第8話 トンネルの中

 午前1時50分、2台の車は岡田美羽の乗ったセダンを先頭にゆっくりトンネルに入って行った。予定ではトンネルの中央で止まり、そこで2時5分過ぎまで待って、向こうに出て、セダンはまだしもワンボックスワゴンはまずUターンできるところはないはずだから、そのまま峠道を下って行き、下の新トンネルを出てきた新道に合流する辺りでUターンして、再び向こうから峠を登ってきて、今度は逆からトンネルを通り、元の展望食堂前に戻ってくることになっている。時間にして40分から50分くらいだろう。

 ちなみに、けっきょく鈴木達也の仲間たちの乗った軽乗用車は出発の時刻になっても戻ってこなかった。


 三津木と共に残ったのは重永真利子と言う女性ADだった。

 女子とは言えテレビのADなんてみんなこんなものだが、特に重永は、大きな丸メガネをかけて、ばさばさの髪を後ろで結んで、まるで化粧っけがなく、小柄で、中学生の男の子みたいな奴だった。

 実は現場スタッフというのはテレビ局の正社員ではなく契約社員であることが多く、彼女もそうだ。専門学校を出たばかりの20歳で、カメラや音声のベテランに叱られながらも一生懸命頑張っていた。

 彼女にもハンディカメラを渡して車の出発を見送る紅倉と芙蓉を撮らせている。三津木は三脚に設置し高出力の夜景モードにしてトンネルを狙ったHDカムをモニターしている。

 車が行ってしまって、ワゴンのテールランプも見えなくなって、いっとき緊張がほぐれた。トンネル内の連中は逆に緊張が激しく高まって行っているところだろうが。

 ここは灯りというのがまったくない。そこで目印もかねて大きなソフトボックスに仕込んだ照明灯を、先ほどまでワゴンを止めていた店前の空きスペースに立てている。紅倉のハイブリッドの手前だ。

 HDカムに光が入るのを嫌って、重永にハンディ搭載のライトを切らせ、紅倉、芙蓉にはソフトボックスの前まで下がってもらい、二人の撮影は続行させた。

 今のうちだろうと三津木は重永に言った。

「こっちに居残りになってほっとしただろう?」

「はあ」

 重永はぺこりと頭を下げて正直にニヤニヤした。三津木は意地悪に鼻で笑った。

「さあて、どっちがましだったか、まだ分からないぞお?」

 美羽のマネージャー小沢は、自分は部外者とばかり、邪魔にならないように後方に離れて見学していたが、三津木のふざけた脅し文句に暗がりの中ぎくりと震えた。

 案外敏感な奴だ、と三津木は小沢を思った。

 岡田美羽はなかなか高い霊媒体質の持ち主だ。だが、

 霊を引きつける磁力は、紅倉の方が圧倒的に勝っているのだ。

 紅倉は霊に対する攻撃力、防御力、共に高いが、それゆえ特に悪質な奴には反感を買って攻撃の対象にされやすい。

 こんな霊たちの巣窟になったような所に入って行けば、それだけで確実に何かが起こるだろう。撮影する分には面白いが、紅倉があえてこちらに残ったということは、こちらに残った方がいいという何かしらの理由が必ずあるはずだ。

 三津木はこっちでも何かが起こるのを、大いに期待していた。


 午前2時になった。

 トンネルの中の連中は極限の緊張に身を固くしながら、何か起きはしないか、辺りに神経を配っていることだろう。

 ライトボックスの白い明かりを背に受けながら、紅倉がとなりの芙蓉に言った。

「美貴ちゃん。わたしを守ってくれる?」

「もちろんです」

 芙蓉は危険の種類が何なのか分からなかったが、紅倉が望むのならどんなことでも命がけでやる覚悟でうなずいた。

「そう。ありがとう。じゃあ、わたしの体、よろしくね」

 ふっと紅倉の目が虚ろになり、体が揺れ、芙蓉はさっと腕を伸ばして倒れるのを抱きとめた。

 異変に気付いて三津木が声をかけた。

「紅倉先生、どうされました? 大丈夫ですか?」

 しかし紅倉はぐったり芙蓉の腕の中に抱かれたまま、目を閉じ、呼びかけに反応しなかった。

「先生?」

 芙蓉もそっと呼びかけてみたが、まるっきり無防備で、意識というものが感じられなかった。

「な、なんです? どうしたんです!?」

 小沢が堪らずに騒いだ。

「まさか、悪霊にやられてしまったんじゃないでしょうね!?」

 三津木はチラッとうるさい小沢に目をやり、

 幽霊なんて信じているのかよ?

 と、皮肉に思った。

 それにしても紅倉に何が起こったのだろう? まさか本当に悪霊にやられてしまったわけでもなかろうが。

「あっ! あれ! ねえ、あれはなんです?」

 小沢に言われて三津木はトンネルの上の山を見た。トンネルの上は木々が累々と生い茂ってちょうどトンネルの中間の辺り、100メートルほど上を稜線が横に走っているはずで、今その輪郭は黒く切り取られた星空で分かる、はずだったが。

 その輪郭が白くぼやけている。

 白く煙った物が、山の向こうから滲み出し、溢れ出し、こちらの斜面をもやもやと下ってきている。

 霧だ。

 山向こうで発生した霧が、膨れ上がり、峠を越え、こちらになだれ落ちてきているのだ。

 この自然現象は、たまたま偶然起こったものなのだろうか?

「ああっ!」

 また小沢が声を上げた。

「ト、トンネル!」

 見ると、トンネルの奥からも、もくもくと、狭い中をピストンに押し出されるように急速に白い塊が押し寄せてきて、ぶわっと、入り口から飛び出すと横に広がった。

 広がった霧は、トンネルから噴き出す風によってか、濃淡がゆらゆらと浮き沈みした。

「ああっ!」

 また小沢が大声を上げ、わななきながら言った。

「ひ、人だ! 人がいるぞ! ほ、ほらっ! あそこにも! あそこにも! 何人も! 集団でいるぞ!!」

 三津木はうごめく霧の帯に恐く目を凝らした。




 時間を少しさかのぼって、トンネルの中。

 トンネルは小型車でなければすれ違うのは難しいほどの幅しかなかった。高さもワゴンが入れるか危ぶまれたが、昔はバスが通っていたそうで、中央なら余裕を持って通れた。天井は丸く、かまぼこの形状をしている。

 トンネル内は天井に蛍光灯がともっていて、横の天井から壁へ移行していく曲面を照らし出し、先を見ると白いかまぼこ型が連続している。

 壁も床も白いコンクリートで塗り固められ、道路は表のようにアスファルトが敷かれてはおらず、かなり痛んで、ゆっくり走ってもガタガタ車体が揺れた。

 走って行くと、ゴオオオオ、とエンジンとタイヤの音が反響した。

 先行するセダンが入り口でリセットしたトリップメーターが「2」になった所でブレーキをかけ、後続のワンボックスも4メートルほど間を空けて止まった。

 2台ともエンジンを切り、最後の反響が遠ざかって行き、しんとした静寂に包まれた。

 セダンはちょうど蛍光灯の下に止まっている。

 横の壁にしみ出した地下水による黒いシミがあり、見ようによっては人が立ってこちらを見ているように見えなくもない。

 助手席のカメラマンは後ろ向きに乗って後部座席の美羽にカメラを向けている。

「今、トンネルの中央で車が止まりました。今、時刻は1時54分です」

 スタッフに渡された携帯電話の時計で時刻を報告した。腕時計ではなく携帯電話を使うのは、何か異変が起こるのを期待してだ。

 ひたすら緊張した時間が過ぎて行く。わずか数分がとてつもなく長く感じられ、美羽はいても立ってもいられないように辺りへおどおどした視線を走らせた。

 ピー、ピー、と電子音が鳴って美羽は思わず悲鳴を上げた。携帯に2時を報せるアラームが設定されていたのだ。

「たった今、2時になりました」

 美羽はスタッフのいたずらに腹を立てながら、自分を落ち着かせてリポートした。

「このまま5分間、何か起こるか、検証したいと思います」

 美羽は、

(何事もなく早く過ぎて!)

 と思っていることだろう。

 2分ほどして、またスタッフがいたずらをしかけた。

 カーステレオで、読経のCDを流し始めたのだ。

「えっ、なに? 何か聞こえる」

 美羽が怯えた声で言う。CDはごく小さな音で流しているので、どこから聞こえてくるのか一瞬美羽には分からなかったのだ。運転手のスタッフがぼそっとした声で説明する。

「CDです。このトンネル、僧侶の団体の幽霊の目撃例も多く報告されているんです」

(そんなの知らないわよ! なんでそんな所でお経なんて流すのよ!)

 美羽もさすがにスタッフの悪趣味に泣きそうな抗議の顔をした。

 さすがに演出が過ぎるが、これは丹羽のアイデアだ。さすがにやり過ぎだろうとシナリオをチェックした三津木も思ったが、あえてそのまま許可した。心霊スポットで舐めた真似をすると痛いしっぺ返しを食らうぞ、という見せしめになっていいだろうと思ってだった。はたして。

「寒い」

 美羽が両肩を押さえてぶるっと震えた。美羽は目立つピンクのダウンジャケットを着ている。

「今、急にすごく寒くなってきました。まるで冷蔵庫の冷気に当てられたみたいです」

 一生懸命カメラにリポートしながら、不安に目を潤ませて外へ視線を巡らせた。

「なんだかすごく嫌な気配を感じます。怖いです。誰かにじっと睨まれているような視線を感じます。ねえ、もうこのお経やめましょうよ!」

 とうとう堪え切れずに訴え、スタッフもCDを止めた。

 なおいっそうしんとした静寂がひしひしと体にしみいってくるようだ。わずかに身じろぎした「ガサリ」という布のずれる音がひどく響いて感じられた。

「ねえ、もう5分になったでしょう? 本当に霊が現れたらシャレにならないわよ。早く車を出してよ!」

 美羽は強面のキャラクターを放り出し、すっかり本来の女の子に戻って懇願した。

 運転手のADは時計を見て、三津木に次いでベテランのカメラマンにお伺いを立てた。美羽はもういっぱいいっぱいだ。

 ブーーーッ、と、後ろのワゴンが大きくクラクションを鳴らした。その音に三人とも飛び上がり、何かあったのかと振り返った。パッとついたヘッドライトに目を射抜かれ、反射的に顔をしかめて逸らした。

「行こう」

 カメラマンが喉に貼り付くような声で言い、運転手はエンジンをスタートさせ、セダンはゆっくり発進した。

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