第14話 ほずみ保育園不審者情報
園児たちが帰宅し空になったほずみ保育園。
そのさくら組の教室で大の大人が顔を並べて覗いているのは、壁の隅にぴったりと密着させて置いてある木製の本棚。
クラスの担任である
「動かしては…ないのよね。」
園長は角ばった眼鏡の奥、重く垂れた瞼を少し開けて小さな黒目を流し新實に尋ねた。
「は、はい。一切動かしていないです。」
新實が言い終わる前に、すでに彼女の興味は本棚に移っていた。
普段は痛むと言ってあまり動かさない腰と膝を折り曲げたり伸ばしたりして隅々まで確認する。
「動かした形跡もないわね。…ねえ。ここで間違いないのよね?」
ここまで園長は声を荒げず、眉をひそめることもせず静かに事実確認を行っているのだが、新實はそれらの行動によって責められているように感じていた。
自責の念とその場から逃げ出したい気持ちとでつぐまれた唇を、上司が求めている役割に順じて開く。
「は、はい。そうです。ゆう子ちゃん本人にも確認をしました。ここで間違いないそうです。」
「そう…。参ったわね。あの子は嘘をつくような子でもないし…。でも、どこの防犯カメラにも映ってはいなかったのよね。…木下先生も見ていないんでしょう?」
木下はベテランの保育士で、クラスの副担任として不慣れな新實のサポートをしている。
昨日も教室の後ろ側、全体が見渡せる場所にいて、園児たちの見守りをしていた。
「はい。」
園長は頬杖をついた利き手を口元にずらして、「ゆう子ちゃんとこのお母さんだものね…。」とくぐもった声で呟く。
少し押し黙って目を閉じ数回頷いてから新實に顔を向けた。
「新實先生、今回のことをまとめておいてくれる?文章を確認してから、プリントに印刷して保護者に周知できるようにしますね。警察には…警察には私から伝えますから。」
パソコンに向かいながら、新實はため息をついた。
帰宅する支度をすっかり終えた先輩保育士の佐山が側に寄って顔を覗く。
「何?失恋?」
「違います。ていうか、ここ数年、彼氏なんていません。ほら、今朝のことですよ。園長が不審者情報としてまとめておけって。」
「ええ?ただのかまってちゃんかもしれないのに?」
「ほら、ゆう子ちゃんとこの…。」
新實が片方の頬をぐっと上げてぴくぴくと痙攣させながら言うと、ああと納得して側から離れた。
「穏やかだけれど、かなりの心配性だもんね。なんの対策も打たなかったら何言われるか分かんない。」
「そうなんですよ。だから、不審者情報を出すことになって。だけれど、内容が内容で、うまく文章がまとまらなくて…。」
「災難だったね。ま、やらないよりはやった方がいよ。お疲れ様。先に帰るね!」
「お疲れ様です。」
力なく言って見送ると、1人で残っているということの虚しさと疲れがどっと肩にのしかかる。
昨日、あの場にいたというのに、不審者に気づけなかった自分の情けなさ、
園児たちの安全よりも、園長に怒られるのではないかと委縮していた自分に対する呆れが余計に新實を疲弊させた。
疲れた頭で思い出したのは、自分が残業する原因になったゆう子ちゃんのお母さんとの会話。
『先生、ちょっといいですか?』
どこか怯えた様子で家でのゆう子ちゃんの行動を話す母親。
その時に手渡された一枚の画用紙。
『あの、ここってしっかり防犯対策しているんですよね?いえ、信じていないわけではないですし、うちの子が嘘を言っている可能性もありますけど、もし、もしかしたらって。先生からもゆう子の話を聞いてもらえませんか?』
彼女はパソコンの側に広げて置いておいた画用紙に視線を移し、片手で掲げて眺める。
『ねえ。本当に見たんだよね。』
問いかけに黙って頷くゆう子ちゃんの顔。
『どこで見たのかな。先生に教えて?』
指をさしたのは、彼女の背後にあるあの木製の本棚。
そこをじっと見たかと思うと、びくっと怯えて走り去ってしまった。
何かあったのかと振り向くが、そこにはあの本棚があるだけである。
新實はそこまで振り返り、今手元にある画用紙に描かれたものを見て身震いをした。
(見間違えだとは思うけれど、自分の子供が家に帰って黙々とこんな絵をかいていたら、心配性じゃなくてもぞっとするよね。)
雑念を振り払うように顔を左右に振って、頭の中で文章をまとめながらキーボードに乗せた指を動かした。
30分後、出来上がった文章を見ながら首をかしげる。
だけれど、これ以上にまとめようがないことは十分に理解していた。
(いいや。園長にまかせよう。)
疲れて半ば投げやりになっていた新實は荷物をまとめて帰宅した。
電気が消えた職員室。
真っ暗闇の中で目立つ、園長の机の上に置かれた白い紙。
そこには新實が熟考した文章が羅列していた。
『不審者情報
×月×日 ×曜日 ×時
Yちゃんがさくら組の教室内で絵本を読もうと本棚に向かった際、
本棚と壁の間から顔の上半分を出してこちらを見ていた男性と目が合った。
男性は何も言わず、そのまま潜り込んでしまった。
年齢は40~50代、黒色の短髪、肌は浅黒く、白目が黄色く濁っていた。
身長不明。
登園と降園の際の見守りと、門の施錠を徹底して行っていきます。』
プリントの横に、新實が提出したであろう画用紙が置かれている。
母親から預けられた、ゆう子ちゃんが家で描いたという絵である。
パステルクレヨンで描かれているのは、教室の隅に置かれているあの本棚。
その上にいる鼻から上の男の顔が、黄色く濁った白目に浮かぶ真っ黒い瞳で、誰もいなくなった空間を睨んでいた。
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