企画寄稿文
紅崎雪乃
天狐
雲上の宴の末席、お祭り騒ぎの妖怪達を眺めながら静かに盃を傾けている男がいた。その傍らには美しい遊女に化けた世話係の狐が控えている。酒の席だというのに楽し気にするでもなく、きちりと襟を正した着流し姿で正座した男は、空いた盃をついと右へ差し出した。何も言われずとも察した女狐は酌をする。
「白様、今宵は何方かとお話しなさいませんの?」
とっぷりと注がれた酒を受け取りながら、白と呼ばれた男は視線を賑やかな宴の方へ向けたままゆるやかに微笑んだ。空いた左手で肩にかかる長い白髪を払い、一口酒を含んで飲み下してからようやく口を開く。
「用向きあれば向こうから自ずとやってくるだろう。それに、一処に囚われるより外から聞き耳を立てている方が面白い」
傍らの女狐には混じり合った喧騒としか聞こえないものも、男の耳においては末席からでも総大将の声まで聴き分けられるのだという。面白いと言いながら、しかし男の表情はさほど変わらない。どっと笑い声が上がる。夜が更けていくにつれて宴の盛り上がりも勢いを増しているようだ。
「よぅ、色男」
酒瓶を片手に赤ら顔で近寄ってきたのは天邪鬼だった。白は別段驚いた風でもなく銀鼠の羽織を少し捌いて左隣の席を勧める。世話係は露骨に嫌そうな顔をしたが、酌をするよう求められて渋々従った。
「宴の席くらいつまらん人間の真似はやめたらどうじゃ。せめて美しい女子なら儂も酒が進むというもの。どうにも華に欠ける」
お前など眼中にないと言わんばかりの言動に女狐は酒を持つ手が震えたが、なんとか零さずに注ぎ終えた。しかし小さく安堵の息を吐いて白の方を見た彼女は、今度は大きく息を呑む。瞬きの間に白の姿は美しい女性の姿へと変化していたのだ。
「では、こちらの姿でお相手いたそう」
声は白のままだが、柔らかい声色で天邪鬼に向かって微笑んでいる。さすがの天邪鬼も驚いた表情で白を見ていたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「女に化けたところで中身が男では逸る気持ちも沈むのう。醜女に興味はないわい」
白の変化はどう見ても美女であったが、天邪鬼は酒を煽りながらニタニタと馬鹿にしたように嗤っている。当の本人は「そうか」とだけ言ってあっさり変化を解いたが、隣にいた遊女は立場も忘れて天邪鬼に飛びかかりそうな勢いで捲し立てた。
「黙って聞いていれば言いたい放題……っ白様は!美しいですから!!」
「……ツネ」
眼前まで顔を近づけていた彼女は、白の穏やかな一声ではたと我に返る。動揺で出してしまった耳が心もとなく揺れ、ツネは「出過ぎた真似を」と顔を真っ赤にして慌てて隠れるように男の右隣に戻った。
「うちの狐が失礼した。人の姿をとっているのは、単に俺が耳と尾を見せたくないだけのこと。人間に懐柔したり、妖らしい姿を嘲笑うような意図はない」
「ふん、別にお前の見目など律儀に気にしておらぬわ。ところで先ほどの総大将の話は聞いたか」
「……あぁ、満月の夜に心中すると来世で結ばれるとかいう」
「なんじゃ聞こえておったのか、つまらんのう」
「あれだけ朗々と語られれば此処にいても耳に入るさ。掴みどころのない奴だが、流石数多の妖怪を率いるだけはある」
「えらく買っておるな。そういうお前も天狐になってさぞ立派になったんじゃろう?」
問われた白は刹那の沈黙を見せたが、小さい声で「せいぜい数十年だ」と返した。珍しく自信なさげな白の様子に、天邪鬼は意外そうな顔をする。だが、興味を失ったのか大きく一つ欠伸をして席を立った。
「辛気臭い顔をされては酒が不味くなるわい。ちょうど酒もきれた」
もともと空に近かった酒瓶はすっかり中身をなくして、天邪鬼の手にぶら下がっている。つまらんつまらんと言い残して天邪鬼はどこかへ行ってしまった。ツネは余程天邪鬼の態度が気に食わなかったのか後ろ姿に向かってべ、と舌を出す。白が宥めるように頭を撫でてやると嬉しさと気恥ずかしさの入り混じった顔で俯いたが、機嫌は直ったようだった。再び静かに飲み始めた白は、ふと手を止めてぽつりと零す。
「心中……か」
***
蛇無村は海に近い村である。村に流れる川から農業用水を引いており、日照りが続いて川の水が減ると海水が遡上するため、それを防ぐ水門が設置されている。里子の家は村の中でも一番作物がとれる良い土地を持っていて、父は水門の管理を行う組合の頭であった。
しかし、それももう五年前のこと。父親は行方不明になったまま帰ってきていない。水は生活に直結する命綱に等しい。母は帰りを待ち続けているが、里子は治水を自由にしたい上流域の村人に殺されたのだと思っていた。水門の近くに落ちていた泥だらけの手ぬぐいが形見だ。
自分たちの利益しか考えない組合の者たちになんだかんだと言いがかりをつけられてもともと住んでいた良い土地を奪われ、一家は追われるように河口近くに移り住んだ。しかし、どんなに汗水たらして親子で働いても、海水が入り込んでしまっては作物が育たない。なんとか自分たちで水を確保しようと堰を作っても壊され、日照りが続かないことを祈るしかなかった。
それでも最初は塩に強い作物を植えてなんとか耐え忍んでいたが、何度も塩害にあった土はもうほとんど何も育たなくなっていた。母と里子と幼い弟、飢えた母子だけでは他の土地に移り住むのも難しい。井戸を掘るにも力が足りない。とうとう、可愛い弟は病にかかって死んでしまった。母も足を引きずりながら懸命に生きていたが、息子の死で何かの糸が切れてしまったようだった。次の日の朝、母は家にいなかった。
「かか、どこに行ったの」
一日中探し続けて、夜になってようやく水門の近くで母の着物の切れ端を見つけた。父の手拭いを拾い上げた時の記憶が鮮烈に蘇る。嫌な予感がした。
「噓……嘘だ、かか……か……っ!?」
下を向いていた里子は襟首を掴まれて地面に引き倒された。痛みに呻いていると、鍬やら鎌やらが降ってきた。里子は血と泥まみれになりながら転がって逃げた。殺されると思った。村の男が振りかぶった鍬の柄が里子の額を打ち、流れた血が目に入った。
(何も見えねぇ、助けて、なんでこんな目に合わないといけねぇの)
なんとかしようと目をこすると余計に入り込んでしまい、痛みで涙が溢れた。頭を殴られてもうどこを向いているのかも分からなくなった。口に入った泥の味でかろうじて地面に倒れたのだと理解したが、里子はそのまま意識を失った。
「死んだか?」
「いいや、まだ死んじゃいねぇ」
「六太ぁ……とどめさしてやれ」
「待て、狐火だ……!」
「妖じゃ」
「逃げろ逃げろ!」
蜘蛛の子を散らすように村人たちは一斉に逃げ出した。狐火はゆらゆらと形を変えながらその後を追いかけていく。やがて悲鳴も聞こえなくなったころ、夜闇に紛れて白髪の男が現れた。白地の着流しには藤模様、七宝柄の紫紺の帯には白の房飾りを提げている。銀鼠の羽織を揺らしながら、月明かりの下歩いていく。雪駄の足音はしない。特徴的なのは羽織を大きく膨らませる九つの白い尾と同じく白い耳。すぅ、と金色の眼を細め、倒れている里子を見下ろす。
(……まだ息があるな)
男は膝を折りしゃがむと、鋭い爪が触れないよう里子の頬を指の背でつついた。しかし里子が目を覚ます気配はない。立ち上がって里子を見下ろしたまま、はてどうしたものかと男が思っていると、何やら茂みから物音がする。夜の空気に混じる血の臭いは、目の前の娘だけでなく気配の方からも漂っていた。
(戻ってきたのか)
辺りを窺うように一人の少年が里子に近づく。真横に立っている男の姿は全く見えていないようだ。震える手で鎌を握り締め、少年は泣いていた。名前は六太といった。
「里子……すまねぇ、お前は悪くねぇ。だが俺の家も食うに困る暮らしぶりなんだ、許してくんな……!」
大きく振り上げた手は、しかし振り下ろすことが叶わなかった。何度も力を込めて里子へ鎌を振るおうとするが寸分たりとも動かすことが出来ず、六太の顔に焦りの色が浮かぶ。
「この娘を殺してお前に益があるのか」
穏やかに、静かに、男の声が響く。ようやく隣に“何か”がいることを理解した六太だったが、まだ男の姿は捉えられない。虚空を視線が彷徨っている。男は少年の腕を掴んだまま、人にも見えるように耳と尾を隠して目眩ましの術を解いた。途端現れた妖の金色の瞳に射すくめられて、六太は息継ぎを求める魚のように口をはくはくと動かしていたが、ぎりりと唇を噛み締めて男の圧を跳ねのけると叫んだ。
「頼む、離してくれろ!里子を殺さねぇと、三太が……弟が死んじまう!」
「……人質か」
男の問いに六太は懸命に首を縦に振り、涙をこぼす。その縋るような目つきを目の当たりにしても、男の表情はほとんど変わらなかった。
「ならば俺が殺してやろう。お前は帰れ、この娘のことは既にこと切れていたとでも伝えればいい」
そう言って掴んでいた腕を振り払うようにすると、六太の体は地面へ弾き飛ばされた。打ち付けた腰と握られていた腕をさすりながら呻いている。
「悪い、少々力を入れすぎたか。人間は脆いな」
「あ、あんたは一体……」
「お前のようなよく知りもしない相手に名乗るほど愚かじゃないさ。だが少なくとも人ではない。俺の気が変わらない内に行くといい」
六太は不安そうな顔をしていたが、じろりと男に睨まれて足をもつれさせながら走り去っていった。すっかり姿が見えなくなったのを見届けて、男は改めて里子を見下ろした。
(傷は命に係わるほど深くはない。このまま放っておいてもいいが……)
「か……か………」
「……!」
か細く里子がこぼしたのは母を呼ぶ声だった。震える泥だらけの手を暗闇の中へ伸ばす。男はとっさに里子の目を覆い、眠らせた。なぜそんなことをしたのかは分からなかったが、せめて家までは連れ帰ってやろうと男は里子の体を抱きかかえるように持ち上げる。男は白という名の妖狐であったが、何かと人に関わりたがる嫌いがあり、常日頃から人と妖の共存を望んでいた。
***
屋根にも穴が開いたような襤褸家が里子の今の住処だった。破れほつれを繕った着物と、カビの生えた手桶、その他わずかな身の回りの物しかない。父がいなくなった。弟もいなくなった。そして母も。
「かか……」
目を閉じたまま寝起きの掠れた声で里子は呟いたが、自分が床ではなく誰かの温かい膝の上で寝ていると分かると弾かれたように身を起こした。とたん走った痛みに、昨夜の出来事をうすらぼんやりと思い出す。蝕む頭痛に顔をしかめつつ、存在を確かめるように自分の顔を触った。今は昼間だろうか。太陽にあたためられた空気の匂いがする。
自分が頭を預けていた膝を探そうとしっかり目を開いたところで、ようやく視界が暗闇に包まれていることに気づく。昨晩目に入った血のせいだ。里子は動揺して床を叩くように周囲を確かめ、先ほどまで触れていた温もりを求めた。ふと柔らかい感触があり、里子が掴もうとしたところで反対に手を握り返される。その手は、昨晩探し続けた母の手と同じだった。
「おはよう」
「か、か……?」
里子が疑問を投げかけると、ひとつ咳払いをして返事があった。
「……そうだよ。お前もよく生きて戻ったね……」
「っ……!」
声を上げて泣く里子の頭を優しい手がそっと撫でる。静かで穏やかな声が傷ついた里子の心を癒してくれた。
「お前、目が……」
「いいの、かかが生きててくれただけで嬉しいんだ」
「……そうかい」
里子の母は美しくて優しい人だった。家族思いで、いつも里子と弟の玄次郎を丁寧に名前で呼んでくれる人だった。
***
「おい、六太ぁ……里子は死んでたって言ったよなぁ」
「ひっ」
「じゃあ何で家に里子がいんだぁ?しかも俺たちで殺したはずの静世まで見かけたってぇ噂だ。お前なんか知ってんだろ。吐けや」
「な、何も知らねぇよ!」
「嘘つくな!!静世は水門を勝手に開けようとしたんだぞ!?そのうち飢えて死ぬだろうと思ってたが、しぶとく生きやがる。ここで殺しとかねぇといつ俺たちの元へ殴り込んでくるか分からねぇ。正直に言え……さもないとお前の家族もまとめて下流に追い出すぞ」
六太は怯えながらも怒っていた。
約束したのに。あの男に騙された。あいつは妖だ。里子の家は妖怪と繋がっているんだ。そうに違いない。そうでもなければ説明がつかない。
男の力の強さを思い出すと怯む気持ちはあったが、それよりも何よりも裏切りへの怒りが勝っていた。
元々口止めされていたわけでもない。もう言ってしまえと思った。六太の口から白髪の男の話が溢れ出た。村の男衆はそれを聞くと、各々使える道具を取りに帰っていく。決行は今夜と決まった。
***
(この土は死んでいる。俺にも救えない)
豊穣を願って祈ってはみたものの、塩害で枯れはてた土地は何も実りそうになかった。里子は疲れていたのか昼過ぎからまた眠りこけている。
「……長居しすぎたな」
臭いを辿って家まで里子を送り届けた後、すぐに帰ろうと思った。だが、うなされながら母を懸命に呼ぶ姿を放っておけず、ほんの戯れの気持ちで里子の母に化けた。姿形は死体を見ていたから知っていた。一晩だけのつもりだった。声は知らなかったし、口調や仕草も分からなかった。それでも自分に縋る里子を、白は見捨てることができなかった。襲われた事がよほど衝撃的で、混乱しているのだろうと見当をつけていた。
白は里子が寝ている間に村を周り、だいたいの事情は察していた。私利私欲のために弱者を貶める輩は種族を問わず存在するのだなと溜息をついたものである。もちろん六太たちのことも承知していたが、白は善狐。穏やかで冷静でむやみやたらと殺生を行うのは好まなかったし、かと言ってこの状況で里子を一人にしておけるほど冷淡ではなかった。
そうして2日目の夜を迎えようとしている。眠りにつく前、里子が不安そうに「何処にも行かねぇで」というので、白は母の姿で「大丈夫」と頭を撫でてやった。
草木も眠る丑三つ時、とうとうその時は訪れた。戸を叩く六太の呼び声がする。白は随分前から起きていて、じっと外の様子に意識を集中させていた。仲の良かった六太に呼ばれて、里子が身動ぐのが分かった。寝ぼけ眼を擦りながら戸を開けに出ていこうとする里子の手を白が掴んで引き戻す。
「かか?六太が呼んで……」
「確かにこれは六太の声だ。でも他にも大勢いる。もしかしたら」
皆まで言わずとも、つい先日襲われたばかりだ。言わんとするところを察したのだろう。里子は目に見えて怯え始めた。襤褸家の戸など簡単に開けられるのに、あえて声をかけるからには理由があるはず。実際、家の外には複数の気配があり、不用意に呼び声に応えるのは危険だと思われた。
村人が何人束になったところで、千年以上生きている白には到底敵わない。一人ならば破るのは容易いだろう。無視して里子を置いて逃げることも出来たが、白の手を握って縋りつく里子の手が震えていて思い留まった。しかし、痺れを切らした村人たちは遂に戸を破って侵入してくる。戸が破壊されて木片が飛び散り、音に驚いた里子は白の腕にしがみついて悲鳴をあげた。
(何も出来ない弱者一人葬るのにこの人数、どちらも哀れなり)
四方から道具を振りかざして襲いかかってくる村人たちを目の当たりにして、ふつりと白の内側から何かが湧き上がった。ざわりと空気が揺れ、その後は一瞬だった。家の壁ごと爆発させるような炎が村人たちを包んだ。白の妖術だ。白に触れている里子は無事だが、六太を含めた村人たちは炭屑となって家の周りに転がっている。
「……かか、な、何が起きて」
「……」
目の見えない里子は問うが、白は答えられない。姿も既に母親の形ではなくなっていた。金色の瞳は白の妖気に呼応するように爛々と光り、ため息をついた口元からは鋭い牙が覗いている。騙すつもりはなかったが、もうさすがに誤魔化しきれないだろう。真実を告げて去ろうと思った。
「かか」
「俺は、お前の母親ではない」
長い沈黙があった。しかし、袖を掴んだまま離さない里子が放った言葉に、白は刹那思考が吹き飛ぶほどの衝撃を受けた。
「……かかは里子のことお前って呼ばないし、かかの声はもっと高い声だった。最初から分かってた。でも」
触れた優しい手が本当に母にそっくりだったのだと。大きさも形も温度さえも。そう里子は告白した。白は健気に母を想う娘の気持ちを踏みにじったと、安易に化けたことを後悔した。
「……でも、それでもいい。守ってくれたかかと一緒にいたい……ずっと一緒にいてくんな。里子を一人にしないでくれろ」
「それ、は……」
哀れに思う同情心、半端に関わって傷を増やしてしまった罪悪感、結局土も心も救ってやれなかった無力感。それらが綯交ぜとなって、白の心を苛んだ。これ以上この娘に期待させてはいけない、と白は里子の目を覆う。最初に助けた夜にかけた眠りの術だ。せめて眠っている間に楽にしてやろうと思った。力の抜けた体を膝の上に抱いて、いまだ燻る炎を見つめる。ふと、宴の時の総大将の話を思い出した。
“満月の夜に心中すれば来世で結ばれる”
奇しくも今宵は満月であった。白は焦げた肉の塊を目で追って数える。16の黒い塊が、家だった場所の周りに散らばっていた。久方ぶりに人間を殺した。意図せずして高揚している自分に気付いて、白は同時に嫌悪感をも覚える。
妖怪でありながら人間と馴れ合うような白のあり方に疑問を抱いている妖狐も少なからずいた。天狐となってから数十年、陰で悪評を流している輩がいることも知っていた。それでも自分は間違っていないと。共存できるはずだと。天狐の地位を拝命できたということは、正しい道を進んでいるはずだと。そう思っていた。
(やはり俺は天狐には相応しくないな、判断が遅すぎる)
強者は強者ゆえに、力の使い所を誤ってはならない。殺さずとも里子を救う術はいくつもあった。襲われる前に連れて逃げれば良かったのだ。決断を迷った末に、白は明確に切る手札を間違えていた。興奮で鋭く変形した牙が噛み締めた唇を傷つけ、口の中に血の味が広がる。心臓の鼓動が落ち着いたら、冷静になれるかもしれないと白は目を閉じた。
***
どのくらい時が経っただろうか。背の低い女の妖狐が炭となった村人たちを避けながら、白の元へ向かってきた。
「白様!丸二日お戻りにならないので、心配しましたよ。炎が見えたので見つけられましたが」
「ツネ」
「この者達は……白様が?」
「……あぁ」
「ところで、お膝の上の娘は」
「……」
「まさか、その娘と心中など……考えてはおられませんよね?」
答えに窮する白に、ツネは眉を吊り上げて捲し立てた。
「もしや図星で御座いましたか。無礼を承知で申し上げます。ご自分の立場は分かっておいでですか?貴方は天狐なのです。数多の狐衆を率いるお方なのです!私は天狐となられるより前から貴方様の人間好きも優しさも重々承知いたしておりますが、こればかりは認められません。考え直して下さいませ。このような事で命を投げ出すことは罷り通りませぬ」
ツネも白が天邪鬼と話しているのを隣で聞いていた。相手が妖怪で大恋愛の末ともなれば、彼女に止めることは出来まいが、一時の情で絆されるのは許せなかった。平時であれば少し抜けたところもあるツネも、今ばかりは厳しい表情を緩めなかった。
「……何とか仰ってください。私は、ツネは、白様をお慕い申し上げております。ご安心ください。その娘を見殺しにしたところで、いつかは忘れ去る些細な事です。帰りましょう」
「ツネ……お前はよく尽くしてくれた。俺を名で呼ぶことを許したのも、お前のその献身さ故のことだ」
「そのような事を仰って欲しいのではありません!私は……」
「ツネ、もう決めた」
「っ……白様!!なりませぬ!」
ゆっくり長く息を吐き出した白が、穏やかな瞳でツネを見つめる。その視線を受けて、ツネの涙と本音が溢れ出した。
「貴方様のお心を変えられないならば、せめて……私も一緒に連れて行って下さいませ……」
頽れるように焼け焦げた地面に座り込み、さめざめと泣く姿は普段のツネそのものだ。白は眠らせた里子を膝に抱えたまま、ツネを呼び寄せる。左手を里子に添えた状態で、空いた右手でツネを腕の内へ抱いた。
「……白様は優しすぎるのです。いずれこのような事態になると思っておりました。だから天狐になられた時、これで少し安心できるととても嬉しかったのに」
「己の罪悪感で仲間を道連れにする男が優しいものか。ただの酷い奴だろう」
「そのお言葉が優しいと申し上げているのです」
「御隠居様はお怒りになるだろうか」
「きっと許して下さらないでしょう。……あれ、なんだか、眠くなってきました」
ツネは人でない分、術のかかりも緩やかだ。ふらりと脱力した体が白に預けられる。
「……共に逝こう」
願わくば、来世でも共に。
月の光が白を照らす。空に煌々と浮かんだ望月は、燃え上がる炎を静かに見守っていた。
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