慇懃に飽く
朔 伊織
落つ
季節は初夏である。開けっ放しにした硝子戸が涼しげに感じられるようになって、少しが経つ。俺は招いた桜三を横目に庭の新緑を眺め、白い陶磁器に注がれた紅茶を飲んでいた。しばらくしたら薔薇の芳しき顔が見える頃だなんだと風情に耽っていた。
だが、そんな観賞を全く無視して、向かいの男が珍しく貧乏ゆすりをしている。ついでに眉間にしわを寄せてもいて、一瞥するだけで相当に不機嫌ということがわかった。この男、桜三朱晴にしては随分と感情をあらわにしている理由はただ一つ、見合いだ。俺たち旧家の人間、特に長男にとっては対して感慨深くもないその行事は、他より殊更前時代的に感ぜられるものだ。とはいえ、確かに身元がはっきりしていて、それなりの対応や礼儀を尽くしていれば言うことを聞く女がいとも簡単に手に入る、そう思えば面倒ごとが減って大変よろしい、というのは桜三に話そうと思っている持論である。しかし喋ろうとする前に俺はな、と彼にしては随分と乱暴な語気で
「俺はな、このご時世に見合いが云々とかそういう御託は全くどうでもいいと思っているし、事実見合いには半分乗り気だ。しかしだ、しかしだよ、結城。この候補はないだろう。仮にも桜三家の北の方になるわけなんだからな。これじゃあ羽柴とおんなじ末路を行くしかないじゃないか」
そう言って見せてきたのは見合い写真だが、俺には桜三がそう思う理由が全く見つからない。強いて言えば顔立ちが(良い意味で)若干日本人とはずれている点か。桜三が気にしているのはそこではないだろうと思い、他に注目すべき点を探していると、ははぁ、これは確かに難儀だ。桜三の家は代々御役人様を排出している旧家と言って差し支えないだろう。そんな家に娘を嫁がせようと思ったら、それなりの家名を要求されるわけだが、その点、江戸初期から呉服屋を営んでいれば文句はない。だがそれがずっと懇意にしている店で、その女を幼少期から知っているとなれば大問題だった。
桜三はこの貴子という女がずっと嫌いだった。おしとやかな性格が好まれるこの世の中で真逆を走った女性、というのもあるし、女学校に進みそのまま新設の美容専門学校に進学した。新しい職業が増えてきて、美容院、というものもその一つだった。そこのオーナーを務める彼女は家業の呉服屋とも提携して新進気鋭、奇抜な店を構え随分と名を馳せていた。
さて、先述したように桜三は静かな女が好みである。このような喧しい女は逆に殺してしまいたくなると頭を抱えた。それを一瞥して、ならばいっそそうしたらどうだろうと提案した。一寸驚いた様子で、しかし納得したように自分の言葉を復唱した。最初に思いつきそうであるのにそうではない理由は、ただ単に慣れすぎているからというものもあるだろう。何せ週に一度はそういう風景の中心にいるのだ。全く知らない写真ならすぐにそれが思い付いたかもしれないが、如何せん幼少の砌からの知り合いだ。まだ分別のつかない、純粋無垢であった頃の知り合いが夕紅に紛れているのは、少し罪悪感がある。いや、それもそれで興奮する。あの女は名家の令嬢が如く(まぁ実際そうなのだが)容姿端麗で服装も良いセンスでもって表に出るのだから、引く手数多だ。あの滑らかな黒髪や真珠のような柔肌、黒曜石の濡れた瞳、纏う友禅はただの無機物に成り下がるような、そして相反するあの負けん気。
よくよく考えてみればこれほど手に掛けるのに手頃な女は、他にいなかった。今までなぜ思いつかなかったのだろう、あまりにも近しい存在だったから?殺すにはリスクの高い相手だから?
詰まるところ、そんなことはどうでもいい。
「なぁ桜三、生きるためには、面倒もたまには背負い込まないとなぁ」
「慇懃無礼、厚顔無恥、無為無法。それを体現しているあなたがそんなことを言うとはね」
「ふむ、成立しているのは一つのようだ」
森奥の古い診療所を尋ねるかのように、古い木枠が揺れるように、我々は不確かな存在として彼女の背後に忍び寄りその命を縊り捨てる。そのための楽しい計画を、立てようではないか。
何度も口にしたように、かの人は名家のご令嬢である。今まで俺たちに鮮烈な快感を与えてくれた女たちとは違う。安いバーに連れて行くことも、極彩色の壁と細い間口の家に連れ込むこともできない。となれば、我が家か桜三の邸宅などが候補に挙げられる。通り魔的犯罪に見せかけるのも楽しいが、それでもあまりにも一般的すぎるだろう。ちょうどいい具合に催されるのが、ああ、わざわざその時を使うまでもない。
桜三の婚約発表時にそうして仕舞えばいいのだ。
俺は桜三に尋ねた。白い打掛を染めるか、極彩を潰すか。存外早く答えた。後者がいいらしい。
「ではどんな風にしてしまうか」
「彼女は赤の振袖を着てくるでしょうね。派手好きですから」
「ふむ、それなら目立たないねぇ。白は本番のつもりだろうから駄目だろうし、いっそ縹を勧めてみてもくれないか?」
「それよりまず、彼女がこの婚約を承諾するかどうかでしょう。彼女が私のことが好きだとは思い難いのですが」
「何を言っている、彼女は君が思っているよりも存外、君のことが好きだよ。熱に浮かされると言うよりもどうやって熱に浮かしてやろうかと言うような…目だけれども」
「ガラクタに埋もれている時にそんなことを思われていたなんて…彼女と最後にあったのは蔵に入って怒られたあの時以来ですよ。まさかその時代から?まぁそれはいいでしょう。いいとして…つまりはどうするかっていうことです。貴方のようにシーツを紅で染めてもいいし、私のように縊ってもいい。問題はあの女が、どうすれば最も美しく私たちの望むようになるか、その過程を得るための手段。そしてそれを私たち二人がやったと思わないようにする方法。その二つを短期間のうちに決めなければならない。着物は、どうでもいいでしょう」
「馬鹿だね。それだって重要な役者だよ。あのこが最後に纏い色を付けるんだ。ああ、そう考えると服を着た女は初めてだね。どうだろう、それを考えるとやはり重要だね。君が指示したのなら彼女はきっと言うことを聞くよ。惚れた男に一生のことを決める時に着る服を勧めてもらえたなら、言うことを聞く他にない」
「彼女が?ええまぁ、そうだと仮定しましょう。そうだと…それなら折角です、たまには私に託してみませんか」
「その細い指で痕を残すのかい」
「この手は黙らせるのですよ」
「俺を?」
「あの子を」
桜三の手は俺の首にある。シャツの襟を暴き、骨を撫でた。そのまま降りていき鎖骨に触れる。そしてまた首筋に手を当て少しばかり力が込められた。少し心地よく感じてしまうのは、それがどんな快感を与えるものかよく知っているからだろう。
魅力的だ。この上なく。加えてやはり、深く根差すような目線。背が粟立つ。
実際のところ、いつもはほとんど俺が殺していた。腹を裂きたいのは俺だけだからだ。桜三がそうしたいのはあくまでも静かな女のみで、なんならその女ですらあまりそうしない。腹を裂くというよりも腕を切り落とし首を折り、トルソーを作る方が彼の好みだ。これを見ることはよほどお気に召した時でしかないため、この数年で見ることができたのはほんの一度や二度の話だった。
あのこがそうなると思うと、やはり興奮する。紅が見られればそれでいい。…そこに桜三の肢体が転がっていれば尚のこといい。ありとあらゆる体液に塗れて、絶頂に身を打ち震わせている桜三が、いれば。鴇色の唇に笑みが浮かんでいれば。あり得ない話ではある。
…頬に触れる。眼鏡をとって瞼をなぞれば応じるように閉じられる。
この顔を知っているのは俺だけでいい。例え幼馴染でもそれは許さない。
「さぁ、どんな段取りにしようか」
「貴方の言う様、鮮烈に、しますか」
では鮮烈に、かつ、しとやかに。
日付は明日である。いつの間にか。
いつも整えられている髪が余計にそうなっているのだから、よほど気合が入っていると見て取れる。それもあってか、学内で彼の見合い話を知らない人間がいなかった。最も、吹聴したのは俺だった。あの放蕩息子である桜三が結婚するとなれば騒がない人間はいない。男どもは敵が減ると感じると同時に、これからどうやって今までのおこぼれを受け続けるかを思案していた。女たちは自分の家に見合いの話が入っていないか大急ぎで確認していた。最後の駄目押しと言わんばかりに夜を誘う奴も、一定数いる。普通なら断るだろう?しかしそうしないのが桜三のいいところで、俺が気に入っている一面でもある。
キスを落とし首筋に一つ思い出を残していった。
それが噂となり、深窓の令嬢とさえ言われていた美和女史でさえその列に並んでいるのだから驚きだ。
さて、俺は見合いが行われる料亭に個人客として出かけて行った。今回は久しぶりに桜三が縊る番だ。しかし流石に彼が道具を用意する暇も、持参する隙もない。そういうわけで、昼間からこんな豪勢な食事をとっているというわけだ。彼の家なら貸切にしそうなところではあるが、桜三がさせなかった。もちろん俺が忍び込むためでもあるが、第三者を敷地内に存在させることで閉鎖を滅したのだ。
用意したのはごく僅かだ。劇物。それを誤魔化す医師の処方箋。まるで医師が桜三を殺したくて仕方がないように仕向けた。可哀想に、その医者は桜三が長年懇意にしていた人物で、これを機に隠遁生活を送るしか術がないだろう。カストリに眉唾のようで現実な記事が載せられることも許してほしい。
用を足しにいくと言って、呼びつけた女中に土産を置いて行った。君がこの部屋に案内してくれていた時から、その頸が気になって仕方がなかったんだ。少し座敷を離れるから、その間荷物の番をしていてほしい。もし何も部屋からなくなっていなかったら、それ以上のことをしようじゃないか。
まだ目尻に幼さの残る女中は化粧以上に頬を赤らめさせた。口先では否定を重ねつつも、しかしその手先はジャケットのボタンをいじっている。
よく磨かれた廊下を何度か曲がると、目的地は目前だ。そして中には、見紛うばかりの桜三がいる。いつもよりも丁寧に整えられた髪は、その顔を際立たせるのに一役買い、睫毛で縁取られた目は常より水気が多い。最早いっそ、ここで永遠にできたらと、そう願ってしまうほどであった。それは彼が普段見ることの叶わない和装をしているからという点と、密室と、婚約の話の最中、身の内から湧き立つであろう快楽。
はずみで殺してしまいそうなくらいだ。
初めて我慢というものをしたようにさえ感じる。だが当の本人は露程も気にかけずこう言った。
「言ったんです。彼女が言ったんです」
「何を、だい」
「殺して、と」
つまり、と。
…粟立つかのように、本当に、波が押し寄せていても、まるでそれすら演技に見える。
そういう女が欲しいと、鴇色の唇は形作ったはずだった。
「私は、貴子を縊ることができなくなって、しまった」
自ら死を望むのならば、丑三つ時に湿ることなど、風前の灯でしかないだろうに。お前の望む女が手に入るだろうに。
なぜお前は、俺のシャツに皺を作っている。
慇懃に飽く 朔 伊織 @touma0813
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