13. 雨の日のタコザンギ少女

 土曜日。吹奏楽部のトランペットか親戚の金管楽器らしき音が鳴り響く廊下を俺は歩いていた。

 この高校は公立なので今日は休みで授業がない。また、校舎内には部活動のために登校している生徒が何人か見受けられるが、俺がここ数日で気変わりして部活に所属した事実もない。

 では何故、学校に来ているのかと言えば、面談があったからだ。

 この学校ではどういう訳か年度初めに行われる担任と生徒の二者面談が四月の土曜日と日曜日に行われる。生徒にとっても教師にとっても休暇なのにわざわざ学校に来る労力を考えれば、平日の放課後に実施する方が適切だと思う。

 ただ俺が心の中で不満に思っているだけでは現実が変化するはずもなく、やむを得ず制服に着替えて登校していた。

 つい先程、予定時間より十分も延びた担任との面談が終わり、今は帰宅の途に就こうと昇降口に向かっている。

 窓の外は太陽の光が灰色の雲によってさえぎられ、空から降るしずくが無数の線を描いていた。

 下駄箱を開けて脱いだ上履きを入れる。そして外履きを取り出して履き替えた。

 昇降口のガラス扉を開けて外に出ると、ひんやりと冷たい空気が肌にしみる。

 俺が鞄から折り畳み傘を取り出そうとすると、不意に後ろから声をかけられた。

「せーんぱいっ」

「……何だ」

 雨の日には気分が落ち込みやすいと言われるが、山吹やまぶきには一切その気配がない。今日も元気に満ち溢れている。

 山吹が部活に所属しているという話は聞いたことがないので、おそらく山吹も面談のために登校して、丁度帰宅するところなのだろう。

「友達になってください」

「断る」

「む~」

 不満そうに頬を膨らませても、俺の考えは変わらない。いかなる理由があろうと、俺には友達はいらない。

「他に用がないなら帰るぞ」

「先輩、待ってください。その、あたし今日は傘を忘れてしまって、良ければ先輩の傘に入れて欲しいんですけど、お願いしても良いですか?」

 山吹は俺が手にしている折り畳み傘をチラチラ見ながら頼んできた。

 雨が降り出したのが三十分ほど前なので、山吹が傘を持っていないのは納得できる。

 山吹の家が隣であることを視野に入れれば、俺と一緒の傘に入って帰宅するのは合理的だと言える。

 しかし、大きな障害が一つある。それは山吹が女子だという点だ。

 女子と男子が一つの傘を共有して帰るイベントは、それこそ恋愛に至るステップでありがちなシチュエーションだ。男子が傘を差し出して女子がときめく。そして遂には――。

 ……ダメだな。完全に思考回路かラノベに毒されている。

 現実で相合い傘をしたからといって、恋心に発展するはずがない。実際の女子はもっと複雑で、男子には想像もできない感情を抱いているはずだ。

 だから、俺が深く考える必要はない。

「……まあ、良いぞ」

 こうして、俺の傘を山吹と共有して帰ることになった。

 やはり折り畳み傘は小さく、二人で入るとなるべく近寄っても肩がはみ出してしまう。俺も山吹も、肩の部分に雨が染み込んで制服の色が変わってしまっていた。

「折り畳み傘に二人は無理がありましたね」

 山吹は「あはは」と軽く笑っている。

「先輩も今日が面談だったんですか?」

「気は進まなかったが、面談だったぞ」

 教師も生徒のために面談を実施していると思うが、生徒側にとっては適当に受け答えしてさっさと終わらせたい気持ちが大きい。

 そのあたりの気持ちも考慮して欲しいところだ。

「そうなんですね。あたしも面談だったんですけど、担任の先生に色々訊かれました。中学のときはどうだったかとか、部活には入るのかとか。あたしのことを探っている質問ばかりでした」

「一年だから担任も山吹のこと知らないだろうし、性格を把握しておきたいんだろ」

 俺も一年前のこの時期に同じような質問をされた。どう答えたかは忘れたけれど。

「先輩は何を訊かれましたか?」

「基本的には山吹と同じだぞ。昨年度の様子、学校生活について尋ねられたな。あとは大学や希望職種といった進路に関することも訊かれた」

 昨年度と担任が替わったため、俺自身についてゼロから情報を提供しなければならず、本当に厄介だった。

「結構、質問されたんですね。先輩は将来、何になるって答えたんですか?」

「無難に「まだ決めていないです」って言ったな」

 実際、俺は大学や希望職種についてほぼ考えていない。行ける大学に行って、就ける仕事に就けば最低限は生きていけると思っているからだ。

 どうしたいか希望を言えるほど俺は夢を見ていられない。現実は思いも寄らない事象で溢れているし、希望が現実になる保証は一切ない。

 大事なのは、生きているという事実だけだ。

「何か、思った通りです。先輩って未来に目を向けることが少ないですし」

「そういう山吹はどうなんだ? 将来就きたい仕事があるのか?」

 俺が尋ねると、山吹から意外な返事が返ってきた。

「確か先輩には言ってなかったですよね。あたしは学校の先生を目指してます」

 山吹は気合いを入れるように右手で小さくガッツポーズをする。

 純粋な山吹が学校で生徒を指導している姿を想像する。うん、生徒に振り回されそう。

「悪いことは言わない、やめとけ」

「何でですか。アプリの診断で適職だって出たことだってあるんですよ」

 山吹は気に食わないようで、必死に反発する。

 しかしそのアプリの信頼性はかなり低いのではないだろうか。もしかしたら非適職診断と見間違えている可能性があるな。

「あ、先輩。そこのコンビニに寄らせてください。買いたいものがあるので」

 山吹にそう言われ、オレンジ色が印象的なコンビニ、シイコーマートに立ち寄ることになった。


 ◇ ◇ ◇


 雨で濡れないようにシイコーマートの軒下のきしたで待つこと数分、山吹が傘とビニール袋を手にして出てきた。

「傘、買ったのか」

「先輩との相合い傘も悪くはないですけれど、肩が濡れるとあたしも先輩も体が冷えて風邪を引く可能性がありますから」

 山吹は俺の体調も気遣ってくれたようだ。

 この時期は日に日に暖かくなりつつあるが、気温の変化が大きいため風邪が流行しやすい。体調管理が試される季節と言えるだろう。

 山吹は買ってきたばかりの傘を設置された傘立てに入れ、口を開く。

「ついでに温かい飲み物も買ってきました。先輩はコーヒーと緑茶、どっちが良いですか?」

「緑茶だな」

「相変わらずコーヒー飲めないんですね。味覚が子供と同等レベルです」

 俺をからかいながら山吹は袋から取り出したペットボトルを差し出す。俺はそれを受け取った。

 山吹は俺の隣に並んで、缶コーヒーをリスのように両手で持って飲む。そして「ほぅ」と溜め息をついた。

「……こうやって、雨の日に先輩と一緒にいると、二年前を思い出します」

 缶コーヒーをじっと見つめて、山吹は静かに、けれどはっきりと話す。

 二年前。具体的な日付は忘れたが、八月の夏期休暇中だったと思う。その日は今日のように雨で、湿度が高く蒸し暑かった。

 当時、俺は江部こうべ中学校の三年生で、山吹は二年生。学校では関わりはなかったが、家が隣同士なのでそのときには既に山吹によく絡まれていた。

「あの日、先輩に救われたから、あたしの今があるんだと思います」

 山吹は具体的には言わない。当時の出来事を詳細に思い出すことが無意識のうちに阻まれているのかもしれない。

 それで良い。当時の感情に流されれば、つらくなるだけだ。

 山吹が事細かく説明しなくとも、俺には十分伝わっている。

 二年前、受験勉強に疲れて気分転換しようとしたのだと思うが、俺は傘を差しながら家の最寄りのコンビニであるエイトイレブンに向かっていた。

 途中、道沿いにある小さな公園のベンチで、江部中学校指定の紺色のジャージを着た女子がうずくまっているのが見えた。傘も差さず、ただ雨に打たれて動く気配すらない。

 その姿を見て、嫌な予感がした。心に鋭い刃物が突き刺さったような感覚を覚えた。だから俺は近付いて、そっと声をかけた。

「どうしたら良いか分からなくなって、公園に一人でいたあたしを先輩が見つけてくれました」

 俺に声をかけられた女子はゆっくりと顔を上げた。その顔は、俺のよく知っている人――元気で、しつこく俺に絡んでくる、隣の家に住む一歳年下の女子、山吹だった。

 ただ、そのときは元気さの欠片もなく、顔を上げて数秒後にやっと俺だと気が付いたようで、「あ、先輩……」と小さく言った。

 おそらく、山吹は泣いていた。雨のせいで涙の跡は見えず、薄暗かったせいで目が潤んでいるか確認できなかったが、目の周りは赤く腫れていたのだけははっきりと分かった。

 これは、ただ事ではない。そう感じた俺は山吹の手を取って、無理矢理俺の自宅に連れて行った。

「先輩があたしの手をぎゅっと握って、引っ張ってくれる姿、ちょっと格好良かったです」

「……やめろ。格好良くなんてないだろうが」

「先輩ってば、照れてます?」

「さあな」

 今にして思えば、家が隣なのだから山吹の家に連れて行くだけで良かった。けれど、そのときの俺は思い浮かばなかったらしい。

 山吹を家に上げた後、まず風邪を引かないように風呂に入るように勧め、山吹は従った。着替えは希乃羽ののはに用意してもらったはずだ。

 山吹が風呂から上がった後、俺は部屋に招き入れた。山吹から何があったのかを聞こうと思ったからだ。

「あのときの先輩は本当に優しくて、だから初めて入った先輩の部屋でも緊張せずに話せたんだと思います」

 山吹の言う通り、山吹が俺の部屋に最初に足を踏み入れたのは、俺が山吹を連れてきた日だった。

 俺も山吹も絨毯じゅうたんが敷かれた床の上に座り、俺は静かに山吹の話を聞いたのを覚えている。

 山吹が話した内容は今もはっきりと思い出せる。

 俺の思っていた通り、山吹はつらい思いをしていた。

 山吹は中学一年生の頃からバレーボール部に所属し、その運動能力の高さは同学年の中ではずば抜けて高く、成長するスピードは凄まじいものだったらしい。

 一年生の中心的な存在、そして注目の新人として、学校内だけではなく他校からも期待されていた。その有名度合いは、噂で俺の耳に届くほどだった。

 しかし、一年生の十二月頃から山吹はどうも調子が上がらないと苦悩していたそうだ。それでも、おそらく同じ一年生と比べれば能力は桁違いだったとは思う。

 山吹は悩みを抱えつつも、積極的に練習に励んだ。誰だってスランプに陥ることはあって必ずいつかは抜け出せると自分に言い聞かせて、必死に頑張っていた。

 当時は学校で練習するだけでは足りず、一人でトスやスパイクなどの練習をしていたと山吹は言っていた。

 それだけ練習をすれば、スランプは抜け出せると考えるのが一般的だろう。

 だが、山吹は違った。その後、ずっとスランプが続いたのだ。それも雨の日に俺と出会うまで。

 一年生の十二月に始まったスランプは、八か月経っても抜け出せず、いつしか山吹は同学年の他の生徒に能力面で劣るようになってきていた。

 それがどれだけつらいことか、経験していない俺には分からない。ただ、山吹は「死にたくなった」と表現していた。

 今までの自分はできていたはずなのに、途中からできなくなった。しかも、その理由に心当たりがない。だから山吹は悩んで、つらくなって、あの日、雨の中で一人泣いていた。

 そんな話を聞いた俺が放った言葉はこうだ。

 ――生きていればそれで良い。死ぬくらいつらいなら、他の道を進めば良い。自分が好きなように生きるのが、自分のためだろ。

 山吹に向けた、そして俺自身に向けた言葉だった。

「そして先輩はあたしに向かって言ってくれた言葉は、今もはっきり覚えています。だから、あたしは生きたいように生きています」

「まあ、大事なのは生きているって事実だからな」

 人生なんてつらい出来事が山のようにありふれていて、生きる意味を何度も見失いそうになる。

 それでも、転ぶ度に立ち上がって進んでいるのは、自分にとってのかけがえのない財産だ。

 最終的に山吹はバレーボール部を辞め、高校に入った今でも部活に所属していない。

 まあ、その出来事があった直後から山吹が「友達になってください」と言い始めて、尚更俺が絡まれる羽目になったのだが。

「先輩の優しさがあたしを救ってくれたんです」

「俺は、優しくなんかない」

 俺の行動は、山吹のためじゃない。俺自身が生きるために選んだ道を納得するためだ。

 けれど、山吹は首を横に振る。

「先輩が優しさだと思っていなくても、優しいかどうかは受け取った人が判断するんですよ。だから先輩は優しいんです」

 山吹はもう一度、同じ言葉を繰り返した。

 優しさは他人を思いやる気持ちから起こした行動を指すものだと考えている俺とは違う。ただ、違うからといって反発するつもりはない。

 山吹にとって、優しさとはそういうものなのだろう。

「そういえば、あのときのお礼、まだしていませんでしたね」

 そう言って、山吹は傘も差さずに軒下から出て、俺と正対する。そして、

「先輩、ありがとうございました」

 雨に濡らされつつ、満面の笑みを浮かべるのだった。

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