大蛇

 蝋燭の火が妖しく揺れる。薄暗い座敷では男二人が向かい合って座っていた。

「今年の贄が決まったそうですね」

「あぁ」

「明日の儀式に間に合ってよかった」

「うまくいくと良いがな」

「何か心配事でも?」

 問われた老人は、やや俯き気味に小さく呟く。

「……今年は白羽の矢が二本立った。こんなことは初めてだ。どちらの家にも十五に満たない生娘が一人ずつ。我が子可愛さに、やれお前が行けだの矢がそちらの方が大きいだのと騒いでいた」

「まぁまぁ、娘一人の命で村が守られるのです。儀式が無事に済めば、また一年安心して美味い酒が飲めますよ」

 飄々としている細目の男は、ずず、と茶を啜り「そろそろ夜も更けてきたので僕はお暇します」と言って腰を上げた。

「水神様のご加護があらんことを。おやすみなさい」

 細い目を殊更に細くして、笑みを浮かべ去っていく。

(……相変わらず感情の読めない気味の悪い輩だ)

 残された男は、壁際の棚から美しい彫刻の施された小刀を取り出し薄明かりに翳した。毎年、彫り師である源蔵が贄となる娘に持たせている護り刀だ。作り続けて今年で五十年になる。それ以前は源蔵の父親が作っていたが、肺を悪くして死んだ。

 先ほどの細目の男はひと月前に突然この村に現れ、絲春と名乗ると「行くあてのない旅路の途中でして、納屋でもいいので暫しの間居候させてください」と源蔵に直談判してきた。男は黒い笠を被り、防具を身に纏って弓矢を携えており、目的もなく旅をしているようには到底見えなかった。最初は何故自分がという思いがあり絲春の風貌も相まって当然断ったのだが、しつこく頭を下げる彼に根負けした源蔵は家へ上げることにしたのだった。今頃は裏の小屋で寝ているだろう。

 贄の文化自体は古くから存在している。年に一度、十五に満たない娘がいる家のうちどこかに白羽の矢が立ち、選ばれた家は娘を贄として献上しなければならない。贄の娘は身を清め、白い着物を着て白い紐で髪を結い、神輿で山奥の八蛇頭滝(やだずだき)の前まで担がれる。その場で水神へ祈りを捧げたのち一晩神輿は据え置かれ、明朝に雨が降れば水神の加護が得られたと見做す。

 今まで贄が受け取られなかった年はないが、白羽の矢が二本立つのは源蔵が知る限り前例がなかった。神輿は一つしかない。贄を捧げなければ水神の怒りを買い、雨は降らず田畑は枯れ果て、村人は飢餓や疫病に苦しむことになると伝わっている。

「何か大きな災いの前兆でなければ良いのだが」

 源蔵は眉根に皺を寄せてそう零すと、揺らぐ蝋燭の炎をふっと吹き消した。


***


「ミツ、ほんとに行くのか」

「……うん、水神様には逆らえないよ」

 気丈に娘は答えたが、その手はひどく震えている。悲しそうな顔で少年はミツの手を握って、俯く彼女の顔を覗き込むように問いかけた。

「俺と、逃げようか?」

 少年の誘いを聞いたミツは強く目を瞑って、首を横に振る。ミツも少年も村のしきたりに抗えないことは分かっている。本当ならばこうして前夜に逢瀬を交わすのも良いことではない。しかし、幼い身ながら二人は惹かれ合っていた。握っていた手をゆっくり離すと、少年はミツの細い体をひしと抱き締める。

「水神様は無慈悲だ。俺は嫌だ、ミツを行かせたくない」

「治郎……」

「ずっと一緒に遊んで、笑って、仲良く夫婦になろうって約束したじゃねぇか」

 真っ直ぐな治郎の思いが、贄となることを受け入れたミツの心に打つように響く。だが、ミツの決意は揺らがなかった。抱き締め返してしまえば逃げたくなる。水神に逆らったら二人の家族や他の村人にも災いが及ぶかもしれない。

「ありがとう、大好きよ」

 私のこと忘れないでね、と涙声で伝えるとミツは治郎から離れた。なおも抱きすくめようと追いかける治郎の腕を躱し、背を向けて走り出す。

 振り返るな。振り返るな。

 自分の名前を呼ぶ声に足を止めたくなるのを必死に耐え、言い聞かせるようにそれだけを心の中で繰り返し唱える。もうすぐ満ちる空の月が、去っていくミツの背中を呆然と見つめて取り残される治郎を虚しく照らしていた。


***


 轟々と音を立てる滝を上から見下ろす位置、そこに神輿がゆっくりと降ろされる。突き出た岩肌に当たり幾重にも滝が分かれる様が、まるでかの有名な八岐大蛇の頭のように見えることから八蛇頭滝と名が付いた。滝の裏には洞窟があり、水神を祀る祠はそのさらに奥にあるとされている。村の誰も洞窟の奥へは行ったことがないにも関わらず、まことしやかに伝えられていた。結界が張られているだとか滝の裏側は異界に繋がっているだとか大きな岩で塞がれているだとか勝手な噂は飛び交っていたが、ともかく事実として村人は誰一人祠を見たことはない。それどころか洞窟の入り口にさえ立ったことのある者はいなかった。

 祈りの言葉が読み上げられ、贄の儀式は粛々と進んでゆく。その場にいるのは神輿の担ぎ手の男衆と祈祷師、娘の家族、そして護り刀の作り手である。源蔵は目を閉じて言葉を聞き、無理を言ってついてきた治郎は涙を堪えながら落ち着かない様子で大人たちの後ろに立っている。担ぎ手として同行した絲春はというと、やや俯いているものの僅かに開いた瞳で注意深く周囲に視線を巡らせていた。

(……まさか本当に“いる”とは。噂だけで実体はないものかと思っていましたが、ひと月前から乗り込んだ甲斐はあったようですね)

 村人たちは気付かない。滝の奥、そのさらに奥に何が“いる”のか。気付いているのは絲春だけだ。祈りの言葉が終わる。滝の位置をしっかりと覚え、絲春は村人たちとともに下山した。


***


 夜の帳が下り、村にはしんとした静寂が広がる。出来るだけ音を立てないように小屋の戸を閉め、絲春は弓を握り直した。向かう先は勿論、“水神”のいる滝だ。据え置かれた神輿は雨が降った後回収されるが、壊された形跡がないにも関わらず神輿の中に娘はいないのだという。

(“水神”の正体が何にせよ、わざわざ神輿を残して人払いをするというなら贄の娘を攫いに来るはず)

「正直、娘の命はどうでもいいですが……金になる“妖怪”は倒しておかねば」

 半信半疑でしたが来て正解でしたね、と笑みを浮かべた絲春は滝の上、神輿が見える位置まで近付くと木陰から様子を窺った。神輿の中にはまだ人の気配がある。いつ現れてもいいように背負った矢筒と弓を確認すると、絲春はじっと滝の方を見つめた。

 彼は退治屋である。人助けというわけではなく、報奨金の方が目当てだ。必要なら助けることもあるが、大概の場合人命を救うことには興味がない。絲春は倒した妖怪を解体して闇商人に引き渡す代わりに金を受け取っている。金持ちの中には変わった趣味を持つ者がおり、闇商人から妖怪の体の一部を買う輩が存在した。妖怪の血肉を呪術の道具として使う者もいたという話だ。そういった客層がいる限り、絲春の仕事は需要がある。

 不意に空気がざわりと揺れた。肌を刺すような妖気が滝の方から広がる。幾度となく妖怪を屠ってきた絲春も、背中に嫌な汗が流れるのが分かった。左手に弓を握り締め、右手で引き出した矢に毒を塗って番える。急所に刺されば大鬼でも昏倒する強い毒矢だ。

「……?」

 引き絞ろうとした弓を元に戻し、絲春は怪訝な表情で滝を睨む。妖気は確かに近付いているのに、肝心の妖怪の姿が見当たらない。代わりに地を這うような耳障りな声が纏わりつく。

“来い、来い、水の底へ……その足で、飛び込め”

 どろりと絡みつく妖気が絲春の肺を圧迫する。声に誘われるように、虚ろな眼差しのミツが神輿から降りて滝の方へ歩き出した。

「……成程、己の姿は見せず贄の方から飛び込んでくるように仕向けるわけですか」

 おそらく絲春が娘に声をかけても届かないだろう。それならば矢を向けるべきは姿の見えない妖の方ではない。贄を殺し、妖怪を洞窟の外へ引きずり出す。絲春の判断は早く、すぐに狙いを定めると強く弓を引き絞り矢を放った。しかし、その矢は娘に届く前に飛んできた何かにぶつかり硬い音と共に折れて地に落ちる。

「苦無……?」

 正確に矢を撃ち落としたのは黒い小苦無だった。絲春は苦無が飛んできた方向に目を凝らす。気配を殺していたため気付かなかったが、滝を見張っていたのは一人ではなかったようだ。

「退治屋のくせに罪のない人間を狙うなんて一体どういうつもり?」

 滝へ向かおうとする娘の手を引いて庇うように前に立った人物は、木陰に隠れている絲春の方向を真っ直ぐに見つめて問う。帯刀し防具を身に着けた少女の豊かな黒髪は色褪せた臙脂の組紐で結われており、きりりと吊り上がった眉が美しい。

「其方も妖怪退治を生業としている者に見えますがね。そも、我々が来なければその娘は贄として死んでいたはず。僕は人を助けに来たのではなく、妖怪を殺しに来たのですよ」

 緩く口元に笑みを浮かべた絲春は、少女の姿を視認すると木陰から出て返答した。あまり感情の乗らない口調で喋る彼の言葉を聞いた少女は、信じられないといった表情になる。

「私は意味のない殺生はしないわ。妖怪を殺すために護るべき人間を手にかけるなんて本末転倒、あり得ない。話せる相手なら一先ず話を聞く。殺すのは最終手段よ」

「その甘さ、いつか命取りになりますよ。そう……例えば今、とか」

「えっ?」

 表情は変わらないが、男の細めた瞳は滝を見据えていた。一拍遅れて水の柱が勢いよく立ち上がる。三人に降りかかる滝の水の中から現れたのは漆黒の大蛇だった。瞳だけが赤く燃えるように輝き、ぬらりと光沢のある巨躯は蜷局を巻いている。

「現れましたね、“水神”!」

 大蛇の姿を捉えた瞬間すでに矢を番えていた絲春は弓を引いたが、頭上から叩きつける水の勢いに阻まれて狙いを外した。蛇の灼眼が男を睨み付けると、立っていられないほどの圧が絲春を襲う。

(ぐ、ぅ……っ何という圧……!)

「待って駄目!」

 一方、降り注いだ水に押されて少女の手を離れた娘は、大蛇に吸い寄せられるかの如く歩き出していた。大蛇が贄の娘をまさに捕らえんとしたところに辛くも少女の手が届き、娘を強く引っ張って距離を取る。だが、大蛇は直ぐに二人を追随した。体勢の崩れた少女は娘とともに地面を転がるようにして攻撃を躱したが、続く一撃を避けることは叶わず傍らの樹に叩きつけられる。

「っ痛……!」

 ぎょろりと大蛇の瞳が少女の方に向いた一瞬、意識がわずかに逸れた隙を絲春は見逃さなかった。すかさず毒塗りの矢を番え、弓を強く引き絞る。放った矢は大蛇の体に命中するかに見えたが、即座に反応した大蛇に跳ね返されて僅かに傷を作るに留まった。舌打ちをして新たに矢を引き出そうとした絲春に標的を変えた大蛇が迫る。地面を蹴って離れようとしたが相手の方が圧倒的に早い。咄嗟に大きく開いた口へと閊えに立てた弓は呆気なく折れ、絲春の下半身が呑み込まれた。

「がっ、うぐ……ッ」

 牙が防具を容易く貫いて血肉を破る感覚に呻く。人の力では閉じた口をこじ開けることも儘ならない。傷口から滴る体液が地面を汚した。絲春は辛うじて掴んだ矢を大蛇に突き刺そうとしたが、動けば動くほどに食い込む牙がそれを許さなかった。遠のく意識に絲春が諦めかけたその時、視界の端で白刃が閃く。

「その人を放して!」

 横一線に薙ぎ払った少女の刀は、絲春を避けて大蛇の顔を斬りつけた。口の端から裂ける様に血が迸り、その痛みに叫んだことで解放された絲春が力なく地に叩きつけられる。すかさず少女は男を庇うように前に立ち、大蛇へと刃を向けた。痛みに呻く大蛇は血を零しながら二人に背を向けると瞬く間に滝の下へと消えていく。

 ひとつ小さく息を吐いて胸を撫でおろした少女は、素早く納刀すると絲春に駆け寄った。割れた防具を外して傷口を確認する。不規則に上下する胸の動きと荒い呼吸が傷の深さを物語っていた。おそらく肋骨も砕かれているだろう。大蛇の牙から染み込んだ毒も回り始めているはずだ。効果があるかは不明だが、せめて気休めにと手持ちの毒消しと水を飲ませると絲春の目が薄く開いた。苦しそうに息を継ぎながら、男は小さく問いかける。

「何故……助けたのですか」

「当たり前じゃない!喰われかけていたのよ!?」

「……そうではなくて、何故妖怪を殺さなかったのかと聞いているのです」

 少女は男の問いの意味を正しく理解し、そして答えた。優先すべきは人命であり、妖怪の討伐ではないのだと。絲春は呆れたように目を閉じると、ほとほと甘いですねと返す。

「それならば死にかけの僕ではなく……あそこに倒れている娘の方を気にかけるべきでしょう。今は意識を失っているようですが、手負いの僕では村に連れ帰ることも出来ない。先刻のようにまた妖怪に導かれないとも限らない、ですし……げほっ」

「初めから連れ帰る気なんてなかったでしょう。もうあまり喋らないで、傷が広がるわ」

 咳き込んで表情を歪めた絲春を見て、少女が咎めるように声をかける。止血して村へ戻り医者を呼んだとしても間に合うかどうか。下手に動かないように念を押すと、倒れているミツの方へ歩み寄る。幸い彼女には大きな怪我はないようだったが、絲春の言う通り大蛇が娘を再び洗脳する可能性はあったし、そうでなくともこの場に放置するわけにはいかなかった。しかし少女は二人を共に運べるほどの膂力など到底持ち合わせておらず、かといって都合よく荷車が転がっているはずもない。体格の小さいミツ一人だけでも、抱えて山を下りられるかと問われれば首を容易に縦には振れなかった。

 ひとまずミツを背負って絲春の近くまで寄ってみたものの、その短い距離を運んだだけで意識のない彼女を連れて山下りは厳しいと判断できてしまった。夜明けを待って村人が神輿を引き上げに来るまで大人しくしているべきかとも考えたが、絲春の様子を見る限り何の施しもなしに朝まではもたないだろう。決断しなければならない。命の順位を。

「……そもそも、どうしてこの村に来たんです?僕は悪趣味な依頼人からの仕事ですが……正直実際に滝の前に行くまで水神が妖怪だという確信は持てませんでしたがね。げほ、ごほっ……あぁ喋ると肺が痛い。これほど惨めにやられてしまうとは……どれだけ金を積まれようとも命がなくては使い道もない。まぁ今となっては、どうでもいいですが」

 死の淵にいながら思いのほか饒舌な絲春だったが、それは命を繋ぐことを諦めているからだというのは少女にも分かった。この男は端から自身の生死に無頓着なのだ。生きることに縋りつかず、自ら死に場所を探すでもなく、その身に降りかかった傷を享受している。

「本当は貴方のことも見捨てたくないのだけれど、私は私が抱えられる分だけしか助けられない。ごめんなさい。それと、質問の答えだけれど……偶然近くを通った時に村の男の子に頼まれたの。真っ青な顔で泣きながら地面に頭を擦り付けて。私の格好で退治屋だと判断したんでしょうね。断れなかったわ。私もこの目で見るまで水神の正体は分からなかった……人間を喰うなら何故神様気取りで生贄なんて非効率的な方法を取っているのかしら」

「……さぁ。僕にとって妖怪という存在は金になるかならないかという違いしかない。どうして水神を騙っているのかは然して興味がありません。あの大蛇が聞く耳を持ってくれるか甚だ疑問ですし、人助けなど偽善だと僕は思いますが……その甘ったれた気遣いのおかげで喰われずに済んだことには感謝します。最期が泥の上とは心地の良いものではありませんが、妖怪の腹の中よりは随分ましです」

 絲春が流している血は止まっていない。傷が大きく少女の手拭いだけでは到底覆いきれなかった。時折痛みに顔を顰める素振りはあるが、彼の言葉はしっかりしている。それでも、もうすぐ死ぬと分かる。

「そういえば名前を聞いていませんでした」

「……深雪。貴方は?」

「良い名ですね、白い肌によく似合う。僕は絲春といいます」

 深雪は男の手をそっと握った。不意を突かれたのか、困惑して固まる彼に静かに告げる。

「……絲春、貴方の方針には賛同できないけれど、私一人だったら彼女もろとも喰われていたかもしれない。形はどうであれ、私も貴方に感謝しているわ。もう行かなくては。この子を村へ送り届けたらすぐに戻ってくる。だから……」

 どうかそれまで生きて。血の通わなくなりつつある手を包んで、そう強く願う。絲春は力なく微笑んで、早く行きなさいと答えた。深雪は一つ頷いてミツを背負い、よろめきながら山を下りていく。二人分の重さで沈み込むような足音が聞こえなくなるまで視線だけで見送り、男は細く長く息を吐いた。

「……感謝されるとは。僕には少々むず痒い言葉です」

 少しずつ体が冷えてきた。もう起き上がることも叶わない。ぼそぼそと喋るだけでも息が苦しい。指先の感覚がなくなりつつある。

(死なないでほしいと思うのは何故でしょうね)

 僕らしくない、と呟いた言葉は声にならず空気に溶けて消える。それきり絲春が動くことはなかった。


***


「ぐ……ぅ……」

 痛い。斬られた傷が塞がらない。口の左端から一尺ほどに渡って切り裂かれた傷は、いまだ血を滴らせていた。大蛇はうまく開かない口で悪態をつく。洞窟の奥、黒い体をぬらつかせながら痛みに呻くこと数刻。一向に塞がる気配のない傷口に、斬られたときの感覚を反芻する。

(あの小娘の刀……退魔の力が宿っているのか)

 白い刀身、柄巻きは牛革、流水を象った鍔に黒塗りの鞘。纏う力は比べものにならないが、その拵には見覚えがあった。美しい刀だった。しかし、その持ち主の顔は薄らぼんやりとしている。ただ真雪のように白い肌と艶のある黒髪が美しかったことだけは確かだ。

 ぼたり、とまた血が零れた。手足のない大蛇は拭うことが出来ないため、妖力を高めて回復するのを待つしかない。それが彼には苛立たしかった。ふと大蛇の聴覚が足音を捉えた。ゆっくりと近付いてくるうちに息遣いも分かるようになる。

「……ここに、いたのね」

 袖や裾から水が滴るほど濡れた姿から滝を抜けてきたのだと察せられた。まさか飛び込んで辿り着いたのか、と大蛇は瞠目する。少女が刀に手をかけたので威嚇の体勢をとると、違うと弁解するような仕草を見せたあと少女は帯から刀を抜き足元に置いた。

「……?」

 今にも飛びかかろうかとしていた大蛇は、彼女の行動の意味を図りかねて訝し気に少女を眺める。刀の次は苦無、防具、薬袋。次々と身に着けているものを外していく。

「話をしましょう」

 そういった深雪は着物だけを残した姿で歩み寄った。攻撃する気はないという意思表示だろう。だが、いつでも殺せるよう大蛇は警戒を緩めない。

「その傷……痛かったでしょう、ごめんなさい。あぁでもしないと彼を離してくれないと思ったの」

「……」

 手当てさせてほしいと宣う深雪に大蛇は疑惑の視線を向けたが、敵意がないことを悟ると大人しく少女を受け入れた。あんなに塞がらなかった傷も血止めによって幾分痛みも和らいだ気がした。てっきり自分を殺しに追いかけてきたのだと思っていた大蛇は、心に浮かんだ疑問をそのまま口にする。

「一体何の真似だ。贄の儀式を邪魔するだけでは飽き足らず、追って来たかと思えば怪我の世話とは……喰われるかもしれんという恐怖はないのか?」

「あるわ。でも、私は……うまく共存できるならそれでいいと思っているの。妖怪だからという一点で悪と決めつける考え方は間違っている。貴方が話を聞いてくれる妖怪で良かった」

 そういって微笑みかけた少女の表情に、大蛇は既視感を覚えた。嗚呼、そういえばあの女もこうやって笑う人間だった。白い肌と黒い髪、腰に提げた刀。目の前の少女は記憶の中の女と似ている。彼女も退治屋だった。そして大蛇が喰い殺した女だ。

「……昔、お前と同じように俺に笑いかけた奴がいた」

 大蛇は苦い顔でぽつりと思い出話を始めた。


***


 彼は名前を蛇琵(だび)といった。水源と相性が良く、雨を降らせる力があった。かつての蛇琵は力も弱く、人型に変化することが出来ず見た目は少し大きめの普通の蛇といった風貌だった。野山の小動物を喰って腹を満たしていたが、ある日気まぐれに山の麓まで降りたことがあった。その時に遭遇したのが、件の女だ。腰に提げた太刀は見るからに蛇琵を斬りたがっていて、殺されると直感した蛇琵はすぐさま逃げ出した。

 だが、女は「怖がらないで」と蛇琵を呼び止めた。どんな表情をしていたかは分からない。それでも声色が優しかったので振り向いたような気がする。差し出された握り飯は格別に美味く、それからすっかり懐いてしまった。女が妖怪退治を生業にしていることは分かっていたが、彼女からは殺意や敵意を一切感じることがなく共に過ごす時間は心地よかった。いつしか彼女を待つ時間が苦痛になり、ついて行きたいと思うようになった。

 蛇琵が別段美味くもない人を喰うようになったのは力が欲しかったからだ。強くなれば出来ることが増える。人間にも化けられるようになるだろうと踏んでいた。しかし、何人喰っても蛇琵の能力はあまり変化がなかった。ただ妖力だけが増し、体が大きくなった。力を求めるあまり喰う量が増えた。蛇琵は確かに強くなったが、彼が欲した能力は一向に手に入らなかった。

 人を多く喰い殺せばその分だけ恐怖と憎しみを生み出し、退治屋たちは蛇琵を排除するべく動き始める。その全てを蛇琵は返り討ちにした。己の敵を噛み砕き、その血肉を啜ってさらに強くなった。

「雪姫(ゆきひ)、見てくれ!少し不格好だが人に見えるだろう!」

 久しぶりに現れた女に興奮気味に話しかけた蛇琵は確かに人の裸体に近い形をしていたが、全身に浴びた返り血もそのままに足元の肉塊を踏みつけて無邪気に笑う姿は到底人と呼べるものではない。雪姫は蛇琵の変化を喜ばなかった。今まで彼女から感じたことのない敵意と、それと同じくらい強い悲しみの感情が透けて見えた。

「……どうした、なんで笑ってくれない。人間の姿ならお前と一緒に出歩ける。やっと出来たんだぞ」

「蛇琵、お前は変わってしまった。私が遠国に出向いていたこの半年の間にいったい何人喰った」

「ざっと百は喰ったかなぁ。おかげでほら、まだ慣れないが両の手足もついた。お前と手も繋げる」

 悪びれもせず嬉しそうに述べる蛇琵に、雪姫は思わず声を荒げた。

「そんな……そんなどうでもいいことのために多くの人を殺したのか!お前が今踏みつけているのは私の父だ!私はここにお前を迎えに来たんじゃない!」

 震える手で抜いた刀を突き付けた雪姫を見て、蛇琵はようやく彼女の来訪が歓迎すべきものでないことを悟った。鋭い白刃は初めて出会った時と同じように蛇琵を殺したいと叫んでいたが、迫りくる太刀筋は不思議と止まって見えた。その後のことはよく覚えていない。気付けば目の前には刀を握った雪姫の腕が落ちていた。

(どうでも、いい……そうか、どうでもよかったのか……)

 蛇琵の中に芽生えていた淡い感情は涙と共に流れて消えてしまった。せっかく身に着けた能力ももう必要ない。忘れてしまおう。結局のところ、与えられた優しさは特別なものではなかったのだろう。蛇琵はそう結論付けて滝の奥に篭り、人に化けることをやめた。


***


「人と妖は共存できない。贄を差し出すように仕向けたのも、白羽の矢を二本立てたのも、只の俺の気まぐれ。少し俺の気が変われば、お前も殺されて終わる。それだけの話だ」

「どうして初めから決めつけるの」

「……住む世界が違うんだよ。互いに憎んで殺し合うことはあっても、手を取り合って共に歩むことはない」

「でも……貴方は手を繋いで彼女と触れ合いたかったんでしょう?一緒に、歩いていきたかったのよね」

「……!」

 蛇琵は一瞬驚いたように目を見開いた。何かを言おうとして口を噤んでしまった彼を見かねて深雪が更に話しかける。

「あの、これは私の憶測でしかないのだけれど……どうでもいいと言ったのは、きっと貴方が思っているような意味じゃないわ。彼女は人間の姿でなくても貴方を愛していたのだと思う。貴方が妖怪であることなんてどうでも良かったのよ。ただ一緒にいる時間が幸せだったのに、愛する貴方が自分のために多くの人間を殺してしまったことが悲しかった……そんなところじゃないかしら」

 深雪は仲間から判断が甘いと散々釘を刺されてきた。妖怪は須らく皆悪であると徹底している者の方が圧倒的に多く、すぐに斬ろうとしない深雪はいつも誰かと共に向かうように指示されていた。今回の寄り道も仲間に知れたら一人で余計なことに首を突っ込むなと叱責されるに違いない。

 下山途中で鉢合わせた治郎に引き渡したミツのことも気にかかる。ミツは必ず俺が守ると言い切った、自分より身の丈も小さく幼い少年の強い意志を持った瞳を思い返す。村に戻るのか逃げるのかは聞かなかった。それは彼がミツと一緒に決めるべきことだ。

 温もりを失った絲春の骸は傍らの樹の根元に葬った。分かってはいたことだったが、助けられなかった無力感に打ちひしがれそうになった。滝に飛び込む前、空を見上げた。美しい満月が天高く輝いていた。

 入山してからどのくらい経ったのだろう。洞窟の中は暗く、時間の感覚も忘れてしまいそうになる。勝手な憶測に対しての大蛇の反応を深雪はじっと待った。

「……雪姫にとってはどうでもよくても、俺にとっては重要なことだった。俺は……ただ、雪姫の隣にいたかっただけだ。自分の手で、抱き締めたかった……だけなのに……」

 ぽつりと蛇琵の心の声が零れた。愛した女を喰い殺したあの日から誰にも語ったことはなかったが、初めて言葉にしたその感情は彼自身が思っているよりずっと儚く寂しく響いた。忘れたはずの恋慕の情が鈍く彼の心に蘇る。嗚呼、ようやく思い出した。刀を突き付ける彼女は確か泣いていた。“お前がいるだけで良かったのに”と。

 人間になりたかったから強くなろうと思った。強くなりたくて喰うために殺した。喰っても足りなかったからもっと殺した。殺されたら会えなくなるから殺した。裏切られたと思ったから会いたかった人まで殺してしまった。

 そして、人間を喰う理由がなくなった。

「ここまで長く俺の話を聞いたのも、話を聞いて逃げ出さなかったのもお前が初めてだ。俺に同情する奴なんて一人もいなかった。他の女は俺が人間を喰ったことがあると話しただけで皆取り乱して何処かに消えてしまったからなぁ」

「……貴方、もしかして贄を喰っていないの?」

「運悪く滝に呑まれてそのまま死んだ奴はいたが、俺は贄には手を出していない。あぁ、そういえば懐の護り刀で自害した女もいたな……あれはあれで美しい拵だった。作り手の腕が良いんだろうな。あとは羆に喰われたか川に溺れたか知らないが、逃げ出した奴らは誰一人俺の元へは帰ってこなかった。俺が喰ったのは雪姫が最後だ。一番美味かった……だが、もう二度と味わいたくない」

「後悔、しているのね」

「そうかもしれない。今年の贄はお前が逃がしたのか」

 咎める風でもなく淡白に聞かれて深雪は面食らった。いつ責められるかと内心で思っていたので、答えはするりと言葉になる。

「え、えぇ……そうよ。彼女と共に生きたいと望んだ少年のために。勝手なことをしてごめんなさい。でも……」

「お前の望みは何だ」

「え」

 深雪の言葉を遮っての問いに、今度は返事に窮する。ミツを逃がし、治郎に引き合わせ、当初の目的は既に達成されている。大蛇を探したのは……話がしたかったから。深雪は素直にそう伝えた。

「物好きだな。でも俺の問いの答えにはなっていない。話をするからには目的があるだろう」

 少し逡巡した後、深雪は血のように紅い蛇琵の瞳を真っ直ぐ見つめた。口の中に溜まった唾を飲み込み、緊張で乾いた唇を震わせる。

「贄を受け取るのをやめてほしいの」

「何故だ?」

 村人達は疑問を持つ者はいても根本的には贄の儀式を文化として受け入れている。蛇琵も恩恵として雨を降らせることで互いの利害は一致していた。彼が能力を使うまでもなく雨が降ることもある。村人にその差異が分かるはずもない。降れば恵みだと言って喜び、降らなければ天災だといって勝手に解釈するだけの話だ。

 蛇琵は贄がなくても実害はないが、深雪がやめさせようとすれば水神の祟りを恐れた村人達が逆上する可能性もある。部外者の彼女が贄にこだわる理由が分からず、蛇琵は不思議そうに見つめた。

「貴方が贄を別段必要としていないのなら、尚更やめるべきだわ。人と妖は共存できないと言ったけれど、貴方には雨を降らせる力があるのでしょう?それなら贄の儀式をやめて真実を伝え村の繁栄のために雨の恵みを与えれば、貴方は畏怖の対象から敬愛の対象になる。偽りの神としてではなく、妖として人と一緒に生きることが出来る」

「……真実を話せば、村人達は恐怖に煽動され俺を殺そうとするだろう。雨の恩恵も忘れてな。それに、一つお前は勘違いをしている。俺は別に人間と慣れ合いたいわけじゃない。俺が共に生きたいと思ったのは雪姫だからだ」

 少し俯いて深雪は小さく頷き、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「分かっているわ。でも、無意味に贄を死なせ続けるよりずっと良いと思うの。初めは理解されないかもしれないけれど、いつか必ず貴方を理解してくれる人が現れるわ。その……雪姫という人のように」

「……お前は?」

「私も出来る限り村の人達に信じてもらえるように説得に協力するわ」

「そうじゃない」

「え?」

 言葉尻に被せるように力強く否定を放つ蛇琵に、深雪は驚いて顔を上げる。そうして見上げた蛇琵の表情に、深雪は息を呑んだ。人間ほど表情が動かない分、瞳が如実に語っている。

「お前は、どうなんだ」

 漠然とした問いかけだが、深雪には伝わった。お前は理解しているのか、と。彼が求めているのは愛した雪姫の代わりだ。何かを期待するような、そんな眼差し。察すると同時に、その気持ちには応えられないという拒絶が浮かび上がる。深雪は退治屋とはいえただの人間であり、大蛇は妖怪である。そんな二人が共に生きるなんて……と、そこまで考えたところで深雪は自分の思考が先ほどまでの発言と矛盾していることに気付いた。無意識に自分を蚊帳の外に置いていた。否定していた。人助けなど偽善だ、と言った絲春の言葉が脳裏に過る。深雪は凍り付いたように何も言えず固まってしまった。

「……答えられないか。別にいい。予想通りだ」

 諦めの混じった声色の大蛇に、深雪は何か言わなければと唇を動かそうとしたが震えた吐息が漏れるだけで言葉にはならなかった。

「今年の贄の儀式は終わった。来年のことは暫く考えておく。お前は日が昇る前にこの村を出ろ。もう此処に留まる理由もないだろう。滝の上までは送ってやる」

 深雪の返事を待たずに、大蛇は少女の体を絡め取ると有無を言わさず洞窟の外へと連れ出した。飛び込む前と同じように天には煌々と輝く満月があったが、その位置からして確実に時間は経過していた。少女に刀を返し直ぐにその場を立ち去ろうとする大蛇の背中に向けて、ようやく絞り出した深雪の声がまさに発されようとした時だった。背後からかけられた声に、深雪は勢い良く振り返る。

「お前さんが、治郎の言うた退治屋か」

「貴方は……」

「村で彫り師をしている源蔵と申す。治郎から大方の話は聞いた。そこにいるのが水神様を騙っていたという妖怪だな?」

「……!どうして、ここへ……まだ夜も明けていないのに」

 源蔵の朝は早い。日が昇るよりも前に起き出し、空が白み始める頃まで日課の木刀素振りをこなし、水を汲んで朝飯を済ませ、彫り仕事を始める。来る日も来る日もほぼ同じ生活を繰り返す毎日。だが、ここひと月の源蔵の生活には絲春という存在が加わっており、それが今日欠けた。もぬけの殻となっていた小屋を見て立ち尽くしていたところに、旅支度を整えた治郎とミツが忍びでやって来た。黙って村を出ていけば良かったものを、古くから儀式に関わる源蔵にだけはと挨拶に訪れたのだ。

 水神はやはり悪い妖怪だったのかと問うた治郎に、深雪は“間違いなく妖怪だったけれど、その善悪はこれから確かめるわ”と伝えていた。源蔵は幼子だけで何処へ行こうというのか、と引き留めたが二人は頑として聞かなかった。強い意志を曲げられないと感じた源蔵は、家の棚に眠っていた予備の護り刀を二つそれぞれに持たせて見送った。そして滝まで様子を見に来たところ、深雪と大蛇に遭遇したのである。

「絲春は殺されたのだろう?」

 源蔵の話を聞いて、助けた二人が無事に村を出られたと知り安心する間もなく、鋭い源蔵の問いが深雪の胸を刺す。治郎に絲春の話はしていない。何故知っているのかと疑問が顔に出ていたのか、源蔵が続けて口を開く。

「そこの樹の根元に、矢筒と共に真新しい盛土があった。絲春は儂の家に居候していたからな。矢を見たことがある。わざわざ此処に来て自害するとも思えん。ならばお前さんと同様に退治屋として妖怪を屠りに来て返り討ちに遭ったと考えた」

「彼は……絲春は、妖怪に喰われかけて……助けようとしたけれど傷が深くて、そのまま」

「そうか」

 一言だけ答えて頷くと、源蔵は少女の背後にいる大蛇に視線を移した。

「儂には神がどのような姿をしているかなど分からん。妖怪だと言われてもそれを判断できる材料がない。もっと荒々しく、目にした人間を容赦なく喰い殺すような獰猛な連中かと思っていたが存外静かなものだな」

「……」

 大蛇は少女越しに老人を見つめるだけで何も言わない。しかし源蔵が懐から小刀を取り出すと、ほうと興味深そうに呟いた。源蔵は深雪に問う。

「退治屋の嬢よ、こやつの善悪の判断はついたか?」

「……!彼は悪ではないわ!」

「人を喰い殺した者を悪でないと断ずるか」

「っ……それ、は」

 じり、と源蔵が一歩前に進み出た。意匠を凝らした美しい鞘を抜き取り、月明かりに薄い刃を煌かせる。

「儂の娘もかつて贄として差し出された。気の強い娘で周りには何も不安など零さなかったが、儀式の前日の夜、儂にだけ泣きついてきた。妖怪に喰われるくらいなら父の彫った刀で死にたい、とな。そこの妖怪は一人の贄のことなど覚えておらんだろうが、儂はその娘の言葉を聞いたとき村を捨てて娘と心中してやりたいとすら思った。だが水神の祟りを恐れて泣いて送り出すことしか出来なかった。恨んでいるのだ。それでも尚、お前さんは悪でないと宣うか。堂々と掲げた退治屋の看板は飾りか!」

「私は……!人を救うために退治屋になったわ!人を殺すのは勿論悪だと分かっている、けれど」

「お前さんが庇うなら、儂が殺す。形のある悪だと分かった今、目の前に娘の仇がいてどうして復讐しないでいられようか」

「駄目よ、そんな小刀じゃ殺せないわ!自ら死にに行くようなものよ!」

「ならば腰の刀を抜け。そして後ろにいる大蛇を斬れ!それがお前さんの正しい道だ」

「ま、待って!彼は……!」

 源蔵は老人にしては大柄で、刃を突き出したまま少しずつ距離を詰めてくる。一歩ずつ後退しながらも大蛇を庇う深雪の体は小さく、時間稼ぎにすらなりはしない。それでも彼女は刀を抜かずに必死で食い下がった。そんな深雪の姿を見て、蛇琵は彼女の背中に頭上から声を投げかける。

「人間は強欲だ。どれもこれも救いたいなんて、そんなものは都合の良い幻想でしかない。この状況でまだ俺を本気で擁護するつもりなら、振り返らずにそのまま三歩下がれ。その気がないならさっさと尻尾を巻いて逃げろ。二つに一つだ」

 深雪が大蛇の言葉の真意を汲み取れずにいると、一向に刀を抜こうとしない彼女の態度に痺れを切らした源蔵が駆け出した。咄嗟に飛び出した深雪の体は、瞬きの間に滑る巨躯に絡め取られていた。

「……逃げるか振り返らずに下がれ、と言ったのに一つも守らないとはな」

「っ……どう、して」

 問いに答えるより先に斬りかかってきた刃が大蛇の肌を裂いた。薄く研がれた刃は確かに届いたが短く、傷は微々たるものだ。源蔵は再び刀を大蛇の体に突き刺した。何度も、何度も。大蛇からすれば深雪に斬られたときに比べれば痛くも痒くもない。傷口から跳ねる血が源蔵の着物に散った。手は返り血で塗れた。だが、大蛇は微動だにせず深雪を巨躯の内に匿ったまま哀れな老人を見つめている。

「お前の刀は妖怪退治の道具じゃないだろう。もっと純粋な心で作られたはずだ。そうでなければあんな美しい意匠にはならない」

 無心で刀を突き刺していた源蔵の手がぴたりと止まった。日々鍛えているとはいえ、高齢の体は疲労が溜まり、呼吸を乱す。息を荒げながら源蔵は吠えた。

「妖怪如きに何が分かる!何が水神様だ……何が雨の恵みだ!人殺し風情が分かったような口を利くな!!」

 一際大きく声を張り上げると、全身の力を込めて刀を突き刺す。源蔵の腕には血が飛んだが、やはり傷は浅く大蛇は全く意に介さなかった。

「畜生……」

 源蔵は膝をつき、涙を流した。手から小刀が零れ落ちる。薄い刃は血に塗れていて、ぬらつく血液は月明かりを受けて赤黒く光った。少女を解放すると、大蛇は呆然と座り込む源蔵を改めて睨む。その視線の鋭さに、深雪は大蛇が何をしようとしているのか悟って慌てて源蔵と大蛇の間に滑り込んだ。

「殺さないで!」

「何故だ、俺を殺そうと襲い掛かってきた人間だぞ」

「戦意は喪失しているわ!この人を殺せば、貴方は本当に此処にいられなくなってしまう!」

「もう遅い。水神が妖怪であると知れただけでなく、並大抵の武器では大した傷もつけられないと分かれば、自ずと退治屋の出番だ。お前が俺を殺さなくても、他の連中は違うだろう」

「でも、話せば分かっ……!?」

 急に着物の裾を強く引かれて、深雪は後ろに仰け反る形になる。

「早く大蛇を殺せ!お前さんまで殺されるぞ!退治屋!!」

 血走った目で訴える源蔵は、深雪の腰の刀に手を伸ばそうとしていた。咄嗟に振り払うと、既に疲弊している老人は尻もちをつく。それでも落とした小刀を拾い上げ早く殺せと叫んでいる。

「……ほら、だから言っただろう。人と妖は共存できない。少なくとも人間を喰ったことのある俺が敬愛の対象になるなんてことは有り得ない。赤子でも分かる馬鹿げた話さ。お前の言う理想は偽善だ」

「殺せぇぇぇぇ!!」

 憎しみを募らせた源蔵は大蛇ではなく深雪に突進する。刀を抜け、と脅すつもりだったのだろう。しかし深雪は避けずに自ら進んで源蔵の刃を受け止めた。

「うっ……く……ッ」

 大蛇には僅かな傷しか与えられなかった刃も、少女の小さな体は容易く貫通する。刀は返されたが、防具は身に着けていなかったことも災いした。丁寧に研がれた刃は血に塗れていても切れ味鋭い。深雪の腹から瞬く間に血液が滲んだ。源蔵は驚いて刀を引き抜いてしまい、傷口からさらに血が噴き出す。

「避けろ、馬鹿……!」

 一方の大蛇は、まさか避けられないとは想定しておらず、それどころか自分から刺さりに行くという愚行に怒りを覚えていた。源蔵を止める方法なら他にもあったはずなのに。

「ごめ、んなさい……わたし、やっぱり……かれをころせない……」

 半開きの口で固まっている源蔵の目の前でゆっくりと深雪の体が傾いでいく。大蛇の瞳が源蔵を鋭く睨み付け、牙が源蔵に迫る。だが、一歩も動けない男の目と鼻の先まで近付いて止まった。殺さないで、と掠れた声が聞こえたからだ。大蛇は口を閉じると加減して頭で源蔵を横から弾き飛ばし、倒れた少女を絡め取って滝へと飛び降りた。

 返し損ねた防具と共に薬袋もあったはずだ。いや、その前に止血か。だがどうやって?洞窟の奥にたどり着くまで大して時間はかからなかったが、連れてきたところで人間の殺し方しか知らない蛇琵にはどうしたらいいかも皆目見当がつかなかった。そもそも助けてやる義理などないのだ。あんな老人に構わず、さっさと村を出るべきだったのに。

「どうして……お前は、自分以外の全てを救おうとするんだ」

 そんなもの、無理だと分かっているだろうに。妖怪なんかに構っているから、こんなことになる。蛇琵はただでさえ白い深雪の顔が血を失って青白くなっていくのを見つめながら、手足がないことに苛立った。圧迫して止血しようにも巨大な体では圧し潰してしまうかもしれない。口では牙が邪魔で咬み殺してしまうかもしれない。殺すのであれば容易いが、薬袋を開けるだけで四苦八苦している。こんな時、人間だったら……そう考えて化けようとしても、捨ててしまった能力はうまく機能しなかった。苛立ちが募るほどうまくいかない。

 死んでしまうのか、こんなに簡単に。なんて脆い生き物なのだろう。傷口から流れ出る血液が湿った洞窟の地面を濡らしていく。蛇琵はようやく破くように開けた薬袋から零れ出た薬を前に、その種類も判別できないことに気付いた。分かったところでどうやって飲ませるつもりだというのか。乾いた笑いが漏れた。

「……俺の話を最後まで聞いてくれたことが嬉しかった。共に生きるとは言わなかったが……何もここで死ぬことはないだろう」

 村の医者に見せるか。いや、自分が連れて行ったところで逃げられるだけだ。少女はまだ息はあるが、こうしている間にも弱々しくなっているのが分かった。苦しそうに息を吐き出しながら深雪がうっすらと目を開く。

「さっきの、ひとは……」

「軽く殴っただけだ。殺してない。喋るな、傷が広がる。あぁ……いや、薬は飲めるか?」

「……ごめんなさい、あなた、に……めいわく、を」

「俺のことはいい。水ならあるが、薬の種類が分からない。飲めるなら自分で飲め」

「もう……てに、ちからが、はいらなくて……」

「そうだ、俺に使った血止めはどうした。薬袋の中にはなかったようだが」

「つかいきったわ……きず、おおきかった……から」

「……そうか」

 なんとか腕だけでも生やせないかと色々試してみるが、やはりうまくいかなった。深雪を治すことを諦めた蛇琵は、せめてと問いを投げかける。

「最期に、何か望みは」

「………わたし、あなたと、いきられないとおもった……あなたの、こころに……よりそってあげたかった、のに」

「こんな時まで他人の心配か。元から期待していない、安心しろ」

「ごめんなさい……」

「なんで泣く。なんで謝る」

「わたし……ゆきひさんには、なれない……」

「……!」

 死ぬ間際に何を言うかと思えばそんなことを考えていたのか、と蛇琵は衝撃を受ける。そして、静かに答えた。

「もうそのことはいい。お前が雪姫でないことくらい分かっている。期待なんて……」

 期待などしていない。もしかしたら理解者として一緒に歩んでくれるかもしれない、と一瞬でも考えたのは気のせいだ。そう自分に言い聞かせて、大蛇は冷たくなっていく深雪を見つめた。


 蛇は涙を流さない。人の姿を模していた時に流したあの一度だけだ。

 蛇は手足を持たない。手を握ることも、抱きしめることも出来ない。

 蛇は……。

 

 既にこと切れた深雪を横目に見ながら、大蛇は自分の体に噛みついた。沈んだ牙から滲む毒が蛇琵の全身に巡っていく。自分の毒だが、外から大量に流し込めば出血とも相まって死ぬだろうと考えてのことだった。巨躯は毒の回りも遅い。毒が効く前に分解されてしまわないかと思いもしたが、それは杞憂だったようだ。徐々に体が痺れて動けなくなる。

 別に最初から心中するつもりだったわけではない。ただ、雪姫にはなれないという深雪の言葉を聞いて、改めて雪姫の代わりはいないという事実に打ちのめされたのだ。

「……常世でまた出会えるといいな」

 どろりと溶ける意識に、蛇琵は静かに身を任せた。


***


 とんちきちん。とんちきちんとん。ちんとんとん。

 山王祭の夜に祭囃子が鳴り響く。空にかかる大きな雲の上では数多の妖たちがやいのやいのと騒ぎながら下の様子を眺め、祭りの喧騒と重なるように百目鬼が鳴らす鈴の音が響いていた。身を乗り出すようにして覗き込むのは一つ目、唐傘、大入道。小鬼や付喪神たちも目を輝かせて山王祭を見ている。

 やがて酒が配られ、総大将の号令とともに百鬼夜行の大宴会が始まった。今年加わったばかりの黒髪の男は慣れない様子で盃を持ったまま周りを見回していたが、早くも酔っぱらった一匹の小鬼に促されて頂戴した酒に口をつける。

 宴の中心にいる総大将は藍の着流しでくつろぎ、市女笠を被った奥方と何やら楽しそうに話をしている。黒髪の男は目の前をよたよたと横切る篠笛にくくりつけられた手紙らしきものに気を取られていたが、周りの妖怪たちが騒ぐので視線の集まる方へ耳を傾けると、総大将の声が聞こえた。

「知ってるか?満月の夜に心中したやつは来世で結ばれるのよ。なんせ俺達がそうだった」

 一瞬静まり返ったあと、場は一気に大笑いに包まれた。しかし黒髪の男は顔を強張らせて盃を取り落とす。隣にいた小鬼は驚いて仲間の元へ走り去っていった。

「……満月の、夜」

 男の頭に総大将の言葉が反響する。“満月の夜に心中すれば、来世で結ばれる”。無意識に顔に手を伸ばすと、口の左端から頬にかけて残る傷跡をなぞった。盛り上がりを見せる宴とは対照的に、舌の上に残った酒の味がなくなっていく。

 果たしてあれは夜だったのだろうか。洞窟の奥深くでは空の様子など分からない。だがもし、満月の夜であったなら。現世で彼女と結ばれることになる。黒髪の男の正体はつまり人の姿をとった大蛇であり、彼の体躯には不釣り合いな細身の刀を腰に差している。黒塗りの鞘に流水を象った鍔、柄巻きは牛革。皮肉なことに転生した彼には、あの日どんなに挑んでも成功しなかった“人に化ける”能力があった。

 新入りが無礼な真似とは承知の上で、大蛇は頃合いを見計らって総大将に声をかけることに決めた。聞かずにはいられなかった。陽気で豪快な総大将は特に嫌な顔一つせず大蛇の言葉を促した。

「先ほどの心中の話、本当か」

「あぁ。なんだ、手前惚れた女がいたのか」

「来世では……出会えば互いに分かるものなのか?……見つかるだろうか」

「さぁな。自分が見つけられないと心配しているのか、見つけてもらえないと心配しているのかは知らねぇが、手前にゃ立派な目印があるだろう」

 総大将は閉じた扇子で大蛇の顔と腰の刀を指し示した。深雪に傷付けられた顔と、深雪が提げていた刀。どちらも彼女に関わるものだ。

「百鬼夜行に連なりながら探すも良し、抜けて自由に探すも良し。好きにしな」

 いつかは見つかるだろう、と言って締めくくった総大将に礼を言って、大蛇は妖怪たちの集まる方へ戻る。騒ぎ疲れた皆が眠ってしまっても、ぼうっと空を見上げて考えた。

 出会えなければそれでもいい。しかし、抱いてしまった期待は大蛇の胸をひどく締め付ける。もう一度巡り合えたら、その時は今度こそ自分の腕で抱き締めてやりたい。途方もない旅路になるかもしれないが、雪姫の代わりではなく深雪自身を愛すために。彼女を探し続けようと大蛇は決意し、顔の傷をそっと押さえた。


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