二酸化炭素

「随分と寒くしているんですね」

 大学三年生になり、地球環境科学の第一人者であるT教授の元へ配属された。灰色のポロシャツとカーキ色のパンツを履いた、四十歳そこそこの先生は部屋の最奥に鎮座し、モニター越しに僕へ視線を送った。

「脳が最大のパフォーマンスを発揮するにはこのくらい適温なんだ。今年の配属は何名だ?」

「僕を含めて九名です」

「うち女学生は?」

「二名です。それがどうかしたのですか?」

 T教授はあごで手前の席に座る女性を示した。擦り切れた白衣を見る限り、院生もしくは過酷な卒業研究をこなす大先輩であることはわかった。彼女は寒さを凌ぐためブランケットを膝にかけて、カーディガンを羽織っている。

「女性は冷え性でよくない。脳を働かせる前に体が先に参ってしまうからな」

 T教授が笑うとブランケットを羽織った女性は中指を突き立てた。ちょうど僕のいる角度からは見えて、教授のいるところからは見えない。死角を上手くついた状況説明だった。

 僕は一瞬で察知した。T教授は優秀な大学教授の例にもれず、独りよがりのサイエンティスト。この研究室では自ら学ばなければ留年あるのみ。

 研究室中央でミニプラントが轟轟と唸っている。学部生が数人で実験をしているらしい。口々にCO₂の水溶液中への溶解がどうとか加熱分解がどうとか触媒の比表面積がどうとか議論を熱くかわしている。熱気と室温が見事に中和しているので、あながちT教授の発言もまったくのでたらめではないと思った。

 T教授は僕に尋ねる。

「現人類にとって最大の課題とはなんだ?」

 僕は答える。

「LGBTです」

 T教授は声を出して笑った。

「そうだな。人格の個性としては大いに認められるし、差別はするつもりはない。しかしながら人間という種を存続させるためには増えすぎては危険だ。同性間で子孫を残せるのであれば話は別だがね。しかし、この四つをひとまとめるにするのは少し雑すぎるとは思わんか?」

 僕はしばらく考えた。

「レズビアン、ゲイ、バイセクシャルのいずれも精神性、いわゆる性的趣向の問題ですが、トランスジェンダーだけは遺伝子素因ですね。心と体の不一致です」

 何の議論をしているのか、意味不明だった。そもそもナイーブな問題を初対面の人間に提示するのはデリカシーがない。僕がゲイだったら中指を突き立ててセクハラで訴えているだろう。などと考えてみたものの、冷静になってみると自分自身で人類の最大の課題をLGBTと答えただけだった。

「まあ、我々はそのような人類もまとめて救済するための研究を日夜しているわけだ。シス、トランス共に救うための努力だ」

「僕も日々体感していますよ。地球が風邪をひいているなんて生易しい表現では包み隠せなくなってきました」

 僕がこの研究室配属を希望したのは、偏に二酸化炭素問題の解決に従事したいと思っているからなのだ。

「そうだ。君は優秀だ。共に地球の気体環境を数百年前に戻す技術を開発していこう」

 T教授の語気は強まる。

「二酸化炭素と産業廃棄ガスにより地球を覆う薄い皮膜が出来上がっている。その皮膜は太陽光を遮り、地球寒冷化の原因となる。ここ百年の気温の変化を見てみろ。右肩下がりに徐々に下降の一途を辿っている。このままでは南極大陸は肥大化し、日本列島はユーラシア大陸と地続きになってしまう。かつて暖かかったころの地球を取り戻すため、我々は二酸化炭素の排出量を減らさなければならないのだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る