第一章. 対価

2. ザンギ少女と手紙

「はい、どうぞ」

 テーブルの中心に置かれたのは、崩れそうなほど山盛りのザンギが乗った大きな皿。

 ザンギは濃いめのキツネ色で、食欲をそそる香りを漂わせていた。

「おいしそ~」

 思わず声を上げる。

 俺の右隣にいる少女は我慢できないのか、テーブルに身を乗り出し、じっとザンギを見つめている。

 ただ、見るだけでは誘惑に勝てなかったようで、気づけば手をザンギに伸ばして一個口に入れていた。

「はむっ。ん~、おいひい~」

「あ、こら。まだご飯と味噌汁来てないのに食べちゃダメだよ」

 俺だって食べたいけれど我慢している。少女だけが先に食べるのはズルい。

「いいじゃん。別に」

 俺の注意を聞き流し、少女は二個目を食べようとザンギの山に手を伸ばす。

 瞬間、

「こら! ダメでしょ!」

 エプロン姿の女性に伸ばした手を軽く叩かれ、叱られた。

 叱られたことに対して落ち込んだ少女は見るからにしゅんとなって、悲しい顔をする。

「そんな顔しないの。すぐにご飯にするから」

 女性はキッチンへと向かって、すぐにご飯と味噌汁を持って戻ってくる。それらをテーブルに置いて、着席した。

 食事の準備が終わったので手を合わせて、

いただきます」

 挨拶あいさつの後、俺ははしでザンギを口に運ぶ。

 口の中に広がる醤油の香り。味は決して濃くはないけれど、ピリッとした辛さがアクセントになっている。

 どこか安心する、いつもの味だ。温かい。

晃弥こうや

 …………何だ?

 どこからか、俺の名前を呼ぶ声がする。

「ねえ、晃弥」

 周囲を確認するが、女性も少女も食事に夢中で俺を呼んでいる気配はない。

 というか、何となくだが、この空間全体に響いているような……?

「…………はあ」

 め息が聞こえたかと思うと、

「ふ~」

 左耳に異常なくすぐったさを感じ、一瞬にして全身にゾワゾワとした感覚が広がって、

 ――がばっ。

 布団から飛び起きた。

「わ! びっくりしたあ」

 周囲を見渡す。マンガとライトノベルがぎっしり詰まった本棚、ノートパソコンが置かれた机。

 見慣れた光景が広がっていた。つまり、ここは俺の部屋か?

 ……なるほど。

「夢か」

 心地良い夢だったけれど、寝覚めは悪い。憂鬱ゆううつな気分だ。

 こんな夢を見たのはおそらく昨日の食堂での出来事があったからだろう。

「晃弥、いきなり起きないでよ。心臓に悪い」

 声を掛けられて、初めて隣にいる女の子の存在に気が付く。

 女の子は俺が寝ていたベッドの横に立って、ふてくされた顔で俺の方をじっと見ていた。

「……悪い、希乃羽ののは。起きる直前に左耳に妙な違和感を感じて気持ち悪かったんだ」

「え? 私のせいなの?」

 …………はい?

 あの左耳の違和感は夢の中の出来事じゃなくて、希乃羽のせい?

 ということは――

「……俺の左耳に何をしたんだ?」

「息を吹きかけただけだけど?」

 どうやら希乃羽の息を吹きかける攻撃によって、俺は眠り状態から解放されたらしい。最悪だ。

「どこの世界に息を吹きかけて起こす奴がいるんだよ」

「ここにいるけど?」

 ダメだコイツ……。

 俺の言葉の意味を一切理解していらっしゃらない。

「……あのなあ。普通に体を揺すって起こすって手はなかったのか」

「いや、やったよ? しかも名前を呼びながら」

 マジか。どんだけ深く眠っていたんだ、俺。

「でも、起きなかったから息をふ~ってしてみた」

「二つ目の段階でそれかよ……」

 もっと他の案はなかったのだろうか。

「彼氏でもない男の耳に息を吹きかけたら、本物の彼氏が怒るかもしれないだろ」

「私、別に彼氏いないし問題にならないでしょ」

「いや、だからそうじゃなくてだな……」

 そういうことをやるのは彼氏にだけにして欲しいってことを伝えたかったのだが、希乃羽は素で分かっていないようだった。

 正直、説明するのも面倒だ。

「というか、まだ彼氏いないのか」

 俺が見ても、希乃羽はかなり可愛いと思う。実際に今までも何度か男子に告白された話は本人の口から聞いている。

 しかし理由は分からないが、告白を受け入れたことは一度もない。それは高校一年生になったばかりの今も変わらないようだ。

「一応、昨日もクラスの男子に告白されたんだけどね」

 希乃羽は思い出したら恥ずかしくなったのか、「えへへ」と笑って頬をいている。

「入学したばかりなのに告白されるとは、希乃羽は幸せ者だな」

「でも、断った。入学したばかりだっていうのもあるし、相手の男子のことも私はあまり知らないし」

 やっぱりか。

 希乃羽は断った理由を述べたけれど、俺にはもっと別の理由があって断ったのだと思えてしまう。もっと本質的な何かが告白を受け入れる障害になっているように思う。

 俺の考えすぎだと良いけどな。

「そういう晃弥はどうなの? 彼女できた?」

 希乃羽は自分が訊かれたから、深く考えず俺のことも知りたいと思ったのだろう。

 けれど、その質問は俺の心の深くまで踏み込んでいて、一気に溢れ出そうになる感情をぐっと押し込めた。

 そして、

「俺は、彼女を作る気はないよ」

 今の気持ちを率直に述べる。

「何か、ごめん……」

 しかし俺との付き合いが長い希乃羽には何か感じるものがあったらしい。謝罪の言葉が届く。

 朝から空気が重い。ここで「気にしなくて良い」なんて気遣う言葉をかけても、尚更空気が悪くなるだけだ。

 だから無理矢理にでも話題を変える。

「ところで、希乃羽は何しに来たんだ?」

「え? ああ。そうだ。朝ご飯できたから早く着替えと準備してね」

「了解」

 一瞬、希乃羽は戸惑ったが、すぐにいつも通りの様子になる。

 先程までの空気はもう存在していない。

「今日の朝食も期待しているぞ、希乃羽」

「うわ、出た。シスコン」

 希乃羽は軽く引いた表情を見せるが、本気で嫌がっている訳ではない。

 俺たち兄妹は今日も平常運行だ。

 ちなみに。希乃羽が作った朝食は最高に美味しかった。


 ◇ ◇ ◇


 いつものように登校して授業を受ければ、あっという間に放課後がやって来た。

 普段であれば特に用がなければ放課後になった途端、俺は帰宅の途に就く。

 主な理由は二つ。

 一つは、俺は帰宅部という名の家に帰ることが活動内容の部活に所属しているから。

 もう一つは、希乃羽と同様に放課後にタピオカ摂取タイムを共にするような友達は俺にはいないから。ぼっちだもの。

 つまり学校にいたところで何もすることがない。

 昨日みたいに鍵を忘れたといった理由がなければ、すぐに家に帰るのがお決まりのパターンだ。

 ただ、今日はその理由がある日となってしまった。

 朝、登校して下駄箱を開けると淡い水色の封筒が入っていて、中の便箋びんせんには可愛らしい丸文字で次のように書かれていた。

『今日の放課後、食堂に来てください』

 封筒や便箋を隅々まで見たが、書かれていたのはその一文だけ。差出人すら分からない。

 せめて宛名くらいは明記して欲しかった。俺に宛てた手紙なのか、他人宛ての手紙が間違って入れられたのかの判断さえつかない。

 前者なら問題はないだろうが、もし後者だったら。ちょっと想像したくない。

 けれど宛名が書かれていない以上、俺が放課後に食堂に向かうしか選択肢はないだろう。

 仮に俺を見て「あれ?」と驚かれたとしたら、正直に俺の下駄箱に入っていたむねを話せば良いだろうし。

 ――という訳で、俺は教室から離れた食堂へと向かっていた。

 俺の左手には例の手紙が握られている。この手紙の内容については深く考えないようにしていたが……。

 これって、やっぱりラブレターだよな。

 放課後に人気のないところに呼び出されている。校舎裏や教室ではなく食堂だからロマンチックさの欠片もないのが残念だが、ほぼ間違いないと見て良いだろう。

 まだ俺宛ての手紙と確定した訳ではないのに、そう考えると妙に緊張してくる。

 ただ、今朝に希乃羽に対して言った言葉は俺の本心なので、俺の返事は決まっている。俺は恋愛の当事者になりたくない。

 けれど、今までの人生で一度も告白されたことはないのだ。こんな俺でも好いてくれるのなら、それは純粋に嬉しい。

 そんな風にあれこれ考えていると、教室から遠いはずの食堂がもう目の前にあった。

 扉の前に立つ。ゆっくりと深呼吸。よし。

 ――ガラガラ。

 ゆっくりと扉を開けると、そこには――ザンギを食べている少女がいた。

 よりにもよって扉から一番近い席で食べている。おかげですぐに目が合ってしまった。

「…………あ」

「…………んあ?」

 俺は何も見なかったことにして、そっと扉を閉めた。

「よし、帰ろう」

 体を九十度回転させて歩き出す。

 瞬間、後ろから猛ダッシュで現れた奴に前に回り込まれて、両手で肩をがっしり掴まれた。ちょっと痛い。

「うぁんでふふは」

「せめて口の中のものを飲み込んでから喋れよ!」

 ニンニク臭いわ! 女子なんだからそこら辺気にしろよ!

 ――もぐもぐ、ごっくん。

「何ですぐ帰ろうとするのよ!」

「そりゃあ少しウキウキしながら食堂に行ってみたら、ザンギ食べてる妖怪がいたから襲われる前に逃げようとしただけだが?」

「誰が妖怪よ!」

 それだけ体が細いのにザンギ定食特盛り食べてるんだから、ある種妖怪だろ。胃袋どうなっているんだ。

「とにかく、お前はさっさと」

「お前じゃなくて二葉ふたば翠怜すいれん

 俺に名前呼ばれたら気持ち悪いって言う割には、何で名前呼ばないと文句言うのか。不思議だ。

 まあいいや。

「……二葉はさっさとご飯食べ終えてくれないか。俺はこの後食堂に用がある」

 少なくとも、俺が告白されるところを二葉には目撃されたくない。

 恥ずかしさもあるが、何より二葉のことだから「久保くぼが告白されるとかマジウケる~」ってバカにされそうな予感がする。

 それだけは絶対にご免だ。

「その用って一体何なの?」

 食堂から人払いならぬ二葉払いを手早く済ませようと思ったのだが、二葉は妙なところで俺に絡もうとする。

 だが、正直に答えたら二葉にからかいの道具を与えるだけだ。ここは嘘をついて切り抜けよう。

「今日は大変体を動かしたい気分になったから、ストレッチをして筋肉を温めようと思ったんだよ、あはは」

「素晴らしいほど棒読みなんだけど……。てか何でストレッチ?」

 俺には演技の才能がないようだ……。

「あ、その水色の封筒って……」

 げ。一番嫌な奴にラブレターが見つかってしまった。

 と思ったのだが、

「手紙読んで来てくれたんだ」

「…………は?」

 一瞬、理解が遅れる。

 今、何て……。

「その、この手紙、お前が書いたのか?」

 俺は左手に持っていた封筒を見えるように胸の前まで差し出す。

 宛名不明、差出人不明のラブレターだ。

「そう、書いたのは私。久保に話したいことがあったから」

 ラブレターの差出人は二葉翠怜。そして間違いではなく、俺に宛てたものらしい。

 おいおい、マジかよ。昨日初めて話したばかりだぞ。

 まさかコイツが。

「……俺のこと、好きなの?」

 既に性格が残念なのは知っているし、ザンギ大好き少女なのも知っている。

 けれど見た目は可愛い。クラス、いや学年でもトップレベルだろう。

 そんな奴が俺のこと好きだなんて――

「……は? 何言ってんの?」

 ある訳なかった。

 ですよねー。

「……いや、今のは忘れてくれ。ただの妄言だ」

「忘れるとか、普通に考えて無理でしょ」

 真顔で返された。

「で、本題入っていい?」

 俺は引かれるか馬鹿にされるか覚悟していたのだが、二葉は意外にもあっさり話題転換しようとする。

 俺としてはありがたいが、二葉らしくない。

「……ねえ、無視しないでよ」

「ああ、悪い。あっさりと流されたのが意外だったから……」

「私が早く話を終わらせたいだけ。ザンギ冷めちゃうし」

 俺よりザンギの方が上ですか、そうですか。

 俺、人間なのに料理にすら勝てないんだな……。

「それで、久保は明後日の日曜に何か予定ある?」

「ない」

「さすがエターナルぼっち、即答するのね……」

 俺は『エターナルぼっち』の称号を手に入れた。何の役にも立たなさそう。

「なら日曜日、私とデートしなさい」

 不意に二葉の口から衝撃の言葉が放たれた。

 は? デート?

「……やっぱり俺のこと、好きなの?」

「違うって言ってるでしょ!」

 二葉は必死に否定しているが、デートという単語を聞いたら好かれていると考えるのが普通の男子の思考だ。

 好きでもない相手をデートに誘う理由はあまり思い浮かばない。

「何かしらの勝負に負けて、罰ゲームとして俺とデートして来いとでも言われたか? そんなの無視すれば良いのに」

「違う。これは私自身の問題だから」

 俺とのデートが二葉自身の意志でないなら止めようと思ったが、どうやら違うらしい。

「昨日、私がザンギ好きだってこと隠して欲しいとお願いしたじゃん。でも、私から一方的にお願いしても久保は秘密を守るだけの理由がない。だから交換条件として、私がデートしてあげる。久保にとっても嬉しいでしょ?」

 上から目線なのが気に食わないが、何としてでも俺に秘密を守って欲しいらしい。

 というか、二葉は交換条件の意味を理解しているのだろうか? 俺が条件を提示していない時点で交換条件とは言えない。

 それを抜きにしても、元から俺は二葉と交わした約束を破る気などこれっぽっちもない。

「俺は仮にデートしなかったとしても、誰かに言うつもりはないぞ」

 そもそもぼっちの俺が言ったところで信用されない可能性が高い。「どうせアイツの言うことだから」と無視されると思う。

 そんなリスクを負ってまで言いふらそうと思うほど、俺は心が強くない。

「別に久保がどう思っていようと、私の気が済まないの。だからデートに付き合いなさい」

「そう言われてもな……」

 女子とデートすることが嫌な訳ではない。むしろ憧れている面もある。

 だが、どうしても気が進まない。俺の認識では、デートは恋愛関係と結び付いている。

 それは俺の勝手なままで、デートを正当に断る理由にはならないのは分かっているのだが。

「明後日は用事ないんでしょ? なら迷う理由ないでしょ。ぼっちの久保が一生のうちにデートできる機会はたぶん今回だけだよ?」

 さらっと二葉は失礼なことを言った気がするが、それに反応できなかった。

 二葉は俺の事情を知らないし、俺には他に断る理由がない。

 結局、俺に残された選択肢は一つしかなかった。ここは覚悟を決めるべきだ。

「……分かった。付き合うよ」

 俺がそう言うと、二葉は嬉しそうな表情を浮かべた。それを見て、俺は少しだけ気が楽になる。

 その後、二葉に「後で詳細送るから、LIMEライムアカウント交換しなさい」と言われ、俺のスマホに家族以外で初めて女子の連絡先が追加された。ちなみに表示名は『スイレン』で、画像は睡蓮すいれんの花の写真。何のひねりもない。

 二葉はアカウントを交換し終えるとすぐに食堂へと戻っていった。廊下には俺だけが残される。

「女子って強引だな……」

 ぽつりとつぶやいて、俺は帰宅しようと昇降口へ向かった。

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