第四章. 決断

14. ザンギ少女と勉強

「どうして……どうしてだ……」

 部屋の真ん中で、父さんは泣いていた。これまで一度も俺の前で涙を見せなかった父さんが泣いていた。

 俺は何もできなかった。そして今も何もできない。

 現実はいつも残酷で、予想外の出来事は必ず起こる。

 そして一度起こってしまったら、過去は変えられない。

 俺は、無力だった。

 悔しさと、もどかしさと、悲しみと。それらの感情がかき回されて、ぐちゃぐちゃになって、自分がよく分からない。

 ただひたすらに、つらかった。

 父さんも同じなんだと思う。いや、もしかしたら俺よりつらいのかもしれない。

 つらくて、どうにかなってしまいそう。よく分からないけれど、自分が壊れそうな予感。

 苦しい。耐えられない。どうしようもない。

 俺はもう二度とつらい思いをしたくない。

 だから俺は――。

 ――がばっ。

 布団から飛び起きた。パジャマはぐっしょりと汗で濡れていて、肌に張り付いている。

「はあ……」

 どうして夢は楽しい出来事だけを映し出してくれないのだろう。寝ている間くらい、心を落ち着かせていただきたい。

 壁にかかっている時計を見る。時刻は六時を少し回ったところ。普段は六時半に起床しているため、まだ時間に余裕がある。

 俺が部屋から出ると、丁度隣の部屋から眠そうに欠伸あくびをしながら希乃羽ののはが現れた。

晃弥こうや、おはよ。って、晃弥が早起きしてる。これは天変地異の前触れかな?」

「ツチノコでも見たような顔するほど驚くことか?」

「ツチノコを見つけたというより、私が元いた世界と酷似した異世界に飛ばされた気分」

「どんな気分だよ……」

 寝ている間に異世界転生果たしてる時点で、確実に永遠の眠りについてるぞ。

「で、何かあった? 顔がいつもに増して死んでるけど」

「心配しているように見せかけて心を傷つけるのやめようね?」

 心配する気があるのなら優しい言葉をかけましょう。良い子のみんなは真似しないでね。

「冗談だって。それで、本当に何かあった? また悪い夢でも見たの?」

「……まあ、そんなところだ」

 希乃羽には以前に悪夢の内容を話したことがある。だから希乃羽は夢の意味するところを理解しているはずだ。

 夢に現れる状況は過去の現実で、二度と変えられないことも。俺がつらい思いをして、大きな決意をしたことも。

 希乃羽は全てを知っている。

「夢で何度も見るなら、心の中のどこかで引っかかっている部分があるんじゃないかな。それが分かれば一番良いんだろうけど」

 それが分かっていれば苦労はしていない。

 心に意識を集中させて深く潜り込もうと思っても、幽霊のように実体を掴むことさえできない。

 無意識が他の何かを守ろうとするために、阻害しているような感覚。

 自分自身のことなのに、理解できないのはもどかしい。

「俺はどうすれば良いんだろうな……」

 何が分からなくて、何が分かっているのか。どこまで納得していて、どこから納得できていないのか。

 言葉にすることはおろか、把握することさえできなくて、俺は漠然ばくぜんとした言葉を漏らした。

「もう夢に見ちゃったんなら、考えたって仕方ないでしょ」

 希乃羽の言っていることは何一つ間違っていない。夢を見た事実は現在にとっては過去で、絶対に変えられない。

 けれど感情とは別問題だ。いくら自分に過去は変わらないと言い聞かせても、そこに付随した感情によって腑に落ちないこともあり得る。

 特に、つらい出来事はどれほど時間が経過しても全部を納得するのは難しい。

 だから、つらい過去は果てしなくつらい。


 ◇ ◇ ◇


 今朝、早く目覚めたせいか、授業中に頻繁に睡魔に襲われて必死に格闘していると、気付けば放課後だった。ノートにぐにゃぐにゃのヘビのような線がいくつも描かれていたが、教師に叱られることもなく何とか無事に乗り切れたようだ。

 俺は道具を鞄に片付けて立ち上がった。瞬間、ポケットの中のスマホが振動した。

 ポケットからスマホを取り出して画面を見ると、二葉ふたばからのLIMEライムメッセージ着信を知らせる通知が表示されていた。

『緊急事態!』

『まじで緊急事態!』

『食堂に来て!』

 わざわざ三回に分けて送られたメッセージは、結局のところ俺を食堂に呼び出す内容。しかも何が緊急事態なのかさっぱりだ。

 二葉の言う緊急事態はどうせそれほど重大じゃないだろう。

 以前、二葉が「死んで消えちゃいたい」と言うほど落ち込んでいた事件があったが、原因は食堂が休みでザンギ定食を食べられないからというショボいものだった。

 だから俺は今回も緊急事態だとは考えていないものの、念のため食堂へ向かった。

 ガラガラと食堂の扉を開けると、二葉はいつもと同じく扉の側の席に座ってザンギ定食特盛りを食べていた。

 俺は給茶機でほうじ茶を紙コップに注ぎ、それを手に二葉の隣へ座る。

「ちょっと待ってて。すぐ食べ終えるから」

 二葉は俺に向かってそう言うと、普段よりもハイペースでザンギ定食を食べていく。

 口の中に残っていても次々と口に入れ、上品さは皆無だ。

 口の中が一杯になると味噌汁で流し込み、またザンギやご飯を休まずに口に運ぶ。

 だが、体には受け入れられる限界があるので、

「ん~、ん~」

 予想通り、二葉は食べ物を喉に詰まらせた。

 そして何故か俺の手から紙コップを奪い、一気に飲み干した。

 まだ口をつけてなかったから間接キスにはならないし、残念だとは思っていない。嘘じゃないぞ。

「ぷはあ、生き返った~」

 紙コップを勢いよく机に置いて、二葉は再び流し込むように定食を腹に収めていく。

 俺は給茶機に向かって新しい紙コップ二つにほうじ茶を入れ、席へ戻った。一つは二葉の近くに置き、万が一のことがあっても事故は起きないようにしておいた。

 しかしその後、二葉は喉を詰まらせることなく、数分でザンギ定食を平らげた。

 二葉は一息ついてから、俺の方にずいっと寄って、

久保くぼ、緊急事態!」

「……何だ」

「本当に緊急事態なのよ!」

「だから何が緊急事態なんだよ!」

 さっさと言えよ。

「明日の数学の小テストに決まってるじゃん!」

 二葉は当たり前かのように言っているが、俺に予想できるはずがない。

 確かに数学の河田かわだの小テストは合格点が八割と高く、不合格者には大量の課題が課されるため、危機感を覚えるのは理解できる。

 だが、当然ながら俺は超能力者ではないので二葉の思考を読み取ることはできない。

「で、どうして欲しいんだ?」

 大体の予想はついているが、確認のため俺は二葉に訊いた。

「久保は確か理系でしょ? なら数学得意よね。私に分かりやすく教えてよ」

 理系であれば数学が得意であるかはともかく、二葉に家庭教師の代わりを頼まれてしまった。面倒くさい。

「二葉の友達に頼れば良かっただろ。俺なんかより親身になって教えてくれると思うぞ。ほら、あのメガネかけてる女子、鹿頭しかあたまだっけ? あいつなら何か数学できそうな見た目してるだろ」

「鹿頭じゃなくて鹿野しかのね。確かに見た目だけならガリ勉っぽいけど、私の友達で一番勉強できないのよ。一年のときは定期試験で毎回赤点を取って補習行きになってたし」

 赤点製造マシーンでも進級はできるのか。余程のことがない限り、学校も留年はさせたくないのだろう。

「言っておくけど、友達の中で一番勉強できるの私だから」

 二葉は「ふふん」と誇らしげに胸を張る。そのせいで二つの丘が強調されるから目が吸い寄せられた。

「じゃ、じゃあ前回の数学の小テストの点数を言ってもらおうか」

 必死に目を逸らしつつ、俺は二葉の学力がいかほどか尋ねた。

 しかし、二葉は即座に答えず、どこか躊躇ためらった様子を見せる。

「そ、それは……まあ、その……私としては悪くないかなーって感じで、その……」

「さっさと点数言えよ」

 うだうだと誤魔化されるのは嫌いだ。

「三十三点!」

「何で低い点数をそんなに堂々と言えるのか全く分からんが、その、あれだな。何重にもオブラートに包んで言うと、バカだな」

「全然包んでないじゃない!」

 決して小テストの満点が百点ではなかったとか、そんな事実はない。

 百点満点で、八十点以上が合格。しかも前回はかなり難易度が低く、ほとんどの生徒が合格点以上だったはずだ。

 そんな中で不合格かつ三分の一程度の得点しか取れていないのは、はっきり言って致命的だ。

「もう二葉は友達と仲良く一留の学生になれよ」

「絶対に漢字違う……」

「間違ってないだろ」

 俺が冷たくあしらっても二葉は怯まず、鞄から数学の教科書を取り出した。

「とにかく、私に数学を教えなさい」

「教えたところで、たった一日で合格点まで到達する学力が身につくとは思えないぞ」

 せめて数日前に教えてくれれば、まだ救いようはあったと思う。

 二葉の現状を考えれば、今から必死に勉強しても八割の合格点に到達するのは難しい。

「それはやってみなきゃ分からないじゃない」

 だが、二葉は諦めない。

 少しでも可能性があるのなら、たとえ確率がゼロに近くても挑戦したいのだろう。

 確かに未来は予想できないから、努力が無駄だとは断言できない。現時点では既知の事実に基づき予想するのが精一杯だ。

 けれど、小さな可能性に賭けるのは勇気のいる決断ではないだろうか。

 もし期待して決断してもそうならなかったら、つらさだけが残ると思う。

 それは、俺には決してできないことだ。

「ねえ、明日の小テストの範囲ってどこだっけ?」

「まずそこからかよ……」

 教科書を開きながら二葉は首を傾げていたので、俺は呆れつつもテスト範囲のページを伝えた。

 今回の小テストは平面ベクトルから出題される予定である。

「時間がもったいないから、早速勉強を始めましょ」

 二葉はノートの新しいページを開き、シャープペンシルを持ってやる気満々だ。

 どうせ俺が断っても二葉がしつこく頼む未来が見えるので、諦めて俺は教えることにした。

「で、何が分からないんだ?」

「ぜ~んぶ」

「…………」

 満面の笑みで言いやがった。殴りたい、この笑顔。

「そもそも、ベクトルが何か理解してるか?」

「えっと、あれでしょ。何か矢印書いて、括弧に数字書いてる記号みたいなやつ」

 これは想像以上に厄介かもしれない……。

「まず、ベクトルの定義から言うぞ。ベクトルは向きと大きさを持った量だ。例えば、長さが五の線があったとして、これを二葉が歩いた道だと仮定する」

 俺は二葉のノートに横線を書き、下に『長さは五』と付け加えた。

「単位はメートル? キロメートル?」

「そこは勝手に決めてくれ。それで、このままだと二葉が右から左へ進んだのか、左から右へ進んだのか分からない。そこで向きを取り入れればその区別が付く。今回は左から右に進んだことにしよう」

 俺は先程書いた線の右側に書き加えて、右向きの矢印にした。

「こんな感じで、向きと大きさが同時に示されると便利なんだ。ちなみに図に表すときは、今書いたように矢印で示す」

「何となく分かったけど、ベクトルに付いてる括弧と数字は何なの?」

 シャープペンシルを下唇に当てながら、二葉は尋ねた。桃色の唇がぷにっと押されていて少しドキッとする。

「そ、それはだな――」

 俺は二葉に訊かれた内容に答え、ベクトルの基本的な計算などについて教えていった。

 今回の小テストの範囲は教科書上では十ページ程度。決して広くはない。

 しかし思った通り二葉には理解が難しいようで、例題を五問解説するだけで三時間が経過していた。

「もう無理~」

 二葉がシャープペンシルを投げ出し、ぐっと腕を上げて背筋を伸ばす。

「あと一問でテスト範囲の例題終わるだろ」

「でも結構頑張ったじゃん。ほら外見てよ。もう真っ暗だよ?」

 二葉に促されて、俺は窓を見る。真っ暗な窓に食堂の蛍光灯が反射していた。

「二葉が賢かったらこんな時間にはならなかっただろうな」

「私のせいなの!?」

 どう考えてもあなたのせいだと思います。

「二葉は文系なのか?」

「そうだけど、それが?」

「なら、定義なんて簡単に覚えられるだろ。最悪、河田のテストは問題難しくないから解法を覚えても満点は取れる」

 数学を学ぶ意義には反しているだろうが、暗記は限られた時間で合格を目指すなら最も効率が良い方法だ。

 しかし、二葉は即座に俺の言葉を否定して、

「そんな簡単に覚えられたら苦労する訳ないじゃん。納得しないと頭には残らないでしょ」

 残念ながら、二葉の脳はそう都合良く暗記に特化していないらしい。

「取り敢えず、最後の例題をやるぞ」

「う~」

 二葉は嫌そうにしながらもシャープペンシルを持つ。

 そして俺は先程までと同じように解説し、二葉は頷いて聞いていた。

 二葉と二人だけの空間で、俺自身も理由はよく分からないが、どこか安らぐのを感じていた。

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