第15話 いい機会
夜であると錯覚するほど外が暗い。
このコインランドリーの立地が悪いのもあるだろうけど、一番は空を覆う重い雲だ。
そのせいでまだ16時だというのに、
眠気に襲われてしまう。
ここのところ続いていた雨が止むと天気予報が言っていたけれど、
晴れるのではなくこんな曇り空だとは。
今日を狙って溜めていた洗濯物が、
900円を投下した大型洗濯機の底に溜まっている。
混み合っていたせいで使わざるをえなかった下段から取り出して白い机の上に置き、
誰もいないのをいいことに背中を反らした。
夫と自分の分しかなく少ないとはいえ、
屈んで持ち上げるのは腰にくる。
出費はなかなか痛手だったけれど、
ほかほかと温かい洗濯物は、
すっきりしない天気で沈んだ心を癒してくれた。
心地よいものに触れていると、
雨が降りそうなこの天気がもたらすしっとりと静かな時間も悪くないと思い始めてくる。
そんな具合に洗濯物たたんでいると、
ブーンと入口の自動ドアが開いて人が入ってきた。
大きな白いカゴを抱えて入ってきた女性の横顔を見て、あっと驚く。
自分の娘が中学2年生の頃、
同じクラスにいた子の母親、岸田さんだ。
9年ぶりにあった彼女は相変わらずふくよかだったが、どこかやつれているように見えた。
にこにこと愛想よくこちらに笑顔を向けてくる。
「あら!みどりさんじゃない!?お久しぶり!」
「あらぁ岸田さん!嬉しいわ会えるなんて!」
特別に仲が良いわけではない、それでも喜んだフリをするのには訳がある。
あの頃からママ友グループのボス的な存在で今もある程度の力がある彼女。
この地域で穏やかに暮らしていくには身の振り方を考える必要があった。
「みどりさんのところって真帆ちゃん出て行った?うちはもうずっと居座るつもりみたい。大学から帰ってきたら部屋でゴロゴロしちゃって、家事の一つも手伝わないの!だから、洗濯物が多くて仕方ないわ。」
マシンガンのように口を動かしながら手際よく財布から小銭を出して、乾燥機に濡れた洗濯物を放り込んでいく。
財布は小銭でパンパンに膨らんでいた。
スイッチの入った乾燥機が、ゴウンと回り始める。
「はーあ。…あ、ねえ、近くに出来たスーパー行った?広告に載ってた値段があまりにも安かったから行ったけど、駄目ねあそこ。野菜が良くなかったわよ。ちょっと遠くのスーパーの方がよっぽど良いわ。」
「あ、あら、そうなの?まだ行ってないから助かったわ。」
当たり障りのない相槌を打ちはしたが、彼女の話よりも行動に意識が向いていた。
あまりにも手慣れた乾燥機の操作、
両替をしなくてもすむ財布にパンパンに詰まった100円玉。
ケチで機械が苦手なはずの彼女の性格からすると、それらは異質に感じられた。
「みどりさん?」
「え!」
「どうかした?どこか心ここにあらずって感じだから。」
「あ、な、何でもないのよ。ただ…。」
彼女の鋭い視線に黙っていられず口を開く。
「コインランドリーの常連なのかなって思ったの。機械の操作も慣れてて、小銭もいっぱい持ってるから。岸田さんって私と違って節約上手でしょ?家で出来ることをお金払ってするイメージなかったから…。」
その言葉で彼女の動きが止まった。
さっきまで楽し気に話していたのに、すっと無表情になり顔を強張らせた。
(うそ!気に障った!?)
「た、たまには良いわよね、コインランドリー!こんなにもふかふかになっちゃった!また来ようかしら!」
空気を変えようと明るくぎこちない調子で褒めるが、表情は固いままだった。
少しして、固く結んだ口を小さく開き一呼吸する。
「怒っているわけじゃないの。気を遣わせたみたいでごめんね。その通り、最近ここに来るようになったんだよね。今じゃすっかり常連だよ。雨が降るようになってからほぼ毎日ね。」
「えっ、毎日?確かにここのところ雨が続いて洗濯物は乾きづらいけれど…。部屋干しだったら安上がりじゃないかしら?」
彼女は目を見開いてこちらを見た。
「部屋干しが嫌なの!…もう、うんざり…。」
そういって顔を両手で覆う。
その背後で濡れて重くなった洗濯物がドンドンと音を立てている。
「ど、どうしたの?何があったの?」
恐る恐る尋ねると、ぽつりぽつりと語り始めた。
始まりは去年の梅雨だった。
家族3人暮らし、そのうちの1人はおしゃれ好きな若い娘だから洗濯物がすぐ溜まってしまう。
なかなか乾かないし、臭いも好きではないけれど、わざわざお金を払うよりは得だと、梅雨になれば部屋干しをしていた。
一層寝苦しい夜。
大人しくあまり意見を主張をしない夫がエアコンを黙ってつけた。
いつもなら電気代がもったいないと言うところだけれど、今日ばかりは自分も耐えられず、何も言わずにいた。
室温が下がってきてましになったけれど、部屋干しのせいか湿度が高く寝苦しい。
とりあえず目を強くつぶる。
寝たいと思うとなかなか寝付けないもので、そのまま数十分は経った。
しばらくして、自分の眉間あたりに圧迫感があるのを感じた。
丁度、指を近づけた時にざわざわするあの感じだ。
それが気持ち悪くて、原因を知りたくてうっすら目を開ける。
目の前には、エアコンの風のせいか、ゆっくりと揺れる長いズボンの裾があった。
「そ、そうなの?確かにあの感覚って気持ち悪いわよね。私もダメ。」
乾燥機の回転している無機質な音が響く。
岸田さんはゆっくりと首を振った。
「その時はそこまで嫌いじゃなかったの。でも…。」
数日後も雨で洗濯物が溜まり、部屋干しをした。
その日はエアコンをつけず、湿気だけに耐える。
やはり寝苦しいのかなかなか寝付けない。
そしてまたしばらくして、眉間に圧迫感が。
またズボンかと思い、いらいらしながら目を開ける。
そこには前回と同じように、ゆっくりと揺れるズボンの裾があった。
邪魔でどかそうと手を動かそうとした時に気づく。
自分が寝ているのは部屋の真ん中。
洗濯物は壁伝いに干している。
自分の眉間にズボンの裾がかかるわけがない。
訳が分からないまま、その揺れるズボンの裾を眺める。
ゆっくりとゆっくりと前後に揺れるそれ。
一瞬視界から消えて、またゆっくりと視界に入った時、全身の毛が逆立った。
「それ、ズボンの裾じゃなかった…。人間の…足の裏だったの…。」
「…え…。」
人間の足の裏が、仰向けになった自分の顔の前にある。
その状況を想像してゾクッとした。
彼女は、その時の光景を思い出してしまったのだろう。
目を見開いて震え始めた。
「嘘だと思うでしょ!?本当なのよ!わた、私の真ん前に、男の足の裏があるの!なんで男かって…それは、それは…!私がじっと見ちゃったから!足だけ見てればよかったのに!その先も見えちゃって!」
乾燥が仕上げに入ったのか、乾燥機がババババッという激しい音を立てて回転し始めた。
切羽詰まった声がその音にところどころかき消される。
早まった回転に引っ張られるように興奮して、彼女は責め立てるように言葉を放っていく。
「1回だけじゃないの!何回も何回も!部屋干しをするたびに!洗濯物を部屋に吊るすと必ずあいつが現れるの!もう、私、おかしくなりそうで…!だから、だから私…!」
彼女は疲れたのか息を整える。
「コインランドリーに乾燥だけしに来てるの…。」
勢いに圧倒されて眺めていることしかできなかった。
ピー!ピー!
突然鳴り響いた電子音に2人同時に振り向く。
それは、運転が終わり停止した乾燥機から出ている通知音だった。
「あ、やだ、もう40分経ったのね。…ごめんなさいね。こんな変なこと言って。」
彼女は乾燥機の扉を掴み開けると、どさどさと雑にそれでいて手早くカゴに放り込んだ。
「じゃ、私帰るわね。みどりさんはゆっくりしてって。」
話をして興奮し、よっぽど疲れたのか、どっと老けたように見える。
その顔を見て、私は静かに声を掛けた。
「岸田さん、それ、見間違いじゃない?」
「え?」
「湿気が多くてむしむししてたでしょ?それに、夜は疲れがたまるもんよ~。そんなに気にしちゃ駄目よ!」
思わぬ励ましに驚いてはいたが、岸田さんの顔に徐々に血色が戻ってきた。
「そ、そうよね。ごめんなさい。私どうかしてたわ!」
「そうよお。元気のない岸田さんなんて見ていて悲しいわ。元気出して!こんなことに出費してちゃ赤字よ?」
「そうなの!最近家計が厳しくなってきて…。すっかりコインランドリーに依存しちゃってたわ!みどりさんに会えてよかった。あー馬鹿らしい!勘違いでお金をどぶに捨ててたわ!ありがとうね、みどりさん。」
岸田さんは笑顔でカゴを抱えて出て行った。
彼女が去ると同時に、私の顔から笑顔が消える。
また誰もいなくなって静まり返ったコインランドリーで黙々と作業をし、
たたみ終えた洗濯物をバッグに詰めて肩にかけた。
左手には洗濯物に混ざっていた
誰のものか分からない靴下1つが握られている。
彼女に掛けた言葉。
別に親切心で言ったわけではない。
(少しは大人しくなるかしら、あの人。)
出口付近にある忘れ物ボックスに靴下を投げ入れて自動ドアを抜けた。
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