第2話 名も無き山

 私はたまに山に登る。だけど、登山が趣味なんてたいそれたものじゃない。その山の名前すらしらない。そういった山を丘とも言うそうだ。低い山である。そういう軽いハイキングみたいな登山をトレッキングと言うらしい。名前は多分あるんだろう。なんだろうそういった身構えたものが嫌であえて調べてない。敢えて調べなければ目にはいる事も無い名も無き山なのだ。


 最初はそんな気さらさら無かった。普段歩く事が減ってしまい、それを補う意味で散歩やジョギングをするようになった。元々は若い頃は考えられなかったちょっと長い距離歩いただけで筋肉痛になってしまい。これは不味いんじゃないか?と思い立ってはじめたのがきっかけだった。


 運動が基本苦手で、それで体を本格的に動かすことが年とともにどんどん無くなった。それでも歩く事だけは得意と言うのも変だが、結構しっかり歩けるほうだったすぐ疲れたりしなかった。心肺機能の問題じゃなくて、足そのものが痛くなってしまった。原因を調べているうちに、足首の辺りだけ痛いことに気が付いて、他の鍛え方もあるのかもしれないが、一番簡単なのは走る事だと分かった。


 数日走っていたらそういう事が無くなったため分かった。だが、季節が悪かった。秋の終わりごろ始めて冬になり、準備運動はある程度するのだが、それでも急激に走る事でヒザが痛くなってきた。しばらく休んで、今度はリハビリとして歩く事を長めにするようになった。走るのと違って負荷が少なくて、それを補う意味で距離が伸びてしまった。


 そうなると退屈なんだ…。それを補う意味で目標を作るようになった。それが山登りのきっかけである。自分がどれぐらい脚力が維持されてるか?確かめるための意味と、何より毎日に近い日課の成果が欲しいんだ。退屈さが伴うため、使った時間だ無駄に感じてじょじょに億劫になってくる。


 継続は力なりと言うが、本当だと思う。本当に仕事でも無いのに毎日やるってのがかなり苦痛なんだ。時折そういった目標を作る事で多分ボディビルダーの筋トレが自分の身体を鏡で見て楽しむ部分と似てるんじゃないか?と思っている。


 努力って言葉は何故あるのか?と言うと多分、嫌々やる事も必要だからやる事にあると思う。徐々にそれによって努力してるという感情が薄れていき、習慣化に繋がってきた。やらないと落ち着かないルーチンの仕草と似ている。宗教的な儀式にも似ている。山登りが徐々に必要がなくなってきた。


 そうなると逆に今度は目標とは違い行きたくなる。何故だろうな単純に面白いんだ。自分なりに考えてみると、面白い事で地味な事の大半は、その時間他の事を考えないで済む。多分何故好きなんだろう?って分からない時間のすごし方をしてる人はこれじゃないのか?と人類普遍の感情に気がつけた喜びも味わっていた。


 こう考える人は考える時に大体嫌な事を考えてる時間が多い人だと多分思う。そういう人はこういった感情をおそらく癒しと呼ぶ。癒しの哲学そんなものをふと考えてしまう。


 さていよいよ目的の山に付く。なんとなくボーっとそんな事を考えて山の入り口まで歩いていた。


 入り口は大体のろのろの楽な道になる。そこからコースが分かれるが、今日はハードにしてみようと思う。丘なんて言ったが、登山コースではないが、ここはトレッキングコースとしては充実している。人と意外と朝早いのにすれ違う。


 最近上らなかったのは冬に入ってしまったのもある。もう2、3年も続けていて、毎年冬はヒザも痛いし寒いので山は避けている。なんとなく遠ざかっていたのもあるが、それだけじゃなくて冬があけて春になる暖かさを待っていたのもある。なんとなくきっかけが無くて避けてると、それに対してやらない言い訳をしだしてしまうんだ。


 だから必ず私は熱いと感じる季節にしか上らない。それゆえ朝早くでかける。じゃ冬登れば良いんじゃないか?と思うから言い訳もあるのかななどと考えてしまう。こんな早くでも人が居るのかって思いがある。


「おはようございますー」


 山ですれ違うと挨拶する人が多い。そういう常識みたいのがある。それについて私はこれは常識であると同時に合理的だと思う。そういった常識を実行できる。それが怪しげな人間じゃない。そういう意味があると感じ取っている。朝早い時間見知らぬ人と山道で遭遇するって不安なんだ。それを互いに持っている。


 その不安を解消するために互いに常識を確かめ合うのだ。理屈っぽいやつだなと思われるかもしれない。でも私は皆が感覚的にやってる事をつい言語化してしまう癖がある。多分意識はしてないが皆不安だと分かるんだ。山の中って朝のうち薄暗いからね。


 率直な感想として中年が言うなとなるが、お年寄りが多い。自覚はあるのだが、やはりある程度若いともっと本格的な登山やスポーツの方に向かうのじゃないか?と思う。やっぱり私の中で疲れた精神を癒すリラクゼーションの意味が強いんだ。それは森林浴にも繋がっている。


 まず木漏れ日がすごく良い。これを浴びるとたまらない気持ちになる。後は朝の空気。ちょっとハードなので熱いからっての一番の理由にしてるが、実際は朝の空気感が好きなのもあるんだ。これ多分枕草子や谷川俊太郎の朝のリレーで覚えた感慨のようなものと似ていると思う。これらと森の中の音も好きだ。無音に近いが何かしらの音がする。その得体の知れない音に不安じゃなくて、具体的な?何かを感じるのではなく、指向性の無い音を聞く。これが気持ち良い。


 朝の空気感と森の空気感が混じったとても心地良い空間。これを人のすれ違いは邪魔されるのじゃないか?なら正直言うと邪魔されるときもある。でもそれがお互い様なので、お互いのその気持ちを壊さないように挨拶があるのだと思っている。また前から老人夫婦が降りてくる。私も随分早く来たのに降りてくる人とすれ違うことに笑いのような感情こみ上げる。


「おはようございます」


 元気良く挨拶する。ただ老人夫婦はやや力弱い。なんとなく挨拶が単純な常識にならないようにしている。シンプルにただただ挨拶の言葉を交わす。それしか人の交流をしてない。その中に私はコミュニュケーションとしての意味をこめている。多分若い人と触れ合いが老人は減ると思う。


 私も若くは無いが、それでも疲れた様子や力強さに対してもう加齢がくる無理と言うのを感じ取る年になってくる。それがもっと加速して老人の挨拶は力弱いんだろうと思う。そういった人々に若い人達と触れ合う違いのある活力を与えられればと思って元気良くやってる。ただ運動部のような連帯感を強制するようなものにしないようにはしている。必要以上の会話をしない。日常の社会生活に対する癒しを求めてる私からはそれがとても心地良い。


 だからって孤独はあまり求めるものじゃない。人とすれ違うのは不安だ。それでも、全く誰も居ない山に登るのもなんとなく寂しい。私はこの惰性や常識でしか無い山の挨拶がとても好きなんだ。常識的にやらないといけないと強迫観念でやると愉快なものじゃない。私は自発的に挨拶したいんだ。それほど数居なくて疲労し無いって適度さもある。


 実を言うとあまりに人が多いと挨拶あまりしない。これは互いに分かってるんだと思う。例えば、休憩所のようなたまり場のような場所がある。こういった場所でいちいち挨拶していたら疲れてしまう。あくまで胡散臭い人とのすれ違いの不安を緩和させる意味が中心で、常識やマナーに囚われている人ばかりではない。


 ただ私は老人が多い場所で、そうじゃない人々とすれ違うのも楽しみにしている。老人は必然が有って選択肢の少なさから来てる人が多い。そうじゃなくてもっと能動的にこれを選んだって人が若者には多い。お前らその若さでこの楽しみ分かるんだなーってのが楽しんだ。何それ無趣味なの?って絶対若者だと思われると思う。だけど分かる人は多分分かる。


 私も知り合いに


「ゴールデンウィーク何するの?」


 と聞かれて、


「山に登ってきます」


 と一応答える。本当はただぼーっとしていたい。そうなると退屈な人だなとか思われてしまう。それほど親しくない程度の知り合いだと私は、自分のありのままを見せたくないんだ。実際はそのボーっとする気持ちよさを何かしてるって他者に思わせて味わえる楽しさを味わっているのだが。


 それでもあまり若い人間の娯楽としては理解の多い楽しみではないだろう。実を言うと4月から5月の間ってのは暑い。ただちょうど良い休みってので都合が良いだけで。


 そうは言ってもいるんだ。家族ずれは多いかな。子供ってこれ楽しいのかな?って良く分からない。子供ってとにかく動くのが好きだから、それでなんとなかなってるだけで、他の部分の楽しみは弱いんだろうな。それでも親に付き合ってのファミリーの楽しみとしてはポピュラーなんじゃないかな?と思う。


 実際一番すれ違うのが多い若い世代は家族連れがNO1だ。なるべく元気良くしっかりと


「おはようございます」


 と子供に向けて返答している。家族のずれの場合複数いるのでいちいち子供だけの挨拶に対応するの挨拶が億劫だと思う。ただ子供は無視されたと思ってしまう恐れがあるのでしっかり返答している。大人ならまとめて家族に挨拶したと受け取ってくれるのだが。子供って自分本位だよなとは思う。


 その我侭に何故付き合うか?と言うと、こういった常識を身に着ける事は多分良い教育だと思うから。面倒だと思うが情けは人のためならず。社会がちょっとでも良くなるならと。子供の居る時は、ギリギリの信号の点滅で駆け込んでいったりしないようにしている。模範たれって思いがある。独身だからって思いも大きい。自分の子供が居ないから、社会的に子育てに協力しなくちゃって思いがあって億劫だと思いつつも子供のテンションに合わせて返答している。


 やがて頂上付近の人のたまる場所にたどりつく。そこにいく意味なんて無いんだ。それを思うとそこに山があるからって言葉が良く分かる。別に途中でやめても良い。何か頂上にあるわけでもない。ただ区切りとしてそこを目指して降りていくことが変な心地良さになってる。


 スポーツとか嫌なのはこれもある。やっぱり上達したいんだ。そういうのが一切無いんだ。今日は上手い山登りだった。そういう技術向上の目的やそこから来る反省が無い。唯一それに近いといえば、今日は筋肉痛にならなかった。普段の散歩が効いてるな。たったこれだけになる。


 なんだろうこの開放感。技術向上や目的の達成って私はそれを否定したいわけじゃない。そうじゃない楽しみもある。ただそれだけなんだ。人との繋がりを否定したいわけでもない。ただ過度な人間関係の精神的疲労を避けたいだけなんだ。


 降りていく時、私は少し今日遅れたのを意識する。


「こんにちわ」


 そんな返答に時間がたって変化してるのを互いに確かめるように挨拶を変化させて、帰りのの肉体的に楽であろう下山をしていくのだった。

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