第2話 ずっとあなたを見ていた

《2012年人類滅亡説》。


 それはマヤ文明において使用された暦の一つで、長期暦が2012年12月21日から23日頃に一つの区切りを迎えるとされることから連想された、終末論の一つである。



 西暦2012年12月25日。

 人々は、そんな説など最初から存在しなかったかのように、クリスマスという名の記念日を楽しんでいた。


 だが、その日――世界は一変する。


 後に判明したことだが、人類が住んでいる世界と、《魔界の門》と呼ばれるものが世界各地で繋がり、《悪魔》という怪物たちが現世へ大量に押し寄せたのだ。

 その悪魔と呼ばれるものには様々な種類がいて、創作上のものに似ている姿、動物に似た姿、見るもおぞましいものや、人間に似た形をしているものもいた。


 当時の人々はこのような事態を予想などしているはずもなく、大きなパニックを巻き起こした。安全な場所を求めて土砂崩れのように彷徨う暴徒。恐怖心で身が固まり、一カ所に集まってしまった人間は、悪魔にとって恰好の獲物だったに違いない。


 建物が崩壊し大地は裂けた。海は汚染されて飲み水は一時的に貴重なものとなる。

 悪魔はその物量に物を言わせ、侵略の手を次々と広げていった。


 痩せ続け、疲弊していく大地と人々。

 草も木も花も動物も、すべての命が等しく腐り朽ちていく。

 世界は赤く染まり、空虚で退廃的なものへと変貌していった。


 もちろんその間に、人類が何もしなかったわけではない。持ちうる限りの軍事力を総動員して戦った。しかし、現代科学の軍事兵器では悪魔の力に対応しきれず、戦いはそう長くもたなかった。そんな中、世界各地で悪魔と対等以上に戦う者たちが現れる。


 彼等は、科学でほとんどの物事が証明できるようになった現代で、魔法や魔術などの超自然現象の存在を信じ、決して社会に認められることはなかったが、密かに己の力を研鑚していた者たちだった。



 その力は《魔術》と呼ばれ、それを行使できる者を人々は《魔術師》と呼んだ。

 ――《魔術》。魔素を操る術。またの名を《魔操術》。それは世界の理を改竄する力。



《魔術》を発動するために必要不可欠なものとして、《魔力》がある。

《魔力》とは、《魔術》を発動する際に源となる力だ。


《魔力》は空間に存在する《体外魔素》と、術師の身に存在する《体内魔素》との二つに分けられる。空間には元々微細な《魔素》が存在していたが、悪魔の侵入によって《魔界の門》が開いたことにより、大量の《魔素》が空間に流れ込み、魔術師の扱える《魔術》のレベルが格段に上がり、悪魔にも対抗できるだけの力になったのだ。


《魔術》には多種多様なものがあるが、根本的には等価交換で成り立っている。



 人類は魔術師に教えを乞うことによって、多くの犠牲を払いながらも、魔術という悪魔に打ち勝つ術を手に入れた。


 十年の時を経て、魔術を次世代の技術として確立することに成功した人類は、ついに悪魔の撃退に成功する。世界を覆う灰色の霧は晴れ、灼熱の日差しが大地に降り注いだ。


 それに伴い、世界各地に出現した《魔界の門》は完全に消滅し、再び悪魔が侵入してくることはなかった。人々はそのことに歓喜で震えた。ようやく世界は元の姿に戻ったのだと。誰もが悪魔を滅ぼすことで、再び世界は元の状態に戻ると信じていたが、現実はまるで違った。悪魔を退けた人類に残ったものは、悪魔との長い戦いの中で変わり果てた大地と、精神が衰弱してしまった人々。


 そして、どこか心が欠けてしまった、悪魔すらも倒しうる、《魔術》という大き過ぎる力を得た人類だった。



 魔術が全世界的に技術として確立されて、およそ五十年。


 西暦2072年現在――魔術を扱える人間は全世界の人口の七割とされていたが、その中でも特に強い力を持つ魔術師は、三割に満たないとされている。

 世界の人口も、先の悪魔との戦争の影響で五十億人にまでその数を減らしていた。


 強い力を持つ魔術師は、どの国でも重宝される。

 なぜなら、強い力を持つ魔術師一人で、一国の軍事力に大きく差が出るからだ。


 魔術は軍事力だけでなく、悪魔との戦争で失ってしまった文明や技術を補うことができる。新しい世界では、魔術の才がその人間の存在価値を示す、重要な要素となったのだ。それにより、残り三割の魔術を使えない人間は、過去の世界とは生活や文化や価値観がすっかり変わった地球で、過酷な生活を強いられた。


 魔術が使えない人々というのは、《魔力神経》を持たない人間のことを言う。


《魔力神経》とは、魔術師が体内に持つ魔素を用いて魔術を発動するための、目に見えない特殊な神経である。この透明な神経が太いほど優秀な魔術師であるとされ、発動する魔術の効果に大きく関与してくる。要は《魔力神経》とは魔力の循環器系だ。


 魔力を流し込むだけで、魔術は発動することができる。

 つまり《魔力神経》を持たない人間は、魔術を使うことができない。


 生まれながらにして《魔力神経》の太さは決まっており、それは遺伝子に左右される。

 しかし《魔力神経》を増強する方法が、世界にたった一つだけ存在することも確認されている。だが、その手段は違法であり、政府によって秘匿されている。そのため民間人が知ることはない。なぜならその手段は文字通り、悪魔に魂を売る行為に他ならないからだ。


《魔力神経》は、本来は人間の体内で眠っているが、特殊な鍛錬によって目覚める。

 現代では一時的に魔界と繋がったことによって流れ込んだ、空気中に漂う魔素を浴び続けることにより、十二歳になる頃には、鍛錬なしに自然と扱えるようになる。


 その時点で魔術を使えない者は、《魔力神経》を持たない『欠陥品』と見なされた。



 そして現在――――――

 各国の政府は独裁政権を行い、上の人間が下の人間への激しい搾取を繰り返している。


 そこには、一度壊れた世界を元の姿に戻したいという思いもあったが、実際のところ、皆自分が一番大事なのだ。自分さえ良ければそれでいい。そういう考えの持ち主が多い。自分の下にいる人間がどうなろうと、結局は構わないのだ。上に立つ者は地べたに這いずる虫を踏み付けても気に留めない。せいぜい靴が汚れてしまったと不快に思うだけだ。


 人類は魔術という強すぎる力を持て余し、その心は醜く汚れきってしまった。

 政府の圧制により、少しずつ国民に不満が溜まっていき、不満の種が爆発。

 各地で魔術による犯罪が横行し始める。


 有能な魔術師の子供はまた、有能である場合が多い。

 それがこの世界で格差を作っているのだろう。


 魔術を扱うことができない人間は蔑まれ、ついには奴隷として扱われ始めた。

 少し前までの人類には考えられない光景だ。日本で奴隷など久しく見たものじゃない。だけど、そんな別次元のような世界が、確かにそこには広がっていた。


 悪魔を祓ったところで、もうこの世界は元に戻ることなどできない。

 命は弱さを許さない。ここは力を持つ者がすべてを手にし、すべてを支配する世界。


 ★ ★ ★ ★ ★ 


 この地域では、随分と大きい和風の自宅にある一室で、神崎遥はとある資料に目を通していた。ここ最近、この家から二十キロと離れていない《スラム街》付近で、頻発に強盗事件が起きている。


《スラム街》付近では珍しいことではない。ただ、一ヶ月で同じ少年に何回も富裕層が襲われ、警察の方に苦情が、軍の方に通報があったのだ。


 現代では、警察や軍の活動は以前と異なったものになっている。


 悪魔の襲撃があってから、各国では警察の規模が小さくなり、それに応じて軍の規模が大きくなった。国民の生命、身体、財産の保護を、以前と同じく警察が担当し、犯罪の予防、鎮圧、捜査、被疑者の逮捕、公安の維持は、新たに軍が引き受けることになった。


 目撃情報によると、その少年は目にかかるくらいの艶のある黒髪に、一切の光を失った黒い瞳、背は低めだが体格は割と優れているらしい。どうやら武術のたしなみがあるらしく、拳銃まで所持しているそうだ。


「何を読んでいるんだ?」


 遥が思索にふけっていると、背後から男が話しかけてきた。


「……ん、父さんか。軍から私宛に依頼が来ていたのよ」


 遥に声をかけてきた男は、身長190センチほどの巨漢で、浅黒く引き締まった頬にはまばらに生えた無精髭があり、薄手のシャツからは盛り上がった筋肉が見て取れた。


 彼は遥の父親で、名を神崎士道という。

 士道は軍の《対魔術犯罪科》に勤めている。軍の中では位の高い《中将》の一人でもある。この辺りでは一番階級の高い軍人だ。


「やはり、お前には危ないんじゃないか?」


 歳のわりに若く逞しく見える、士道の顔は少し不安げだ。


「私は父さんの手伝いをしているだけで、正式に軍に所属しているわけではないわ。私が無理を言って、私の実力でさばける案件を回してもらっているだけ」

「確かにお前は強い。正式に軍に所属しているわけじゃないのに、《上等兵》扱いをされているくらいだからな。それでも高校生活とのかけもちはつらくないか?」


 遥はこれまでも何度かこうして、士道に危険なことをするなと示唆されていた。


「私が父さんの手伝いを始めてもう二年。いい加減慣れてきたわ。それに今は学校も夏休みで暇だしね」

「でも、最近は一人で行動しているのだろう? 俺は心配なんだよ」

「心配……ね。その必要はないわ」


 遥は士道から顔を背ける。


(見せかけの優しさで、私に情けなんてかけなくてもいい)


 会話を切り、遥はまた資料に目を通す作業に戻る。

 が、気になる点があり、再び士道に自分から話しかける。


「ねぇ、この資料を見てちょうだい」


 遥は士道に資料を渡して続ける。


「この少年は一ヶ月前から出没しているわ。そして、一か月前といえば……」

「世間には公開されていないが、暗殺一家――《日向家》への、襲撃日か?」


「うん。もしかしたら、誰か生き残りがいる可能性がある。気になって、さっき父さんのパソコンを使って調べたのだけど、日向家の長男――日向流斗と《スラム街》の少年には、身体的特徴に似通ったところがあったわ。それにしても、まさかこんなにデータがあるとは思わなかったけれど」


 士道が資料をよく見ると、そこには日向流斗について詳細なデータが示されていた。


「陽の当らぬ影に生きる暗殺一家が、《日向》の姓を冠するとは、皮肉なものだな」


 日向流斗、十四歳。身長160センチ前後。推定体重55キログラム。

《第一級暗殺者》――日向陣ひゅうがじんの息子であり、幼少の頃から父に特殊な修練を積まされている模様とある。


「いつも言っているが、俺のパソコンを勝手に使うな。あれには重要な書類や一般人には見せられないようなものも入っているんだぞ」

「……ごめんなさい」


 遥は素直に頭を下げた。

 だが、士道は知っていた。遥は一応謝っているように見えるが、下を向いている顔がまるで反省などしていないことを。彼女はそういう性質である。


「過ぎたことはいい。資料が多いのは、その少年が昨年から父親と共に行動しており、一人で依頼をこなしている姿も目撃されているからだ」


 遥は黙って、士道の話を興味深そうに聞く。


「武術のたしなみがあり、拳銃を所持している……か。俺は一度だけ、その少年の父親である、日向陣という男と戦ったことがある。確かあいつは、肉体強化系の魔術を併用した古武術と、拳銃やナイフにワイヤー等といった小道具を使っていたな……」


 士道は昔のことを思い出しながら、懐かしむように語った。


「ということは、この少年が日向流斗である可能性は、ますます上がったということね」


 遥は自分の考えが、より確信に近づいたのを感じ取った。


「それにしても、相変わらず遥は目の付け所が良いな。しかし、この少年が日向流斗である可能性が高い以上、お前を行かせるわけにはいかない」

「いいえ、むしろその逆よ」


 遥の顔は少し楽しげで、士道はいっそう不安にかられた。


「逆……とは、どういう意味だ?」

「私がこの依頼を断れば、この案件は他の《一等兵》に回されるでしょう。並の《一等兵》ではこの少年を相手にできないわ。最悪の場合、少年の反撃で殺されちゃうかもね」


「それをお前なら、対処できると言いたいのか?」

「答えはイエス。もちろん可能よ。それに私は、彼に少しばかり興味があるの」


 遥の顔からは、明らかな余裕が見て取れる。


「なぜ、そう言い切れる?」

「私が彼のことをよく知っているからよ」


「オイオイ、お前……いつの間に、暗殺者なんかと知り合いになったんだ?」

「ん~? 知っていると言っても、こちらの一方通行よ。片思いね。悲しいわ。ま、あの子は仮にも暗殺者だからね~。姿を見られたと知ったら、私を殺しにくるじゃない?」


「向こうはお前のことを知らないということか」


 ほっ、と士道は安堵したが、


「残念なことにね。私は一年前から、あの子のことを見ているというのに……」

「………………は?」


「初めて見たときから、気になっているのよね。どこかで惹かれ合っている、心が互いを求め合っている気がしてならないの。まだまだ未熟だけど、戦闘のセンスはあると思うし、幼いぶん成長の余地もある。今なら、まだ生き方を変えることも――――」


 ――――コンコン。

 遥の言葉を遮るように、遥と士道のいる部屋の扉が軽くノックされた。


「入れ」と士道が言うと、「失礼します」という声が扉の外側から聞こえ、扉を開けて一人の女が入ってくる。


 その女は女性のわりに背が高く、髪は短く綺麗に切り揃えられていた。


「香織さん、どうかしたの?」


 遥が問いかけると、香織は軽く遥に会釈をして士道の方を向く。


「旦那様、そろそろお仕事の時間です。準備をなさったほうがよろしいかと」

「もうそんな時間か。悪いけど、俺は仕事に行くよ。遥、その少年のことはお前に任せよう。だが、くれぐれも無茶はするなよ」


 それだけ言うと、士道は香織と共に部屋の扉に向けて歩き出す。


「分かったわ。いってらっしゃい」


 遥がそう言った後には、もう彼女以外、この部屋には誰も残っていなかった。


 立花香織たちばなかおりは神崎家に仕える使用人である。先程は士道の後ろについていったが、普段は遥に仕える専属メイドのようなものだ。


 士道は仕事上、家を空けることが多いので、遥が八歳のときに交通事故で死んでしまった母の代わりに、香織が昔からずっと遥の面倒を見ていた。


 遥はしばらく資料にある流斗の写真を眺めていたが、やがてそれを机の上に置き、部屋の扉へと向かう。


「さぁ~て、そろそろ私も行こうかしら。果たして、この歳ですべてを失った少年というのは、その心の内に何を抱えているのかしらぁ~」


 遥の顔は、どこか自分と似た境遇の少年に、何かを期待しているように見えた。


 そして、先程遥が士道に話したことが事実なら、彼女は未熟とはいえ仮にも暗殺者である流斗相手に、自分の気配を一切感じさせず、何十日、何百日と、ずっと観察していたことになる。それは同時に、遥の実力が流斗の実力を圧倒していることを示していた。

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