漸近線

 昔からトンボを捕まえるのが上手かった。膝まである固い雑草をかき分けて、川岸に並ぶ細い竹木まで息を殺して近づく。指先をくるくると廻してトンボに眩暈を起こさせて、素早く羽を摘まむ。

「俺は好きな瞬間に3秒だけ時間をゆっくりにすることができるんだぜ」

 同級生にいつもそう自慢をしていた。子ども特有のほら吹きだ。田舎から引っ越してきた俺にはできて当然のことが、都会生まれの子どもたちには超能力に見えていたのだ。

「先生はどんな修行を積んだんだ」

「別に大して努力したわけじゃないさ」

 同級生は俺のことを先生と呼んだ。不思議な力があると思い込んだ子たちは俺を敬った。二次性徴も早かったせいで身長も高く、クラスの中心的な存在だった。なにをやってもなんとなく上手くいって努力も忘れて、尊大になっていった。

 ところが、中学生になるとくだらない遊びよりも勉強や恋愛が大事になる。俺はくだらない超能力で持て囃された小学生の頃とは打って変わり、寂しい生活を送っていた。かつて先生と俺を呼んでいた奴らもクラスが変われば俺のことなど意に介さなくなっていた。

「おい、田舎もん。邪魔なんだよ」

 そういって因縁をつけられる生活だった。

 隣地区出身の同級生は俺が先生と呼ばれていたことなど知らないが、田舎出身だということは知っていた。このときはわからなかったが、小学生の頃の同級生が悪い噂を流していたのだ。調子に乗っていた頃の嫉み、妬みが表面化したのだ。同級生が俺を慕っていたのは張りぼての力のおかげだった。神童という言葉があるが、ただ成長が早かっただけ。俺もそれに当てはまった。

 中学生も後半になると周りはどんどん大きく逞しくなっていく。そして、暴力も受けるようになった。最初は腹や背中。次第に顔まで膨れ上がった。財布はいつも空だった。

 ただ悔しくて震えていただけだった。こんなに簡単に人生が落ちぶれるとは想像できていなかった。強烈な落差は簡単に心を壊していく

 生きていてもつまらない。そんな真っ暗な生活を打破するには死ぬしかなかった。

 どんな死に方がいいだろう。学校の屋上から飛び降りようか。教室で首を吊ろうか。薬を飲もうか。溺れようか。

 そう考えてみたが、どれも苦しみが伴う。そのときはじめて、死ぬとは苦しいことだと理解した。途方に暮れた。何も手に着かず、放心状態で学校へ向かった。

あの時はまっすぐ歩いていたはずだった。ところが、気がつくと目の前に車があった。

 ああ、死ぬんだ。

 そう思ったとき、世界は止まって見えた。トンボを捕まえる瞬間に時間がスローになったのと同じ。フロントガラスに映る自分の顔が瞬きをした。その後ろで運転手が何かを叫んでいる。ハンドルは左に切られ、車体が俺のすぐそばを掠めていった。

 飛び出てきた運転手に怒鳴られた。ところが、俺の顔を見た途端に心配された。車にはぶつかっていないのに瞼が大きく晴れ、頬には青あざがあったのだ。事故以前の問題だった。俺は車に乗せられて病院へ向かった。その途中、運転手の男性は色々と話しかけてくれたのだが、俺の心を支配していたのは、死ぬ瞬間なら自分は超能力者になれるという奇妙な興奮だった。


 それからは自分に超能力があると信じることにした。死とスローには密接な関係があるだろうと予測はできたし、確信めいてもいたが、根拠が足りなかった。まだたったの一回しか体感していないからだ。

 自分が死なずに死に近づく方法を探した。死んでしまっては確証を持ったとしても後の祭りなので、まずはとてつもない恐怖を感じてみようと思った。

 決行はすぐにできた。俺をいじめるクラスメイトを相手に喧嘩を仕掛けたのだ。いつものように取り囲まれたとき、俺は全員に向かっても唾を吐きかけた。そしてポケットに入れた果物ナイフで殺してやると全力で叫んだ。案外、本気で思っていたこともあって真に迫る演技だった。クラスメイトは頭に血が上ったのか、俺を締め上げようとした。

 怖かった。そして、殴られる瞬間世界はスローになった。俺は少しだけ動くことができて、一度だけ拳を避けた。それに驚いたクラスメイトは余計に増長し、いつもに増して残酷な暴力を続けた。その間、飛び散る血しぶきを一滴ずつ見送った。確信に近づいた。


 次の日から俺は一週間ほど入院した。足の骨が折れたのだ。学校はその日以来行くことはなかった。毎日、母親が見舞いに来た。こんなになるまで放って置いた自分を責めていた。しかしながら、俺には悲しい気持ちはなく、むしろここまで追い込まれたおかげで新しい感覚を楽しむことができたという感謝の気持ちがあった。ひたすらスローモーションの世界に浸っていた。

 

 骨折が治ってすぐに街を出歩いた。死の寸前こそがスローモーションを感じられると確信していたが、首吊りや溺死は苦しみがスローモーションになってしまう可能性があり嫌だった。一方、人間には落下の恐怖が本能的に備わっていると本で読んで知っていた。確信を得ていた俺は落下の寸前を体験すれば、痛みを感じることもなくあの世界が味わえると夢中になっていた。だから高い場所を探した。余りにも高所だと立ち入ることは難しいが、低すぎても物足りない。様々な場所を巡った。

ようやく見つけたのは古いオフィスビルだった。15階建ての建物が二つ並んでいる。ほとんど誰も利用していないためか、屋上は開放されていて、誰でも入ることができる状態だった。

 俺はその二つのビルの間を飛び移ることにした。幅は三メートルほどだった。助走をつければ飛べるだろうが、助走をつけられるスペースはほとんどなく、死と隣り合わせだった。覗き込めば薄暗い路地が見える。ファンがごうごうとなっていて、生ゴミと煙草の臭いがした。手の平は湿っている。

 気持ちを固めて、飛んだ。

 腰から下がぶわっと無くなったような感覚がした。落ちたら死ぬ。そう思ったら時が止まった。足元を見た。頬がにやけるのがわかった。スローモーションなのだ。たった三メートルを数分間漂っていた気がした。着地した時には自分が生まれ変わったような気さえした。

 そして、復路。一度成功したこともあって自信はあった。

 だから、助走は敢えてしなかった。

 届かないとわかっていて飛んだ。

 俺はビル狭間に落ちた。

 わずかに前進しながら落下する。隣のビルの窓を数えた。1枚、2枚、……3枚…………4枚。だんだんゆっくりになっていく。俺は歓喜した。ついに永遠のスローモーションを体験することができる。次の窓はなかなかやってこなかった。何時間も待ってようやく来る。それがどんどん長くなった。全身を幸福が包んでいるのがわかった。

 後数センチで頭はコンクリートに打ち付けられる。

 そこで世界が停止している。


 ほら吹きじゃなかったのだ。俺は超能力を持っていたのだ。

 俺は例外だった。特別だったんだ。


 人生は正しく死ぬのがいい。大切な人や事に囲まれながら幸福に死ぬと、きっとその瞬間が永遠に続く。幸福が終わることなく続く。

 死は誰にでも平等に訪れる。俺は今までそう教わって生きてきた。学校で習ったわけではない。生きていく中で至極当然に理解してきた。今まで出会った人間には永遠に生きている人はいない。俺が死ぬまでにしなないだけ。

 ある意味で、俺はもう死んでいる。しかし、死と触れ合うことはない。

 生と死の漸近線をぎりぎりに滑空し、永遠に落ちない。物理的に。


 夢が叶った喜びを、永遠に感じ続けることができてよかった。

 果てしなくハッピーだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る