きつねの嫁入り

瀬古冬樹

前編

 私が結婚できる年齢の十七歳になったのは、花が咲き誇る初夏のことだった。

 私のように少し身分のある家の女性は、十五歳頃から他家から結婚の話が出てくることが多い。私の友達も、ほとんどが既に婚約者がいるか、成年とみなされる十七歳になって早々に嫁いでいった。けれど、私にはそういった話がさっぱりなかった。結婚の申込みがないということが全くないわけではないけれど、かなり珍しいことだった。父様が名士でそれなりにお金持ちであることまで考えると、婚約者もおらず結婚の申込みもないというのは、かなりおかしなことであった。

 それほどまでに器量が良くないのかと思ったこともある。性格に問題があるとは自分でも思いたくない。一方で慕う相手以外からの結婚の話がないことに、安堵してもいたのだった。良家の結婚は親同士の取り決めによる、いわゆる政略結婚が当たり前だから。かと言って慕う相手と添い遂げることができるかなんてわかりはしないのだけれど。


「お前の嫁入りが決まった」

 夕餉の時間の終わりに、とつぜん父様がそんなことを言い出したのは、その夏の終わりのことだった。母様は父様の隣で、いつもと同じ、穏やかな表情で座っていた。私は何を言われたのかすぐには理解ができなくて、口元を拭こうと手にしていた手巾を床に落としてしまった。手巾は私の隣に座る兄様がすぐに拾ってくれたようだ。

 斜向かいに座る父様の顔を見て、その隣の母様の顔を見て、そして兄様の顔を見上げた。兄様は微妙な顔をしていた。

「えっと……」

 そう口を開くだけで精一杯だった。頭の中が追いつかない。

「嫁入りは秋だ。準備はほとんどあちらさんでしてくれているから、お前はお前にしかできないことだけして、あとはただ嫁げばいい」

 そう言った父様は、私から視線をそらして席を立った。もうこれ以上話すことはないと言いたげに。父様の様子から、これは政略結婚なのだと思い至った。

「わたくしも戻ります」

 どうしたら良いかわからず母様に顔を向けると、母様が立ち上がった。

「俺も」

 仕方なしに兄様に視線を移すと、兄様も立ち上がった。兄様は小さくため息をついたあとで、私の頭をくしゃりと撫でて食堂を出て行った。

「幸せにおなり」

 その兄様の小さな声を、私はどう捉えたらよいのだろうか。

 あまりに突然のことだったので、相手の方が誰なのかも聞いていないことに気付いたのは、布団に入ってからだった。


 翌日、母様から改めて婚礼の日程が伝えられた。冬の気配も遠い秋中盤に行われるという。通常であれば、季節がいくつか巡るくらいの準備期間が設けられるという。それを考えると、婚礼まで時間がない。言われるがまま、婚礼衣装の寸法を測ったり、嫁入り道具などの準備をしていく。

 相手のことは一度だけ母様に聞いてみたことがある。すぐに表情の消えた顔で「わたくしの口からは言えません」と言われてしまっては、それ以上聞くことができなかった。何か問題がある相手なのだろうか。政略結婚であるならば、相手の家に財政的な問題はないだろう。祝言も、婚礼披露の式も、全て相手の方が用意してくれていると聞くし。それ以外の何かがあるのかもしれない。たとえばずっと年齢が上だとか。

 誰か該当するような者がいるだろうかと考えるが、そういったことを全く知ろうとしてこなかった私は、早々に諦めることにした。私の友達にも、そういった話が好きな子が多い。何度も会話にのぼったことがあったけれど、私は私の慕う方のことを考えてしまい、まともに聞いてなどいなかった。


 ところで、私には五つ年上の幼馴染がいる。近所に住む彼を、幼い頃は兄のように懐いていたし、長じた今では彼こそが私のお慕いする相手だ。

 彼にはこのところ全く会っていない。兄より一つ上の彼は、跡継ぎとして家業を手伝うのに忙しいらしい。道で会ったという兄からそんなことを聞いたのは、結婚が決まった数日前のこと。

 まだ私が彼を兄のように思っていた頃、跡継ぎなのだから早く身を固めた方がいいのではないかと周りが言っているのも聞いたことがある。自分の恋心に気がついてすぐ、そのことを思い出して彼に結婚するのか聞いたことがある。

「まだ、そんな気にならない」

 その言葉を聞いて、その時はほっとしたのだ。私は当然まだ結婚できる年齢ではなかったから。彼はとっくに結婚できる年齢になっていたから。

「親も僕に早く結婚しろとは言わない。周りが勝手に言っているだけだよ」

 続けてそう言っていた。優しげな瞳で見つめられて、優しい手つきで髪を撫でられた。そのまま髪の間からのぞく耳を少し強めに、こするように撫でられた。その気持ちよさに思わず目を細めた私を、彼はさらに顔を優しげに緩ませて見ていた。

 私の兄もまだ結婚してはいないが、婚約者はいるのだ。跡継ぎとして早々に結婚する者もいれば、兄のように婚約はしたものの仕事を覚えてから結婚したいと言う者もいる。けれど彼のように結婚もしていなければ婚約者もいないというのは、珍しいことなのではないかと思う。


 彼はこの結婚のことを知っているのだろうか。決まって数日が経ったけれど、まだ知らないかもしれない。でもいつかは知ることになるし、私の家との関係を考えれば、彼を婚礼披露の式に招かなければならないだろう。近所に住んでいるだけでなく、父様同士の付き合いもあるのだ。

 もし彼から祝福の言葉を投げかけられたら、私はきっと堪えられない。考えただけでも心が痛くて、喉の奥が苦しくなる。

 絶対にいつかはわかることだと思ってはいても、それができる限り遅ければいい。遅ければ遅いほどいい。私達のような階級にとって、結婚は家と家の結びつきであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。恋愛結婚がないとは言わないけれど、やはり珍しい。


 日々はどんどん過ぎていく。私がすべきことは多くはない。

 結納は行われなかった。相手がどうしても時間が取れないという。両親も別に結納をする必要はないと言っていた。けれど結納金だけは頂いたらしい。しきたりだからと。

 婚礼衣装は寸法さえ測ってしまえば、あとは仮縫いができた時に試着すればいい。衣装の布も何もかも、全て夫となる人が決めていると、やってきたお針子が言っていた。私はただ言われるがまま、体のあちこちを測られるだけで良かった。

 嫁入り道具を選ぶのには少し日数がかかった。婚礼家具も婚礼布団も、最低限でいいとは言われたけれど、きちんと店まで出向いて一つ一つを母様とその目で見て、選んだ。着物は母様がいつでも嫁げるようにとすでに準備していた。

 婚礼披露の式へ誰を招待するかは、父様と母様が選んでいた。家同士の結びつきなのだから仕方がないことであった。友達では誰を招待するかだけ、私が決めた。招待客の中に幼馴染の彼がいるかは聞かなかった。

 もっと日々が忙しければ良かったのに。彼のことを考えないで済むように。

 私は彼が結婚相手である可能性を考えたこともあった。父様同士の付き合い、それはつまり仕事上の付き合いであった。家同士の結びつきを、という話が出てもおかしくはないはずなのだ。

 けれど相手が彼であれば、家族も隠す必要はないのではないだろうか。だから私は相手が彼かもしれないと期待するのをやめた。というか、なぜ隠すんだろうか。政略結婚だと言われたら、私はどんな相手であれ嫁ぐのに。嫁ぐしかないのに。


 婚礼を数日後に控え、まだ一度も彼には会っていない。彼から祝福の言葉をかけられないことを喜び、同時にこれほど長期にわたって彼に会えないことを悲しんでもいた。彼とこれほど会わないのは初めてのことだった。近所に住んでいるのだ。出かければ道端で顔を合わせることもしょっちゅうあったのに。それすらもなかった。ただの偶然だと思うけれど、それがなぜか私が彼を諦めるための啓示であるような気がした。

「兄様、少しだけよろしいでしょうか」

 日が落ち始めた頃、私は兄様の部屋の前から声をかけた。障子越しに薄明かりが見え、兄が在室であることがわかったのだ。

「入っておいで」

 声が聞こえて、私は静かに障子をあけて部屋に入った。兄様は文机で何やら書き物をしているようだった。障子の前に座して、兄様が振り向くのを待った。

「待たせたね。何の用だい?」

 文机の前で体の向きを変えた兄様がまっすぐ私を見つめる。

「あの……」

 私は決心して兄様のところへきたはずなのに、言葉がすぐには出てこない。けれど兄様は私が話すのをじっと待ってくれている。兄様は口数が少ないし、あまり笑わないけれど、とても気長で優しいのだ。

 聞きたかったのは、ただ一つ、彼のことだけ。

「あの、稔お兄様はお元気でいらっしゃいますか」

「ああ、元気だよ。いろいろと忙しいらしいが、祝言にはちゃんと出られると聞いている」

「そう、……そうですか」

 部屋に沈黙が落ちた。兄の表情からは何の感情もうかがえない。けれど、私はあと数日で、祝言の席で、彼から祝いの言葉をかけられるのだろう。胸の奥がちりちり痛む。

「あの、あの、失礼します」

 何と言えばいいのかわからず、私はすぐに兄の部屋を辞した。


 その日は朝から晴れていた。晴れているのだが、雨も降っている。傘をさそうか迷うような細かい雨が。空を見上げれば青空が広がっている。ところどころに浮かぶ雲は真っ白で、この雨はどこから降ってきているのだろうか。

――狐の嫁入り

 こんな天気をそう呼ぶのだと、教えてくれたのは彼だった。でも、この天気はきっと私の心を少しだけ映し出しているのだ。今日、見知らぬ誰かの元へ嫁ぐ私の心を。

 縁側から空を見上げ、稔お兄様のことを思い浮かべた。そう簡単に忘れられるはずがないけれど、それでも私はこの気持ちを押し隠して、夫となる人と新たな家庭を築かなければならない。そしていつかは稔お兄様も誰かと……。

 嫁入り衣装に着替えた私を、両親と兄様が迎えにきた。それぞれが祝言にふさわしい服装をしている。

 けっきょく嫁ぐ相手が誰なのか、私はいまだに知らない。母様に教えてもらえなかったあと、聞くことはできなかった。怖かった。もう一度聞く勇気もなかった。

 今から私は、花嫁行列とともに夫となる人のもとへと行くことになる。夫となる人の花婿行列は途中で待っていて、そこから祝言の場所までは両列がともに進むのだという。私はそこで、初めて、夫となる人と顔を合わせることになる。相手が誰かも、そのときにようやくわかるのだ。

「時間ですよ」

 母様の静かな声にはっとして、着物を着崩さないように立ち上がった。婚礼衣装に合わせた白い草履に足を通しながら、着ている白無垢にも目を向ける。肌触りのよい着物は、白い糸で施された柄も繊細で美しい。婚礼披露の式では、また別の白無垢が用意されている。私の名前が「ゆき」だからと、白い着物を選んだのと聞いている。どちらも質のよい生地が使われているのが、見ただけでわかるほどだった。

 綿帽子に隠れた耳がぴくりと動くが、外から見てもわからないだろう。着物からのぞく尻尾がそわそわと揺れる。

 とうとうこの時がやってきてしまったのだ。心の準備など何もできてはいないのに。


 玄関の前に両親、兄様とともに立つ。この結婚を祝ってくれる者たちが家の前に集まっている。このあと一緒に、花嫁行列として進んでいくことになっている。

 父様が花嫁行列のために集まってくれた方々にお礼と開始の口上を述べた。この言葉は決まっている。友達の花嫁行列に参加したさいに何度も聞いたことがある。父様も話しながら、感極まった様子でいる。その後姿をどこか冷めた気持ちで、見つめていた。

 父様の話が終わると、仲人を務めるご夫妻の奥様だけが父の前に歩み出た。ご主人は花婿行列のほうにいる。伝統に従って、両親と奥様が何かを話しながら頭を下げあっている。祝いと御礼、その繰り返し。頭の中で今日の予定を思い返しながら、その光景を見つめていた。

「大丈夫だよ、ゆき。何も心配はいらない」

 私の隣で前を向いて立っていた兄様が、そっと私にだけ聞こえるように伝えてきた。何のことだろうと思うけれど、私は兄様を見上げることはできない。私たちは両親と奥様のやり取りを見ていないといけないからだ。

 ようやくやり取りを終えた仲人夫妻が、そろって手を打ち鳴らす。それが花嫁行列が動き出す合図だった。仲人の奥様を先頭に、両親、兄様と続く。私はその後ろを傘持ち――真っ赤な傘をさしてくれる付き添いの友達――とともに歩みを進める。私の後ろには打掛をそっと持ち上げてくれる友達がいて、楽器を演奏する者たちが静かに奏でながらついてくる。その後ろには嫁入り道具を持つ者たち、そしてただ歩いてついてくるだけの者もいる。総勢五十名ほどで、花嫁行列は田畑の間の道を進んでいく。

 私は俯いて歩かなければならない。顔は角隠しの影になっているはずだ。前を歩く兄様の足元だけを見て進んでいく。


 どれほどの時間を歩いたかわからない。兄様の歩みが止まった。約束の場所についたらしい。そういえば、どこで行列が合流するのかすら聞いていなかった。

 花婿行列の先頭にいたであろう、仲人のご主人らしき声が響き渡る。間もなく花婿と顔を合わせることになる。心臓が高鳴る。とても嫌な気分だ。嫌で怖い。

 たがいの列にいる楽器の演者たちが祝いの曲を大きな音で鳴らす。この演奏が終われば、その時だ。


 演奏が終わり、周囲に促されて花嫁行列の先頭へと移動する。まだ前を見てはいけない。傘持ちの動きに合わせて歩くように言われている。そして花婿の声がけで顔を上げるのだと。

「ゆき」

 そっと優しい声が聞こえて驚く。私がその声を聞き間違えるはずがない。先ほどとは違った胸の高鳴りとともに、私は言い含められていたようにそっと顔をあげた。

「……稔お兄様」

 そこにいたのはやはり、私の慕う稔お兄様だった。

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きつねの嫁入り 瀬古冬樹 @tautcles

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