16. 誕生日とザンギ
「ふう~」
肺の中の空気をできるだけ外に出すように、ゆっくりと息を吐き出す。
すると自然と心が落ち着き、頭の中のハードディスクが素早く回転を始めた。
俺は頭に刻み込まれた過去を再生しようと、自分の内部へと意識を集中させていく。
本当は思い出したくない。つらい出来事は今でもつらいことに変わりはない。
けれど、思い出さなければ俺は間違えたまま進んでしまう。俺が今まで歩んできた道を否定するのは愚かだ。
過去から学んで必死に考えて導き出した結論は、俺自身が生きるためには必須なのだから。
それは、俺が友達を作らず、恋人も作らず、他人と関わらないで一人で生きること。
俺は一人だから気楽でいられる。他人に何かがあったとしても、関係ないと割り切ることができる。
だから、一人でいればつらい気持ちと無縁で過ごせるのだ。
俺はそっと目を閉じて、より一層内部へと意識を向ける。そして無数に記憶の引き出しが並ぶ収納のうち、最も大きな引き出しを開けた。
その記憶は十二年前の十二月三日、俺が五歳を迎えた誕生日の出来事だ。
◇ ◇ ◇
雪。柔らかそうな白い丸が空からしんしんと降り、地面へと落ちていく。
積雪が何センチかは分からないが、コンクリートの灰色が見えない程度に一面真っ白だった。
除雪されていない歩道を歩けば、積もったばかりの雪がぎゅっと音を立てて固まり、靴の跡がはっきりと残る。
雪は降っているけれど傘は差さず、毛糸の帽子を被っているだけ。北海道の雪はふわっとしていて手で簡単に払えるので、傘を差す人はほとんどいない。
その分、気温は低く、厚手のダウンコートを着込んで手袋とマフラーを装備し、徹底的に防寒していた。けれど隠せない顔は冷気に晒され、もはや寒いというより痛い。
これだけ寒い中を歩くのはしんどいけれど、今日の夕食のためだと自分を奮い立たせて歩く。誕生日の今日だけは、夕食に好きなものを食べることが許されるのだ。
当然、まだ五歳になったばかりの俺が一人で買い物に出かけるはずはなく、隣には母さんがいる。母さんはまだ小さな俺にペースを合わせて隣を歩いていた。
本当は
俺たちの目的地は近所にあるスーパー。夕食に使う材料を調達するためだ。
「今日は寒いね。雪が降ってるからかな」
「母さんが車を運転できたら寒さを回避できたのに」
母さんは免許は持っているが運転できない、いわゆるペーパードライバーだ。しかも免許を取得してから一度しか運転していない熟練のペーパードライバー。絶対に運転させてはいけない。
ちなみに父さんは車を運転できるけれど、今日は平日で仕事。たまたま接客業の母さんは仕事が休みだったため、一緒に買い物に来られた。
車通りの多い道に出れば、すぐにスーパーが現れる。中へ入ると暖かな室内の空気に包まれてほっとした。
母さんはカートにカゴを置き、店内へと進んでいく。俺はそれに続いた。
「
「俺はザンギが食べたい!」
「ザンギは先週作ったばかりなのに、本当にそれで良いの?」
「良いよ。母さんのザンギ大好きだから」
俺は母さんのザンギが世界一美味しいと思っている。母さんが作るザンギは醤油ベースの薄味で、ピリッとした辛さがアクセントだ。
誕生日にちょっとした贅沢を感じられる寿司や、祝い事でよく食べられるジンギスカンを食べたいと思うのが一般的だと思うが、それでも俺はザンギが食べたかった。
決して家庭の経済事情を案じて遠慮した訳ではない。今の俺が心から食べたいと思ったのがザンギだった。
俺の要望を聞いた母さんは精肉コーナーで鶏肉を手に取り、カゴへ入れた。
その後、店内を回りながら母さんは味噌汁の材料やデザートのゼリーなどをカゴに入れていった。
最後にレジで会計を済ませて、ビニール袋に購入した商品を入れる。意外と量が少なく一袋で収まり、母さんが一人で持てる量になってしまった。付いてきた俺の出番はなさそうだ。
帰宅するため、再び雪が降っていて寒い外に出る。一気に冷気に晒されて、ぶるっと体が震えた。
「母さん、早く帰ろう。寒いし、ザンギ食べたいから」
「はいはい」
優しい笑顔を俺に向けて、母さんは歩き出した。
家に帰れば俺の大好きな母さん手作りのザンギが食べられる。心から楽しみだ。
スーパー前のやたら広い駐車場を抜け、車通りの多い道に沿って歩道を歩く。スーパーに向かっていたときよりも雪が積もり、靴が半分くらい雪に埋まる。
途中、雪によって白い線すら見えない横断歩道の前で、赤信号に従い一旦立ち止まる。ほんの僅かな時間とはいえ、立ち止まっている時間さえ惜しい。早く帰ってザンギを食べたい。
青信号になった瞬間、素早く俺は歩き出す。後ろから母さんが付いてくる。
と、そのとき。
「晃弥!」
名前を呼ばれたかと思うと、急に力強く背中を引っ張られ、宙に浮いて尻もちをついた。
何が起きたか分からない。母さんが急に背中を引っ張った、それ以外分からない。
前を見れば、横断歩道の真ん中に母さんがいた。俺の方に背中を向けて、立っていた。
そして同時に見えたのは、数メートル離れた位置から、猛スピードで走っている車。真っ直ぐ、横断歩道へ向かっている。
「母さん!」
俺は手を伸ばした。けれど母さんは思っていたよりも遠くて、いくら手を伸ばしても届かない。
車は速度を保ったまま、母さんへと近付いていく。
やめろ。来るな。俺の母さんを奪おうとするな。
頭の中はパニックで、ぐちゃぐちゃで、よく分からない。それでも必死に母さんが助かる未来を願った。
そして、
――ドスン。
鈍い音。
雪に
現実は残酷だった。
俺は現実を受け入れたくなくて、けれど目の前の出来事は現実で。
悲しみ、苦しみ、怒り、様々な感情が一気に湧いて、混ざって、何を思っているのかさえ分からなくて。
「うわーーーーーっ!!」
ただひたすらに叫んだ。
目からは涙が流れ、鼻水も止まる気配がない。
喉が痛い。出血しているかもしれない。
でも叫ぶ以外、俺は何もできなかった。無力だった。
誰がこんな未来を予想できただろうか。現実は予想外の出来事に満ち溢れていて、それゆえにつらい。
母さんを失うなんて想像すらしていなかった。この先もずっといるのが当たり前だと思っていた。
けれど、これは既に起こった出来事。起こってしまった過去は変えられない。現実だと受け入れる他ない。
ただ、あまりにも俺にとっては衝撃的な出来事だったことに変わりはなくて。
この日から俺は、ザンギを食べられなくなった。
◇ ◇ ◇
「どうして……どうしてだ……」
そっと中を覗くと、部屋の真ん中で、父さんは泣いていた。これまで一度も俺の前で涙を見せなかった父さんが泣いていた。
母さんに車が衝突した後、他の車のドライバーがすぐに救急車を呼んだ。
そして到着した救急隊が母さんを見て、死亡していると判断した。
検視、本人確認を経て、今は自宅。和室の中央で真っ白な布団に包まれ、母さんは眠っていた。
父さんは母さんの隣で正座したまま、涙を流す。
俺にとって絶対的な強さの象徴だった父さん。厳しさと優しさを併せ持ち、完璧で隙がなかった。
そんな父さんが泣いている姿に強く胸が締めつけられる。
俺はあのとき必死に手を伸ばしただけで、母さんを救えなかった。
俺は何もできなかった。そして今も何もできない。
俺は無力だ。母さんを救えなかった上、父さんも救えない。
つらい。心がボロボロに引き裂かれていく。今にも自分が壊れてしまいそうだ。
俺はぐちゃぐちゃになった頭で必死に考える。
どうして人はつらくなるのか。
一言で表せば、嫌だからだろう。
母さんが亡くなるのが嫌。父さんが泣くのが嫌。どこかで自分にとってマイナスになる要素があると判断している。
時間を戻してやり直せたとして、嫌な未来を回避できるのならつらい思いとは無縁でいられる。
けれど、現実はやり直しが利かない。過去の出来事は、永遠に変わらない事実として刻まれる。
だからつらい出来事はいくら時間が経ってもつらい。それはもう受け入れるしかない。
では、何がつらさを生み出しているのだろう。
つらいというのは感情だ。感情は自分の内部から自然と湧き出るものだから、コントロールは難しい。
俺はもう二度とつらい思いをしたくない。そのためには、事実からつらさに繋がる要素をあぶり出し、それを取り除いて生きれば良い。
ただ、この疑問に対する答えは簡単だ。
それは、自分との関わりを持っている人が関与していること。
俺の場合は母さんや父さんといった血の繋がりがある人物が関与している。
さらに父さんもつらさを感じているはずで、それは母さんという最愛の人を失ったからだ。
相手を好きだと思っていない場合、例えば友達であっても喧嘩をしたらつらくなると思う。
既に俺が生まれた以上、父さんや妹の希乃羽との関わりを絶つことはできない。
その前提を踏まえた上で、俺が極力つらい思いをせずに生きる方法は一つ。
俺が他人と友達、もしくはそれ以上の関係を築かなければ良い。
◇ ◇ ◇
今でも時々不安になることがある。あの日、俺が下した決断は間違っていなかったのか、と。
けれど、不安に思う度、俺は他の選択肢を考えて間違っていないと確信していた。
何故ならば、選択肢は他人と関係を築くか、築かないかの二択だから。
他人と何かしらの関係が生じた時点で、その先にトラブルが起きればつらい思いをするのが目に見えている。
つらい思いから逃れる選択をした俺は間違っていない。そう信じるために、俺はつらさを感じている人を見ると過去の俺を重ねていた。
中学三年生の夏休み、
過去の俺に、つらい思いをしないのが一番だと伝えるためだ。
だから、今でもつらい思いをしない選択こそ正しいのだと信じている。俺自身を守るために選んだ道は正当だと考えている。
――ブブッ。
ポケットの中のスマホが振動した。俺はスマホを取り出して画面を確認する。
二葉からのメッセージ着信を知らせる通知が表示されていた。LIMEを起動し、二葉とのトーク画面を開く。
『お見舞い、ありがとう』
内容は感謝のメッセージ。可愛らしい猫が頭を下げるスタンプが一緒に送られてきていた。
そのまま腕を脱力させて伸ばし、自然とスマホが手から離れる。
俺の行為は、優しさなんかではなかった。
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