たれたが、

構わずに話す。




「私にとってはね。オーバーハンドパスは出来るんだけど、テクニックがいるのはダメ。」


「へぇ~。そうなんだ。」


「中2になって練習試合にも出させてもらえるようになったし、苦手を無くしたいんだよ。夏休みは勝負なのに…。」



口に出せば出すほど実力のなさを自覚するのに、

練習ができないという現実が突き付けられて顎の動きが止まる。



お母さんには特に言葉を掛けずに静かに近づいて斜め前の席に座る。


流し目をして少しだけ顔色を伺ってきたけれど、すぐに頬杖をついてテレビを見始めた。


余計なことを言ってほしい訳じゃないけれど、その行動は私への気遣いからきているものであってほしいと望んでいる自分がいた。




「あ、見て見て。アイドルのタツキ君じゃない?あんた、好きでしょ。」



母が指をさして見るように促したテレビ。


男性アイドルグループのセンター、タツキが新曲のプロモーションをしていた。



「マユとサキがね。私は曲は好きだけど、本人のことはそこまでかな。」



興味がなくて数秒で目線をコップに移しすすった。


パンで水分をとられた口の中に、オレンジジュースがピリッとしみる。



「アイドルとか興味ないの?」


「うん。友達が好きだから一緒に騒ぐけど、私はあんまり。」


「あー、つまんないわね。かっこいい子みてキュンキュンしたりとか…。」


「ない。」




ガタッ…ガタタタッ


窓ガラスのサッシが音を立てる。



2人して窓に目をやると、5階のこの部屋から見える町並みが広がっている。



木々の頭が震えながら右にしなり、電柱にかかる電線が大きく揺れていた。

外は相当風が強くなっているらしい。



『ガガッ…臨時ニュース…ザッ…2年前行方不明になった…ザーッ…たける…ザッザー…神社で靴が…ザーッザーッ…。』



テレビにノイズが混じって映像が止まるようになり、お母さんがテレビを消した。



そして手際よくシャッターを下ろしていく。



席に戻ってきて、また懲りずに話し始めた。



「そうそう、さっきの続き。

そんなに色気がないなんてもったいないわよ。それに服!いくら家にいるからって、部屋着がジャージって…。

部活に入ってからはハンドボール一筋。

あんた顔は良いんだからちょっとは気にしたら?化粧したり髪いじったり。

長いんだから色々出来るじゃない。」



化粧と聞いて思い出したのは、先日目にした光景。



「この間、メイクして鬼教師に怒鳴られている子がいたな。そこまでしてしたいとは思わないよ。」


「そりゃあ、学校にしていったらダメよ。お母さんが言っているのは普段の話。少しは身なりを気にしなさいってこと。」


「興味ないなぁ。」


「あんたねぇ…。そうだ、誰か気になる人とかいないの?あ、ほら、幼馴染の佑斗君!

あの子なんかどう?よく一緒にいるらしいじゃない。」




ようやく面白い話が聞けそうだと、鼻息を荒くして前のめりになるお母さん。



「どうって、普通。仲良いよ。この間もCOCA弐番屋の大盛カレー食べた話した。」



それを聞いた途端、目を宙に泳がせて呆れ、背もたれにどっともたれる。


その仕草の真意は、色気より食い気かこいつはといったところだろうな。



「私、よく分かんないや。」



それだけ言って最後の一口を放り込んだ。



「ご馳走様!」


「あ、ちょっと!どこ行くの?」


「自分の部屋―。やることないし、寝る。」


「宿題は?」


「もうやったー。」




低気圧で重い頭、雨戸を下ろして暗いリビング、始まることのない部活、映らなくなったテレビ…。



起きている理由が見つからなかった。




散らかっている部屋で唯一床が見えるスペースに、きっちりと支度をして用意してある少し砂で汚れた紺色の鞄。


それを苦々しく見つめて、「あ゛あ゛!」とカラスみたいな野太い声を出し、ベッドに倒れこんだ。









「ん…。」



気が付いたら寝てしまっていたらしい。



薄目を開けて、部屋の暗さにドキッとした。

風邪が止んだのか、いやに静かで心音が早まる。



(嘘!夜?いやいや、夕方でしょ。台風で暗いだけ…。)


聞き耳を立てるが風音の一つも聞き取れない。


自分で言ったことを思い出す。

直撃じゃない進路のそれた台風は、強い風を起こしたもののすぐにおさまったのだろう。




荒々しい風や叩きつける雨音のかわりに聞こえてきたのは、隣の部屋で寝ているお父さんのいびきだった。



置時計を見ると、針は11時35分を指している。



お父さんが帰ってきて寝ているのだから、今が夜であることは明らかだった。




(寝すぎでしょ…。)



少しふて寝をするつもりだったのに、夜になってしまうとは思わなかった。



こんな夜中に起きたことなんてない。



親は厳しく言わないけれど、夜更かしは何だか悪いことに思えてしてこなかった。



なら寝ればいいのだけれど、目がすっかり覚めてしまって眠れそうにない。



(夜更かし…しちゃう?)



夜更かしという言葉が魔法をかけた。



なんとなく居心地の悪さを感じていた暗闇と静けさが、最高に条件の整った舞台に思えてきた。



(何しよう…。テレビ見ちゃう?ゲーム…は流石にレベル高いかな?映画のDVD見るとか…。)



どれも昼間にやれば普通のこと。

だけれど夜にするとなると、何か特別で悪いことをするような気持ちだ。



でも、度胸がなくてベッドからおりることすら出来ない。



ああしたいな、いやいやでも…その間で動きかねていた。





ぐううう…




お腹が振動した。


音を聞いたら余計にお腹が空いてきた。


(夜食を食べよう。)



その決断は今までのどのアイデアより魅力的で、私をすぐに突き動かした。


誰も起こさないように、木製の扉をゆっくりと開く…。






針を落とした音で人が起きてきそうなぐらい、それほど静まり返っている。



みんな寝ているから当たり前だなんだけれど。



そんな中、自分だけが目を覚ましているというのがとても不思議だ。




ところで1つ気になることがある。



この、嫌な空気は何だろう。



私しか起きていないはずなのに、この狭い廊下を行った先、リビングに何かが待ち構えているような気がしてならない。




(怖がりすぎでしょ…。自分の家なのに。)




でも、この怖さも新鮮で、まるで冒険をしているような気分でおもしろい。



後ろ手にドアを閉めた。

廊下がさらに暗くなる。



親を起こさないよう電気は点けないままゆっくりと歩く。




ぺたっ…ぺたっ…



汗をかいた足の裏がフローリングに吸い付いて離れる時の変な音だけが聞こえる。



けっこう遅めに歩いたけれど、リビングまですぐに着いてしまった。



暗闇にはすっかり目が慣れて、炊飯器やポットなど白い家電がぼんやりと光って見える。



冷蔵庫を見つけるなんてたやすいことだった。





近づいて、ある匂いが鼻をかすめる。



(カレーだ。今日、カレーだったんだ!)



カレーは私の大好物だ。



お母さんのカレーはジャガイモがごろごろ入っていて肉が柔らかくて美味しい。



味を想像してゴクリと唾を飲み込む。



気持ちが高まった勢いで冷蔵庫の扉に手を掛けた。

少し力を入れて開き、驚く。



中にカレーがない。



(おかしいな…。この匂いは確かにカレーなんだけれど…。もしかして、外に出してあるとか?)



庫内のライトにほんのり照らされたガスコンロに目をやるけれどそこにはない。



(そうだよね…。お母さん、食中毒にはうるさいから。)



と目線をさらに動かして匂いの元を見つけた。


それはシンクの中にある、ところどころカレーがこびりついた片手鍋である。



(ええ?2人で食べちゃったの?残しておいてよ…。)



がっくしと肩を落とす。



食べたいものがなかった時の残念さったらない。



(でも、お腹すいちゃったし…何か…。)


代わりのものはないかと探すがめぼしいものがない。



諦めて部屋に戻って寝よう、そう思って片足を引いた時だ。




ネチャッ




左足が何かを踏みつけ滑った。


感触からして、ジェルのようなねばねばした液体。




(え!何!?)




慌てて視線を足元に落とし、凍り付いた。



開いた扉を隔ててすぐ側に、誰かが立っている。



どす黒く毛むくじゃらの足が2つあり、

つま先がこちらを向いていた。




(だだだ、誰かいる…!)




目にした情報を処理できずにいる。

体が震えて動かせない。



固まっていると、頭に違和感を覚えた。



髪の毛を数本まとめてつーっと引っ張られ、ぐっと引かれる。



その刺激は次第に強くなる。



同時に何かが髪から頭皮を伝い、首筋を伝ってくる。



震える手でそれに触れた。




指先に絡みついたのは、足で踏みつけたのと同じ感触の、ねばねばとした液体。




(…!)




ぐっぐっと髪を引っ張る刺激がどんどん強くなる。




いや、強くなっているのではない。



引っ張っている何かが毛先から徐々に徐々に近づいてきている。




わしゃ…わしゃ…




束になった髪がこすれあう音が聞こえて戦慄が走った。



(食べてる…!何かが、私の髪の毛を…!)



わしゃ…わしゃ…


「あ…。あ…!」




すぐにでも振り払いたいのに動けない、声も出せない。




(助けて…!)




ピーッ ピーッ




電子音が響く。


それは冷蔵庫が鳴らしている、扉を閉めろと促す警告音。




髪を引っ張る力が弱まって、ぼたりと頬に濡れた髪の束が張り付く。



生臭い。




力なく地面にへたりこんだ。


あの醜い足はいつの間にか消えていた。






呆然として何も出来ずにいると、扉が開く音と共に小さな足音が聞こえてきた。

パチンとリビングの電気がつけられる。



白く、柔らかな足が視界に入った。



「可乃子~?うるさいよ~?」



声を聞いて見上げると、そこには眠たそうに目をさするパジャマ姿のお母さんがいた。



連続して鳴る警告音に目を覚ましてしまったらしい。




「可乃子。お腹すいたのはいいけどさ、開けっ放しはやめてよね。」




私を片手で構いながら、器用に扉を閉める。




「あ、やだぁ!可乃子。」




シンクに近寄るお母さん。


あの方手鍋を両手にとってまじまじと見つめる。



「全部食べちゃったの?あんなに沢山作っておいたのに…。ほんと、最近食欲すごいわね。洗うぐらいしなさいよ…。ちょっと、聞いてるの!?」




私を覗き込む迷惑そうな顔。



いつもなら嫌な気持ちになるのに、冷えきった心に血が通い出して、自然と涙が溢れ出た。



そこからせきを切ったように嗚咽と引き付けをおこして大声で泣きわめいた。



困惑するお母さんの腰にしがみつく。




「ど、どうしたのよ…。」

「どうした?何があった?」




聞きなれた父の声に顔をあげる。


心配そうにこっちを見ているしょぼしょぼとして細い目。


顎は髭が生えていて青く、視線を落として見えたすねに濃い毛がまばらに生えていた。



それを見て、ぐっと体に力が入る。



父が不思議そうにこちらを見るがそれさえも怖くて仕方ない。



あの足と父の足は違うけれど、共通してある男らしさが、あの嫌な体験を思い出させた。



このことは誰にも話さなかった。


だって、雨戸を下ろして鍵も閉めてあるのだから、誰か知らない人が入ってこれるわけない。



人間ではない何かがいたなんて、信じてもらえないだろうから。







この日から私は、父のことも佑斗のことも避けるようになった。







あの足を持った何かに会ったのはこれっきり。






だけれど、私の部屋の隅には親に内緒でおやつを溜めておいてある。




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