9. ザンギ少女の部屋

 普段、下校に利用している方面と逆の朝鉄あさてつバスに乗り、二葉ふたばに従って停留所で降車した。先日、デートの際に利用した停留所だ。

 そこから車通りが少ない道を十分ほど歩くと、三階建ての小さなマンションが現れた。

 築年数が経っていないであろうマンションは非常に清潔に保たれていて、管理人が丁寧に手入れしている様子がうかがえる。

 二葉はマンションのエントランスで鍵を取り出し、オートロックを解除する。木製の自動ドアが静かに開き、二葉は中へと入る。続いて俺と山吹やまぶきも中へと入った。

 階段を上り、二葉は『二○二』と番号が書かれた部屋の扉を開ける。玄関で靴を脱いでリビングに通された。

 リビングにはシンプルなベージュのラグが敷かれ、テレビ、テーブル、本棚、植物が置かれている。物が少なくすっきりした印象だ。

 また、部屋に花を思わせる甘い香りが漂っており、少し落ち着かない。希乃羽ののはもそうだが、どうして女子の部屋は甘い香りがするのだろう。

「お茶入れるから、座って待ってて」

 二葉はそう言ってキッチンへ行き、手を動かして準備を始める。

 俺と山吹は二葉に言われた通り、隣同士でテーブルの前に座った。

「先輩、あの植物が何か分かりますか?」

 山吹が部屋の隅に置かれた白い植木鉢に入った植物を指さす。

「……分からないな」

 見た目はただの葉っぱだ。いわゆる観葉植物って言われるものなのだろうが、生憎あいにく俺にはその方面の知識はない。

 ぱっと見ても葉っぱ。じっくり観察しても葉っぱ。まじで葉っぱだ。

「何してるの?」

 そこへ湯飲みを載せたお盆を持って、二葉が現れた。二葉は座ってお盆の上の湯飲みを各人の前に一つずつ置く。

「あの隅に置いてある植物が何か気になっていたんです」

 山吹が端的に状況を二葉に説明した。

「あの植物ね。適当に安いのを買ったから、私もはっきりと覚えてない」

「そうなんですね」

 結論、ただの葉っぱということ以外は何も分からなかった。

「二人とも、遠慮しないでお茶を飲んでよ」

「ああ」

いただきます」

 先程出されたばかりなのに、二葉に催促されて俺と山吹はお茶を口に含んだ。熱くはなく、飲みやすい温度だ。

 しかし、この状況はあれだな。お茶を何杯も飲まされた挙げ句、二葉が「私は宇宙人です」とカミングアウトしたりしないだろうな。

 俺は飲み干して空になった湯飲みを机に置く。そして二葉の方を見た。

「なあ二葉、本当に話しづらいのなら話さなくて良いんだぞ」

 つらい出来事は思い出すだけでもつらい。話し出したら当時の感情に飲み込まれるかもしれない。

 鮮明に刻まれたつらい記憶は、必要がないのなら閉ざしておくのも一つの手だ。

 だが、二葉は首を横に振る。

「ううん、私は二人になら話しても良い、いや、話したいと思ってる。久保くぼは優しいし、リオちゃんは信頼できるから。だから私に話させて欲しい」

「……そうか」

 二葉の覚悟が決まっているなら否定はしない。二葉自身のことだから、最終判断は二葉がするべきだ。

 二葉が湯飲みを持って一口含み、静かにテーブルに置いた。二葉のまとっている雰囲気が変わったのを察して、隣の山吹は姿勢を正し、俺は腕を組む。

 二葉は口を開いて「別段珍しいことでもないと思うんだけど」と前置きをしてから話し始めた。

「私はお父さんとお母さんの一人娘として生まれて、兄弟や姉妹がいないから大事に育てられた」

 二葉の目は俺たちの方を向いていない。多少下向きに、テーブルのとある一点を見つめている。

 また声は普段の二葉からは想像できないほど落ち着いていた。

「物心ついた頃から共働きだったけど、忙しい仕事から帰って来たらお母さんは美味しい料理を作ってくれたし、お父さんは一緒に遊んでくれた。時々叱られたりもしたけど、大事な娘だからしっかり立派に育って欲しかったんだと思う。あの頃の二人は、本当に良い親だった」

 最後の言葉が過去形だったことに、妙な引っかかりを感じる。

「でも、私とお母さんとお父さんでどこかに出かけたり、遊んだ記憶は一度もない。私がお父さんに「お母さんと遊びに行きたい」とお願いしても、笑って「いずれな」って誤魔化されるだけだった」

 極力落ち着いて話そうとしているのか声音に変わりはないが、二葉の表情が徐々に曇る。

 少しずつ過去の感情に引っ張られ始めている。けれど二葉の決意を踏みにじるのは失礼なので、俺はただ話を聞くことしかできない。

「まあ、それも当然だよね。お母さんとお父さんは形の上では夫婦だったけど、私がいないところでは喧嘩ばかりしてた。元から相性が悪いのか、何かきっかけがあったのかは分からない。けど、ほとんど毎晩、私が自分の部屋に行くとお母さんとお父さんの怒鳴り声が聞こえてた。私はそれを聞いきながら、何もできずに布団の中で泣いてた」

 聞いている限り、二葉には責任がないと思う。両親間で何かトラブルがあったのだろう。

 それでも二葉はどこか自分のせいだと思って悲しんだ。俺にはできないから、二葉は心優しい女子だと思う。

「つらくて、どうしたら良いか分からない私を救ってくれたのは、リオちゃんだった」

 不意に名前を出されて、山吹は驚いてぱっと二葉を見る。一方、二葉の視線は相変わらずテーブルに固定されたままだ。

「元気なリオちゃんは私を誘って遊んでくれて、歳が違っても気にせずに接してくれた。私はそれが嬉しかった。家で一人つらくて押し潰されそうな私に友達の楽しさを教えてもらった。当時の私は人と話すのが上手くなくて学校でも友達はいなかったけど、リオちゃんのおかげで頑張って話しかけてクラスでの友達もできた。だからリオちゃんは私の恩人」

 二葉は顔を上げて山吹を見据え、

「ありがと、私を救ってくれて」

 心から感謝の気持ちを述べた。

「えへへ、どういたしまして」

 山吹は口元を少し緩め、照れくさそうだ。

 二葉は喋り疲れたのか、一旦湯飲みを持ってお茶を口に含んだ。

「結局、友達ができて居場所を見つけた私だけど、お母さんとお父さんの仲は悪化していった。以前のように喧嘩する回数は減って、言葉を交わさなくなった。仕事が終わる時間より帰宅する時間が圧倒的に遅くなって、私と顔を合わせる機会が少なくなった。私にとって親は自分たちの都合だけで娘の私を放っておく最低な存在に変わった」

 二葉の表現が直接的で、どれだけつらかったかがひしひしと伝わる。

「そして小学二年生の八月、お父さんがお母さんとは別の女の人と関係を持ったことがお母さんにバレて、激しく言い争いになった。もはや私がいても気付いていなくて、目の前で揉めてた。いつものように私は泣くことしかできなくて、最終的に離婚という運びになって決着がついた」

 八月はちょうど夏期休暇の間だ。ここまでの話を聞けば、もうおおよその見当はつく。

 二葉の苗字がモトウチではない理由。二葉が夏期休暇直後に転校した理由。

 二葉は次に口を開いたとき、俺の予想通りの言葉を放った。

「親権で揉めたみたいだけど、私はお母さんに引き取られることが決まって、苗字が本内からお母さんの姓の二葉になった。でも、既に優しかった頃のお母さんではなかったし、私がお母さんと会話する機会も減った。だから嫌になって高校は遠いところを受験したら受かって、今は一人で暮らしてる」

 二葉は「ふぅ」と一息ついてから、

「長くなったけど、私の話は以上で終わり」

 無理に明るい声を出した二葉は俺たちの方を見る。

 ……この場合、どう反応すれば良いのだろう。

 つらかったねと同情すれば良いのか。または大丈夫だと励ませば良いのか。

 どちらにせよ、二葉の身に起こった出来事は変えられない。だから俺はどちらでもない選択肢を選ぶ。

「……そうか」

 事実を事実として受け止め、そこに俺自身の感情を付随させない。

 二葉にはそれが意外だったようで、目を丸くした。

「……それだけ?」

「何か問題あるか?」

「いや、ないけど、さっぱりしてるなって」

 俺はお茶を全て飲んだことも忘れ、空になった湯飲みを口へ運ぶ。そこで改めて空であることに気が付いた。

「お茶、貰って良いか」

「あ、うん」

 二葉はゆっくりと立ち上がってキッチンへ向かい、すぐに急須を持って戻ってきて湯飲みにお茶を注ぐ。

 俺は湯飲みを傾け、入れたてのお茶を一気に飲んだ。

「……旨いな」

「そ、そう?」

 甘みと同時に僅かな苦みが口に広がる。

 二葉が感じたつらい感情に引き込まれそうだったが、お茶の苦みで誤魔化せそうだ。

 隣では山吹がじっと考え込んでおり、先程からずっと無言だ。二葉はそんな山吹を見て、

「リオちゃんごめんね、こんな話して。困ったよね」

「え!? あ、そういうのじゃないんですけど……」

 山吹は言い淀んで黙ってしまった。二葉の話を聞いて混乱している部分もあるのだろう。

 この調子で深く考えると山吹の気持ちが沈みかねない。

「二葉、悪いが遅くならないうちに帰っても良いか? 妹に頼まれて買い物に行かなきゃならないんだ」

 もちろん嘘だ。

「そ。用があるなら帰って良いわよ。リオちゃんはどうする?」

「あ、あたしも先輩と帰ります。お邪魔しました」

 意図した通り、山吹は俺と帰る選択をする。これで取り敢えず一安心だ。

 ちなみに二葉は丁寧にもバス停まで見送りをしてくれた。


 ◇ ◇ ◇


 朝鉄バスの車内で、山吹はぼーっと窓から外の景色を眺めていた。元気が取り柄の山吹には似合わない光景だ。

 外はすっかり赤くなり、太陽が西の地平線に沈んでいる最中だった。

「先輩」

 山吹は外を見たまま俺を呼ぶ。

「どうした?」

「あたし、よく分からないです。スーちゃんの話を聞いてつらくて悲しかったんだろうなって想像はできますけど、どこか引っかかって完全には理解できないんです」

「それが普通だろ」

 山吹と二葉は仲が良かったとしても、結局は他人だ。見た目も、性格も、もちろん人生も異なる。

 だから相手を百パーセント理解するのなんて不可能だ。

 ラノベなら「お前のことは分かる」とか「お前のことなんて分かる訳ないだろ」とか主人公たちは言うが、実際には単純じゃない。

 相手を理解する行為はゼロかイチかのデジタル信号とは違って中途半端だ。

 聞いた状況から感情を推測はできても実際に相手がどう思ったのか全部を知ることはできない。つまり、一部は分かるけれど、その他の部分は分からない。そんなものだと思う。

 結局、他人にできるのは自分の出来事であるかのように想像することだけだ。

「あたしには兄弟姉妹はいませんが両親がいて、普通に生活できています。でも、これって当たり前のようで実は幸せなんじゃないかなって思ったんです」

 山吹の表情は見えないが、声はいつもと違って控えめだった。

「まあ、父さんか母さん、または両方がいない人にとっては幸せに見えるだろうが、山吹みたいな人にとっては当たり前で何も感じないのが普通だと思うぞ。逆に、二葉のような人にとってもいないのが当たり前だ。当たり前が幸せとは言うが、幸せかどうかは本人にしか分からない」

 幸せの形は百人いれば百通りあって良い。だから俺はぼっちでも幸せなはずだ。

 山吹は頭を動かして俺の目を見る。

「じゃあ、スーちゃんは幸せなんでしょうか?」

 おそらく答えを求めているのではないのだろう。けれど、俺は口を開いた。

「さあな。少なくとも今は友達がいるし、母さんとも離れて暮らしているから、最悪な状況ではないと思う」

 二葉が以前「一人だと寂しくて耐えられない」と言ったのは、友達と一緒にいる時間が落ち着くからだろう。

 現状、クラスのカースト上位に君臨し、友達には困っていないはずだ。放課後は一人でザンギ定食を食べているけれど。

 山吹は「そうですか」と頷いてから、

「では先輩は幸せですか?」

 急に山吹が俺に尋ねるので、ほんの一瞬狼狽うろたえる。

「それを訊いてどうする」

「純粋にあたしが気になっただけです」

 山吹は真剣な表情で俺の目をじっと見つめていた。これは俺の答えを期待している目だ。

 俺は少し迷って、口を開く。

「……幸せではありたいと思う」

 俺が放った言葉は山吹の質問とは微妙に噛み合っていない。どこか自信が持てなくて誤魔化した言葉だ。けれど偽りのない俺の本心でもある。

 山吹は俺の言葉を聞いて、

「先輩、それって……」

 何かを言いたそうにしていたが、すぐに口を噤む。

「……いえ、何でもないです」

 山吹は小さな声でそう言って、再び車窓から外を眺めた。

 俺には山吹が言おうとしていた内容が漠然ばくぜんと分かり、気遣われたのを理解する。

 だから俺は心の中で自分に言い聞かせた。

 自分の選択は間違っていないはずだ、と。

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