11-2

「それにいたしましても、水野様はなぜわたくしがこちらに参りましたことがおわかりになられたのですか?」


「えっ?」


「誰かがこの部屋にいるとおわかりになられたから、いらっしゃったのだと思ったのですが」


「ああ、何か物音がしたんです。ドゴンって。それで、もしかしたら櫻木さくらぎさんが帰ってきたんじゃないかと・・・」


「ああ・・・わたくしが足の小指をこの食器棚にぶつけてしまったときの音でございますかね・・・。いやぁ、お恥ずかしい・・・」


 柳さんは食器棚をしげしげと眺めていた。僕は柳さんが足の小指をぶつけて痛みに悶えている様子を想像した。吹き出しそうになったがなんとかこらえた。


「あの・・・柳さんは今日なぜここにいらっしゃったんですか?」


 すると柳さんの表情が曇った。


「実は、旦那様にこの部屋を引き払う準備をしてくるようにと仰せつかりまして・・・」


「引き払う?!」


「はい、本日は下準備といたしまして荷物の量の確認にまいりました」


「そんな・・・もう1ヵ月も引き払っていなかったのに、なぜ急にそんなことに?」


「わたくしにも、旦那様のご意図はわかりかねますが、これまでこのお部屋を引き払わずにいらっしゃったことには特別な理由はなかったのではないかと存じます。もしくは、ご隣人の水野様と極力関わり合いにならないためにそのままにされていたのかもしれません。本日も、水野様をお訪ねすることは禁止されておりました」


「ええっ!じゃあ、僕・・・」


「いえいえ。今回はわたくしからではなく水野様がわたくしを訪ねてくださったので、ノープロブレムでございます」


「そ、そうですかね・・・」


「はい。話は戻りまして、旦那様がこの部屋を引き払われようとなさっていることについてですが、おそらくお嬢様の柊学園に戻りたいというお気持ちが相変わらずお変わりないことにしびれを切らして、このような手段に出られたのではないかと、わたくしは考えております」


「そんな・・・」


「旦那様はお嬢様を本気で柊学園から転校させようとなさっています。ただ、柊学園側からも少なくとも今年度中は転校しないでほしいと止められているようでして、お嬢様は形上は現在も柊学園の生徒となっております。


 しかし、旦那様がこのようにお部屋まで引き払われるということは、もしかするとすぐにでも転校の手続きに進んでしまわれるかもしれません・・・」


「櫻木さんは・・・柊学園に戻りたいと言っているんですよね?」


「はい、さようでございます」


「そんな、櫻木さんの気持ちを無視するようなことを平気でするなんて・・・」


「・・・お仕えする家の主を悪く言うのは執事失格かと存じますが、旦那様は昔からお嬢様をご自分の思い通りにしようとなさる傾向がございました。そのようなときはいつも奥様がお止めになっていたのですが、その奥様も1年前に・・・。


 それからというもの、旦那様はお嬢様のすべてを管理していらっしゃいました。お嬢様の幼馴染の尊様を婚約者となさったのも奥様が亡くなられてからです。


 旦那様にとって大切なことは、櫻木家の繁栄と言えば聞こえは良いですが、それはつまり、さくらぎフィナンシャルグループの事業の成功のことしか考えていらっしゃらないということです。その間にどれだけの人間の心が踏みにじられようと、気にも留めていらっしゃらない・・・。


 わたくしは、非力ながらもできる限りお嬢様のお気持ちに寄り添ってきたつもりです。旦那様にご意見申し上げることも何度も考えました。しかし、それによってわたくしが執事を解任されてしまうことになれば、お嬢様は本当におひとりになってしまわれる・・・。それだけは避けねばならないと考えておりましたため、結局は旦那様の横暴を容認してしまうかたちに・・・。


 結局、わたくしはお嬢様に何もしてさしあげることができなかったのです・・・」


 柳さんは胸ポケットからハンカチをとりだし、目尻を押さえた。


 僕は、実の父親が娘に対してそのような仕打ちをするなんて信じられなかった。大企業のトップに立つということは、それは並大抵のことではないとは思う。会社を守り、発展させていかなくてはならないという責任感は想像もできない。しかし、だからと言って自分の娘の気持ちをないがしろにするのは違うだろう。僕は、戸惑いとともにどこに向ければ良いのかわからない怒りが湧いてくるのを感じた。


「柳さん・・・今櫻木さんはどんな様子なんですか?体調は問題ないとおっしゃってましたが・・・」


 柳さんは少し下を向き、考える様子を見せた。そして、意を決したように口を開いた。


「お嬢様は・・・今のご状況はもはや・・・軟禁状態と言っても過言ではありません・・・」


「軟禁・・・」


「はい。ご自宅から外出することも、外部と連絡をとることも禁止されているご状況です」


「そんな・・・あんまりじゃないですか・・・」


「わたくしも、さすがにご学友の皆様とご連絡をおとりになるぐらいは良いのではと申し上げたのですが・・・」


「そうですか・・・」


「しかし、お嬢様は気丈にふるまっていらっしゃいます。決して旦那様の思い通りにはならないという強いご意思をお持ちですので」


「櫻木さんは強いんですね・・・きっと僕なんかじゃ想像もできないぐらいつらいだろうに・・・」


「お嬢様は、柊学園にご入学されてから一段とご成長されたようにわたくしは感じます」


「そうなんですか?」


「はい、きっと良いご学友に出会われたのでしょう。とりわけ、水野様との出会いはお嬢様に大きな変化をもたらしたと考えております」


「ぼ、僕ですか?」


「はい、水野様にはさまざまなことを教えていただいたと、お嬢様ご自身も大変感謝されております」


「そんな、感謝だなんて・・・」


「水野様のことをお話になるお嬢様は大変お楽しそうでございます。わたくしはお嬢様のあのような笑顔は久しく拝見しておりません。わたくしからもお礼申し上げます」


 柳さんはまた深々と頭を下げた。


「いやいやいや、僕は当然のことをしたまでで・・・」


 顔が熱くなってくるのを感じた。櫻木さんは僕のことを柳さんに話しているらしい。嬉しくもあるが、なんだか恥ずかしい・・・。櫻木さんはいったいどんな話をしていたのだろうか。


 僕が妄想を膨らませていると、柳さんが口を開いた。


「ところで水野様、水野様はお嬢様がなぜ家をお出になったのか、理由をご存じでしょうか?」


「理由・・・ですか?えーっと、たしかお父様がラーメンを食べさせてくれないと言っていたような・・・でも、今のお話を聞く限り、そんな理由ではなさそうですよね・・・」


「ほっほっほっ、お嬢様はそのようにおっしゃっていたのでございますか。なるほど、それは確かに嘘ではございませんね」


「えっ、そうなんですか?」


「ええ。少し長くなりますが、少々わたくしの話にお付き合い願えますでしょうか」


「はい・・・お願いします」


「では、僭越せんえつながら・・・」


 そう言って、柳さんは話し始めた。

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