苦い夢
目の前には三段重ねのビーフステーキ。
隣にはプレートいっぱいに並ぶ伊勢エビ。
琥珀色に輝くシーフードたっぷりのパエリア。
すべてが僕の物で何をどの順番に食べてもいい。両手にフォークを持って縦横無尽にテーブルを食い散らかす。ところが、何を食べても苦い。おいしそうな見た目をしているのにひたすらに苦いのだ。これまでの人生でこんな味に記憶がない。不快感が喉を通り抜けると僕は目を覚ます。
ここ数週間、毎晩のようにこんな夢を見る。仕事がうまくいっていないストレスだろうか。最近は他人に振り回されて自分の仕事が全然できていない。夢の中でくらい楽しい思いをさせてくれてもいいのに。こんな夢を見せているのは自分自身だ。何か潜在的な不安がそうさせているのだろうか。
僕はこんな毎日を繰り返すのが嫌になり、夢について詳しい占い師のもとへ向かった。
ショッピングモールの隅に数人の占い師がひっそりと並んでいる。暖簾をくぐると、大きな宝石の指輪をした老婆が座っていた。髪の毛を持ち上げてひとまとめにしている。目の前には小さな水晶が置かれていた。
僕は軽く会釈をして椅子に座る。
「あなたは人間関係への欲求を感じていますね。私にはわかりますよ。活発な友人関係の中であってもひどい孤独に苛まれているのではないですか」
ゆったりとした口調でそう語りだした。不意に言われたので、ついそうですねと答えそうになったが、自分の悩みを解決するためには本当の気持ちを話したほうがいいだろう。
「うーん、仕事のストレスはありますが、人間関係は良好ですよ。最近は美人な恋人もできてプライベートは順風満帆なんです。生活も苦しくないし、そろそろいい部屋に住み替えようかなんて思っているところです」
占い師は怪訝な顔をしている。おそらく、誰もが少なからず人間関係への不安や欲求は感じているため、誰に対しても同じことを言っているのかもしれない。それを導入に相手の心理状態をコントロールして大したことのない会話を意味のあるものに変えようとする作戦だったのだろう。一方で、スピリチュアルさが足りないゆえに人間の深層心理について勉強している可能性はある。夢を分析も学んでいるのなら大いに役立てられるかもしれない。
「すみませんねえ。そう見えたものですから」
かちんとくる言い方をするな。
「いえ、大丈夫ですよ。それよりも最近は毎日同じ夢を見るんです。豪華な料理が目の前に並んでいるんですけど、何を食べても不味いんです。苦くて苦くて辛いんです。一度や二度ならいいんですが、毎日となるとノイローゼ気味で寝るのが怖いくらいですよ」
僕が夢の大筋を伝えると占い師は姿勢を正してこう言う。
「食事がまずいというのは欲望や願望が満たされないことの不調からくるものですね。恋人は美人だけどなかなかデートできないとか、人間関係は有効だけど仕事となるとぎくしゃくしているとか、何かしら躓きを感じているのではないでしょうか」
その程度の躓きは誰でも経験しているはずだ。それにも関わらず僕だけが毎日苦いものをたらふく食べるという夢を見続けているのにはもっと根本的な原因があるのではないだろうか。
「しかし、毎日というのは相当にお辛いことでしょうね。本当に美味しいものを口にし続けることで苦い記憶を上書きしていくという方法もありますよ。夢は人間の深層心理が前向きであればよい姿を見せてくれます。現実の写し鏡なのです」
「なるほど、それは効果がありそうですね」
たしかに僕は食べ物に無頓着な生活を送っている。冷蔵庫には納豆とたまごしか入っていないし、外食もほとんどしない。心の奥底では美味しい食べ物を望んでいるのかもしれない。
「ありがとうございます。早速実践してみます」
とは言ったものの食べ物に無頓着な僕は美味しい物自体に詳しくない。夢で見る食べ物もどこか大雑把で、豪華なイメージが先行しているだけという可能性もある。
案外、苦味を感じているのは味をイメージできないからからではないだろうか。だんだんと占い師の言っていたことの信ぴょう性が増してきた。
僕は妹に連絡して近所で美味しい物が食べられる店を紹介してくれとお願いした。妹とはあまり連絡を取らないので驚いていたようだが、兄がついに職に目覚めたと喜んでいた。妹にそう思われるほどに僕は食に無頓着だったようだ。
週末に妹と待ち合わせをして夕飯を食べることにした。彼女が選んだのはラーメン屋だった。
「美味しいと言えばラーメンね。炭水化物、脂質、塩分を一瞬で補給することができるスーパーフードよ」
「さすがにラーメンくらいは食べたことがある」
「まあまあ、ここのラーメンは本当に美味しいから騙されたと思って食べてみて」
そう勧められるがままスープを飲んだ。
「美味しい」
あの夢の苦味を忘れるくらいの感動を覚えた。
「これなら夢の中で毎日でも食べられる」
「そんな大袈裟なこと言わないでよ」
この味を忘れないことが僕にとっては死活問題だった。何度もスープを口に運び鶏ガラの風味を堪能した。
その日の夜、わずかな期待を胸に秘めつつ眠りについた。
しかし、結果は出なかった。口の中が苦味でいっぱいになっていたが、一日で克服できれば苦労はしない。まだまだ諦めるつもりはなかった。
次は会社帰りに後輩を誘った。彼は社内でも食通で有名だった。
「先輩が食事に誘ってくれるなんて珍しいですね。いつもはコンビニのおにぎりばかり食べているのに。せっかくなのでとっておきの店に連れていきますよ」
そう言って後輩が連れてきてくれたのは寂れた印象のあるエスニックな小料理屋だった。浅黒い店長らしき人物が厨房で鍋を振るっている。日本人の店員もいるが、なんとなく東南アジア風の顔立ちに見えた。
「本当にこんなところで美味しいものが食べられるのか」
「もちろんですよ。先輩に食通の世界を見せてあげます」
アジア系の料理の店だったようでカレースープのような前菜や香辛料たっぷりのチキンなど刺激的で内側からエネルギーの沸いてくる料理の連続だった。
「癖があるけどどれも美味しいな。こんなにいいものを今まで知らずに生きていたなんて勿体ないことをしていたよ」
後輩は誇らしそうに料理の説明を続けてくれた。余りにも知識量に乖離があったため、追いつかない部分もあった。自分が何を食べさせられているのかわからない瞬間もあったが、感動が先行していた。
食事も落ち着いて、一杯やってから帰ろうということになった。
二人分のビールを頼み、後輩がいつも頼んでいるというおつまみセットを注文した。サラには豆やチップスなど色々な酒のつまみが揃っていた。
僕はその中から豆のフライを手に取って口にした。すると、夢で体験したあの苦い味が口の中に広がったのだ。揚げているので香ばしく美味しいのだが、奥底の素材の味は瓜二つだった。
衝撃のあまりに硬直していた僕に後輩はこう言う。
「先輩、それ癖になるでしょう。クモの腹です。カンボジアではよく食べられているんですよ」
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