付喪神・篠笛
篠笛という楽器がある。雅楽で使われるような笛は龍笛と呼ばれ、作りや調律が異なる。篠竹から作られる篠笛は庶民たちに広く好まれた。一本調子から十二本調子まで長さによって様々な音程のものが存在する。素材をそのまま活かした素竹と呼ばれるもの、強度の高い煤竹で作られたもの、籐巻を施したものなど作りの違いもいくつかあるが、いずれにしても篠笛は楽器である。穴を指で押さえ、息を吹き込んで奏でる横笛である。断じて手紙を括り付けるための芯棒ではない。
無駄に何枚も重ねられて厚みを増した紙は、ぎゅうぎゅうと篠笛を締め付けていた。よたり、よたり。嗚呼、早くしないと宴が始まってしまう。もう何度も頼まれたので慣れてしまったが、篠笛は百鬼夜行の時期になるとこうして体いっぱいに括り付けられた手紙の束を託される。
ようやく雲の上にたどり着くと、琴が総大将の奥方に呼ばれて嬉しそうに走り寄っていくのが見えた。篠笛はいつも手紙に巻かれているので、奥方に奏でられたこともなく顔を拝見したこともない。小鬼や他の付喪神の間を縫って目的の妖怪を探す。うろうろと彷徨っていると見慣れない黒髪の男がじっと視線を向けてきた。早く前を通り過ぎてしまいたかったが、急ぐと転びそうになるのでゆっくりとしか歩けないのがもどかしい。
今年の手紙はいつにも増して量が多いような、と懸命に歩を進めながら考えているとどっと笑いが起きた。なんだなんだと輪の中心を見ようとしたが纏わりつく手紙が邪魔でよく見えない。嗚呼もう早く渡して重荷を解き放ってしまいたい。そう思って再び目的の男を探す。だいたい末席にいるため探しやすいはずだが、いかんせん大きな雲なので篠笛のような付喪神にとっては移動距離も長く感じられる。高位の付喪神であれば人の形にもなれようが、この篠笛はまだそこまでの力がない。
ようやく記憶にある白い髪を視界にとらえ、そちらに向かって歩き出そうと踏み出したところで椀の付喪神がぶつかってきた。ただ当たっただけならばどうということはないが、椀は宴のために用意された酒を注がれている。零れた酒が宙を舞い、手紙が濡れる……と思ったのも束の間、篠笛は足をもつれさせて転んだ。
***
からから、からり。玩具売りの行商人が抱えた藁束に差し込まれた色とりどりの風車が回る。一つどうだい、と勧められたが男はやんわりと断って銀鼠の羽織を翻し、通りの店を見回しながら歩みを先へと進めた。足元は雪駄だが、不思議と土を踏みしめる音は全く聞こえない。長い白髪は結い上げてはいても目立ち、纏う空気はどこか人間離れしている。だが、それを認識して咎めるものはいなかった。
天麩羅屋、蕎麦屋、酒屋などが立ち並ぶ中、紺地に白抜きで“三椿屋”と屋号を掲げた甘味処の前で足を止め、暖簾を潜って店に入る。男の好物は舟橋亭の羊羹であるが、今の目的は別にあるらしかった。串に行儀良く五つ並んだ蓬団子と焼き団子を交互に見比べて思案顔になる。つまるところ手土産だ。以前買ってやった時はどちらが好きだと言っていたか……と考えるも、何をやっても嬉しそうにするので思い出せなかった。たとえ道端の石でも適当に理由をつけてくれてやれば喜ぶであろうことが想像に難くない相手だ。思い出せずとも両方買っていけば良いかと思い直す。
「……あるだけ包んでくれ」
「おおきに」
包まれた団子を受け取って表へ出ようとした時、男の耳に笛の音らしきものが飛び込んできた。気のせいかとも思ったが、確かにそれは笛を吹いている音に聞こえる。
「誰か近所に楽士でもいるのか。それにしては腕が悪いようだが」
店に来るのもこれで幾度目になるか、すっかり顔馴染みになりつつある三椿屋の看板娘に問うと、娘は恥ずかしそうに答えた。
「うちの妹どす。旅の商人はんに貰うた言うて、昨日からずぅっと吹いておす」
「……ほう。この音色……乱雑に吹き散らしてはいるが篠笛の類だな。少し裏へ回っても?」
「へぇ。うちはお店番があるさかいに案内できひんのどすけど、旦那はんやったらけったいなこともしいひんやろし好きにしておくれやす」
娘に礼を言って、男はいったん外に出て店の裏口の方へ回る。すると確かにそこには少女の姿があった。裏返した大きな桶に腰掛け、懸命に笛を吹こうと顔を真っ赤にして息を吹き込んでいる。恐らくどの穴を塞げばどんな音が出るのかもよく分かっていないのだろう。手当たり次第に奏でられる音は風情も何もあったものではない。
男が声をかけると、足音がしないので娘は大変驚いたようだった。腰掛けていた桶を跳ね飛ばす勢いで立ち上がり、笛を後ろ手に隠して顔を強張らせる。喧しい、と叱られると思ったのだろう。姉の方も初めて会った時は見慣れない風貌に訝しげな視線を向けていたことを思い出し、怖がられないようにもう少し見た目も工夫した方が良いだろうかと男が考えていると、娘が口火を切った。
「うちに御用どすか」
「笛の音が聞こえたので気になってな。なに、別に叱り飛ばそうというわけではない。そう怯えるな」
「……」
まだ警戒している娘に緩やかに笑いかけると、男は白の着流しの裾を捌いて娘の背丈に合わせるように身を屈めた。
「力任せに吹いては鳴るものも鳴らん。壊したりしないから少し貸してみろ」
そう言って促すも、娘は余計に手に力がこもって萎縮してしまう。しかし、ぎゅうと握り締めた手に突然鋭い痛みが走り、娘は顔を顰めて自らの手を確かめた。小さな手の平からは一筋の血が垂れていた。隠していた笛と手の平を交互に見つめて、口を尖らせる。篠笛の中ほどから不自然に飛び出した僅かなささくれが原因のようだ。
その様子を見た男は、今度は有無を言わさず娘の手首を掴むと井戸の側へと連れて行った。あまりに一瞬のことで離してくれと言う暇もなく、娘はされるがままに冷たい井戸水に手を晒される。
「棘が残ってはいないようだな。素竹は割れやすい。傷口をよく洗って、膿まないよう気を付けろ」
「へ、へぇ……おおきに」
すっかり冷えた手に、どこから出したのか包帯を巻く男の体温が移る。この程度の傷で大仰な、と思うも好意を無碍にするのは憚られて押し黙った。いつの間にか預かられた笛は、男の手元で金色の瞳にしげしげと見つめられている。このとき娘は男が人ならざるものだとようやく気付いたが、ここまでの態度で少なくとも自分に害を為す存在ではないと思えた。
「その笛……ひとりでに動く言うたら信じはります?」
「ほぅ、それは奇怪な。旅商人から貰い受けた物だとお前の姉から聞いたが」
「へぇ。その通りでおす。うち、嬉しゅうて枕元に置いて寝たんやけど、朝起きたらどこにも見当たらへんのどす。探したら縁側に落ちてましたのや」
「成程。では、笛に聞いてみたらどうだ」
「笛に……?」
楽しそうに笑って男は娘に篠笛を返した。男には初めからこの篠笛が付喪神であることは見当がついている。そう易々と人の前で正体を現すとも思えないが、試してみるのも面白いと考えたのだろう。娘は笛をじぃと見つめる。
「……」
しかし、見つめるだけで何も言わない。本当にただの笛であったなら答えが返ってくるはずはなく、揶揄われただけになってしまう。娘は少し迷っているようだった。
「篠笛よ、幸いにもこの娘はお前を悪いようにする気はなさそうだ。言葉は話せないだろうが、後のためにも俺がいる間に正体を明かす気はないか」
男がまるで人を相手取るように笛に語りかけるので、娘は驚く。だが、もっと驚いたのは手に持っていた笛から白い足のようなものが飛び出したことだった。思わず離した手から笛が地面にとんと落ち、二本足でしっかりと立つ。叫び出すか腰を抜かすか、と想像していた男だったが、娘は意外にも興奮の混じった視線を篠笛に向けていた。
「存外肝が据わっているな。もっと驚くかと思ったが」
「誰に言うても信じてくれへんさかいに、うちがけったいなんかと思てました」
娘が触りたそうに手を伸ばすと、篠笛はその分だけ後退る。男に向かって一礼すると、篠笛は足で懸命に土を掻き線を引き始めた。名前を書こうとしているのだと察した男が、木の枝で代筆してやる。貫くという字を書いて、そのまま“つらぬき”と読むらしい。
「えろう呼びにくい名前どすなぁ」
「名前があることには驚かないのだな」
「なんにでも名前はあるもんやてお母ちゃんが言うてたさかい」
「成程。さて、こやつは喋ることは出来ないが人の言葉は理解していると分かったし、後はお前たちで好きに遊ぶといい。あと出来れば籐巻を施すことを勧める」
そう言うと男は軽く着物と羽織の裾を払って立ち上がる。寄り道にしては長くなりすぎた。
「またいずれ店に寄る機会もあるだろう。その時は練習の成果を聴かせてくれ」
娘の頭を軽く撫でて、男は表通りへ戻っていく。娘はその背を慌てて追いかけた。
「うち、蛍言います…!よろしゅう!」
男は僅かに振り返って肩越しに微笑んだが、名乗らずに去っていった。
「あん方のお名前、聞きそびれてしもたわ」
蛍は残念そうにしていたが、右手に巻かれた包帯に視線を落として頬を赤らめる。と、足に何か当たる感触があった。覗き込むと篠笛が蛍の足を蹴っていた。
「あんたのこと置いてけぼりやった。堪忍しとくれやす」
蛍が謝るも貫は不満そうにふんぞり返り、そしてそのまま後ろに転んだ。
***
「蛍……たいがいにしなはれ。もう夜や、ご近所迷惑どすえ」
「そやけど」
「そやけども糸瓜もあらしまへん。そないやさかい」
「あーあーあー!お嫁の話は十五なるまでしいひんて約束や!うちはお姉ちゃんみたいに好きでもない人と一緒になるんはまっぴらごめんどす!くどいお説教は聞きとうおへん!」
両手で耳を塞いで、いやいやと首を振る蛍の態度に姉は眉を八の字にして困り顔である。その手は帯に添えられていて、白い指が帯留めをなぞる様に撫でた。何かを言おうと口を開きかけたが、ふっと寂しそうな表情を浮かべるとそのまま静かに襖を閉める。廊下の床板が軋む音が遠ざかっていった。
「……ちと言い過ぎたやろか」
蛍は耳を塞いでいた手を離し、膝を抱えた。布団の上に転がる篠笛にぽつりと話しかけても返事はない。喋れないのだから当然だが、意思があるのなら少しくらい反応を返してくれてもいいのにと頬を膨らませる。練習を再開する気にもなれず、蛍は笛を枕元に置いて布団に潜り込んだ。籐巻は施されないままである。
教本もなく師となる楽士が身近にいるわけでもないので、蛍の演奏は大して上手くならなかった。しかし、力任せに吹くのをやめただけでも音色は如実に変化する。それは篠笛が少しずつ心を開いている証拠でもあった。もっとも、下手な演奏に耐えられず棘を立てたりしようものなら仕返しとばかりに半紙で上から下までぎゅうぎゅうに巻かれるので大人しくなっただけとも言える。
右手の傷はとうに塞がり、少し汚れた包帯は綺麗に洗って抽斗の中にこそりと仕舞い込んだ。あれ以来、毎日のように店の様子を伺っては、求めている来客がないことに肩を落としている。姉の小春にも聞いてみたが、ひと月に何度も現れる時もあれば三月以上現れない時もあると言われ、待ち伏せるには至らなかった。
すうすうと蛍の寝息が聞こえ始めた頃、貫は細長い足を伸ばして立ち上がった。隠しておいた手紙を文机の上にそっと置く。襖は開けられないので、欄間から脱出を試みる。緻密に彫り込まれた松の間から彫刻の鳥がゆっくりと動き、篠笛を咥えて持ち上げた。少々痛いが他に方法が思い付かなかったので仕方がない。隙間に捻じ込むようにして外へ放り出されると、貫は二本の足で庭を歩き始めた。
蛍は白髪の男の正体が人でないとは思っていても妖狐だとは分かっていないようだが、貫はひと目見て強いと感じた。京言葉を使わないあたり、常に京を根城にしている訳ではないのだろう。蛍が男に惚れているのは誰の目にも明らかだったが、それが叶わぬ恋だと律儀に教えてやる者はいなかった。貫も敢えて口を挟むことはなく、蛍が楽しそうに男のことを語るのを黙って聞いた。男に聴かせるためというのは気に入らなかったが、美しい音を出そうと懸命に練習を重ねる姿は貫にとっても微笑ましいものだった。
旅商人に抱えられていた内は抜け出すのに何の気遣いも要らず、勝手に出歩いて好きな時にまた荷物に潜り込めば良かった。今は違う。日のあるうちに出かけようとすれば、たちまち蛍の呼ぶ声が響き足の遅い貫は捕まえられてしまう。勝手にいなくなると蛍が泣くので遠慮してきたが、京に雲がかかっている間くらいは許してもらおう。
不意に頭上から陰が落ち、貫は空を見上げる。巨大な雲だ。見上げすぎて後ろに転びそうになったが、なんとか踏みとどまる。どうにも貫の足は長い体を支えるには心許ない。
ぺったらぺったらと歩いていくと、表通りに立っていた件の男が貫に気付いて視線を向けた。彼だと分かったのは、月明かりに煌く金色の瞳のおかげだ。結い上げられていない白髪は貫が思っていたよりも長く、白い耳と同じく白い尾は男が妖狐であることを証明している。纏う雰囲気は完全に妖怪のもので、蛍や小春の前で見せていた柔らかさは感じられない。
「お前が百鬼夜行に興味があったとは意外だな。あぁ、でも旅商人について回っていたのなら各地を巡る楽しみも知っているか」
貫が三椿屋を出てきたのはまさに百鬼夜行のためで、何もこれが初めてではない。毎年とはいかずとも、顔を出せるときは出すようにしている。今回は宴に出られなかったが、付喪神の仲間に挨拶くらいはしようと思ったのである。そういえばこの男の顔は宴でも道中でも見たことがないな、と思っていると男の口から答えが滑り出た。
「いつも雲の端にいるからな。俺のことを知らない奴もそれなりにいるだろう」
男の力は大妖といっても差し支えないのに、総大将の近くにいないとは盲点だった。確かに、雲の上では大も小も男も女も区別なく自由に過ごしている。端から端まで皆顔見知りという訳でもない。
「白様」
「……ツネか、今行く」
姿は見えないが、聞こえた女の声に反応して男は答えた。百鬼夜行の雲を待っていた訳ではなかったようだ。
「店に帰ったら蛍に伝えてくれ。お前の笛を聴きに行ってやれなくてすまない、と」
そう言い残して男は夜闇に紛れるように姿を消した。もう何も見えないが貫は暗闇に向かって一礼し、雲の上へ向かった。
三椿屋を含む五軒以上に渡る火事で店が焼け落ちたのは、翌日の夜のことだった。
***
「小春ちゃん、ややこがおったと」
「そら可哀想やったなぁ」
「女将はん亡くなりはってから、蛍ちゃんのお嫁が決まるまでは言うてお店きばっとったんに」
「三椿屋の火ぃだけ消えへんかったいう話や」
「大旦那も逃げ遅れたらしいわ」
「おぉこわ、火ぃの始末は気いつけなあかんどすな」
まだ煙の燻る焼け跡を野次馬たちが囲んでおり、口々に噂するのは火元と思われる三椿屋の話がほとんどだった。隣り合った店も焼けはしたが、人は誰も死ななかった。三椿屋だけがまるで炎に閉じ込められたかのように全焼しており、柱もろくに残っていなかった。その不自然さから、一家心中の噂まで出る始末だ。
というのも三椿屋はここの所客足が遠のいており、赤字が多くなっていた。たまにしか訪れない男のことを小春が把握していたのも、そのせいである。数ある甘味処の中でわざわざ三椿屋で団子を買っていたのは、少しでも助けになればと願う男の優しさであった。
小春の旦那はといえば、最初こそ毎日のように店に来ていたが、店と妹に執着してなかなか自分の元へ来ようとしない小春に苛立ち、次第に冷たく接するようになった。それだけでは飽き足らず小春に嫌がらせを始めると、大旦那は怒って婚姻を解消しようとした。嫁に冷たく当たろうとも、そのくせ夜の相手を迫ろうとも、腐っても大店の息子。関係が拗れれば人々はそちらの肩を持つ。小春は必死に父を止めた。
自分が頑張るから、と。妹の嫁ぎ先が見つかるまでは店を潰したくない、と。三椿屋の主人は涙を流して小春を抱き締めた。蛍にもよく言い聞かせたが、無邪気な彼女は自分の世界に夢中で二人の気遣いを深刻に捉えていなかった。
***
火の手に気付いた貫はいてもたってもいられず雲から飛び降りたが、足を生やすのがやっとの付喪神では火を消し止めることは出来なかった。火の粉が散り、体が少し焦げた。姿を捉えることは出来なかったが、焼け跡から蛍は見つからなかったので貫は蛍が生きていると確信していた。
どこかへ無事に逃げおおせているはずだ。探してやらねばまた泣いてしまう。あぁそうだ、置き手紙はちゃんと読んでくれたのだろうか。こっそり夜中に蛍の文机を借りて、何日もかけて不揃いな字を並べた手紙。いつの間にか大きくなっていた気持ちに気付き、貫は蛍を探すと決めた。
白髪の妖狐は一度だけ店の前に姿を現した。彼は白と名乗り、狐たちの集まりに参加するため二日ほど京を離れていたのだと言った。店だった場所に手を合わせ、憐むような表情を浮かべていた。
自分の足では途方もない時間がかかるため貫も白に同行したかったが、再び京を離れると言うので断念した。蛍はまだ京にいるはずだ。別れ際、貫は笛として音を鳴らしてみせた。体が焦げてはいても、変わらず美しい音色が響く。
「……良い音だ。蛍が聴いたら嫉妬しそうなほど」
蛍が練習せずとも上手く鳴らしてやることは出来たが、貫は頑張っている蛍を見るのが好きだったので敢えて何も手助けをしなかった。扱いが雑で怒ったことも、あまりに吹くのが下手で気を失いそうになったことも、今となってはただ悲しく思い出される。
見つかることを祈っていると言い残して夜に溶け消えていく後ろ姿を見送り、貫は空を見上げた。細い二本足は縺れることなく貫を支え、どんなに見上げても転ぶことはなかった。
***
結論から先に言えば、蛍は白が京を去った後すぐに貫と再会することが出来た。ぼろぼろの姿で橋下の川縁に座る蛍を貫が見つけたのである。だが、蛍は放心していて、何も喋らなかった。額を小突いてみても、足を蹴ってみても、怒らないどころか貫の方を見もしない。家族と店と共に、蛍の心も死んでしまっていた。
一向に反応がないと分かると、貫は何とか助けを呼ぼうと知恵を絞った。言葉を話すことが出来ないので、代わりに音を奏でた。昼も夜も奏でた。そこいらの楽士よりずっと美しい旋律は、優しく労わるような音色であった。誰かの耳に届いて、蛍を助けてやってほしかった。
笛の音に気付いて足を止める者、川を渡る小舟から身を乗り出して覗く者、川辺で遊ぶ子供たち、誰も助けてくれなかった。
岩にもたれて手足を投げ出した蛍は、まるで人形のように動かず不気味に見えたのだろう。近付きはすれどひとりでに聞こえる笛の音も相まって、生死を確かめようとする勇気のある者はいなかった。半開きの口に蝿が止まり、中に入り込もうとするのを貫が追い払う。
三日三晩奏で続けた笛の音は、蛍が息を引き取ると同時に途絶えた。彼女の側には一本の篠笛が転がっており、真っ二つに割れた裂け目を満月の光に晒していた。
***
「心中……か」
酒を飲む手を止めて、ぽつりと男が呟いた。傍らに控える女狐は、すっ転んでいる篠笛を見つけて声を上げる。
「あら、また転んでますよ。あれでは手紙も読めませんね」
「読めずとも大体分かる。しかし、また同じ付喪神に生まれ変わるとは難儀な奴だな。人型になるにはまだ随分かかるだろうに」
「本人達が楽しそうだから良いんじゃないでしょうか」
「……確かにな。俺には救えなかった。無事に来世で出会えたことは喜ばしい」
両者とも俺のことを覚えていたのは余計だったが、と呟いて男は酒を口に含む。おかげで惚気話を一年分まとめて聞かされる羽目になっている。全てを覚えているわけではないらしいが、篠笛に火事の本当の原因を教えたらなんと言われるだろうか。
今年は東海道だ。京を通る。三椿屋の屋号が白の脳裏に過った。
「ツネ、篠笛を迎えに行ってくれ」
「はい」
立ち上がったツネが、酒を被ってじたばたしている篠笛の元へ駆けていく。起こして手紙を外してやっているのを遠目に眺めながら、白は手紙の中身を予想した。
蛍からの手紙はいつも長いが、貫の話がほとんどだ。今日は何をした、こんなことがあった、あれが出来るようになった、等。一度だけ演奏を聴かせてもらったが、大した腕だった。貫も毎年めんどくさそうに手紙を持ってくるものの、蛍のことを分かりやすく好いているのは感じられる。
人間の一生は妖怪に比べて遥かに短い。貫が言葉を話せるようになるまで蛍が生きているとは思えない。それでも、互いが幸せなら。
「白様連れて参りましたよ」
「いつにも増して分厚いな。よほど自慢したいことがあったと見える」
酒に濡れた手紙は墨が滲んで大変読みにくいことになっていた。なんとか読める字を追っていく。貫は申し訳なさそうに頭を下げていたが、そのうちツネの腕によじ登って手紙を覗き込み始めた。
「珍しいですね。いつもは恥ずかしがって読みたがらないのに」
「……これは」
最後の一枚には不揃いな字が並んでいた。墨の含み具合もまばらで、さらに読みにくい。端的に言って下手くそである。これは貫の字だ。
「二人揃って惚気話とは。俺も暇ではないのだが」
苦笑する白に、貫は誇らしげに反り返って見せる。そして、そのまま後ろに転んだ。いい加減学習した方が良いですよ、とツネに窘められながら助け起こされる。
貫は今回の百鬼夜行で最後にしようと考えていた。蛍の側をなるだけ離れたくないと思ったからだ。人の一生は短い。生まれ変わって結ばれても、先に寿命を迎えるのは人間である。妖怪仲間と騒ぐのも楽しいが、今は蛍と一緒にいたい。もう蛍もあの時のような少女ではないのだから。
「……達者でな」
「なんだか少し寂しいですね」
二人に見送られ、貫は満足そうに付喪神仲間の輪に加わった。宴が終わったら帰ろう。そう思って、少し酒を浴びてみたりもした。酒臭いと蛍に怒られるかもしれないが、一杯くらいなら許してくれるだろう。先ほど椀にぶつかった時に既に被ったことは棚に上げて、そんなことを思う。
「おかえりやす、貫はん」
ただいま、と言う代わりに篠笛はぴぃひゃらりと鳴いた。
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