黄色い箱
黄色い箱を拾った。見覚えはなかった。
会社から家に帰るときのことだった。両耳を平沢進で塞ぎ、まっすぐに自宅へと向かっていた。街灯は少なく僅かなオレンジの光が、ときどき弾けて明滅する。
「別にいつもと変わらない」
嫌なことがあると口にする。自分の不幸を受け入れるための言葉だ。今日も上司に怒られた。僕のミスではなく部下の責任を取るためだった。部下は飄々としていた。それがもどかしい。自分のミスで僕が尻ぬぐいをする。あの子はなぜ笑っていられるのだろう。僕も色んな失敗を笑ってごまかしたい。そんな人間になれたらどれほど人生楽だろう。
普段と変わらない幅員4メートルの路上を誰ともすれ違うことなく歩いていた。近くにコンビニも飲食店もない不自由な所だ。そろそろお金を貯まってきたし、引っ越してしまおうか。そんなことを考えながら最後の曲がり角に差し掛かったとき、僕はプラスチックとアスファルトのぶつかる音を聞いた。塞いでいるはずの両耳を経由せずに、まるで体の芯から発するようだった。
目の前には何もないし、何も起こっていない。立ち止まって振り向いたが、誰かがいるわけでもない。
幻聴だ、電子ドラッグのような音楽を聴いているせいなのだ、月並みで根拠のない自己解決をして、歩き出そうとした。
『からから』
今度ははっきりと何かを地面に引きずる音がした。金属ではない響きのない鈍い音だ。
誰もいない。いよいよ自身の聴覚に戸惑いを感じた。
息を大きく吸い、真っ暗な空を見て、頭を振り下ろすように足元を見た。
「ああ、これか」
僕の足元に正方形の小箱が落ちていた。おそらく音の正体はこいつだ。歩いているときに蹴ってしまったのだろう。耳をふさいでいても体に触れれば骨から全身に音が響く。オカルトでも幻聴でもなかった。ほっとした僕は拾い上げる。
樹脂でできたチープな箱だった。触った限り模様もない。開閉するための鍵穴もない。なぜ落ちているのか見当もつかない。ただひとつ言えるのは僕の物ではないということだ。重みは実家から送られてくるミカンひとつと同じくらいだ。
僕はその箱を持ち帰ることにした。誰かの物だったかもしれないが、落とした本人もとっくに諦めているか、落としたことさえも忘れているくらいだろう。その程度の価値だけしか思えなかった。
帰宅し、家の明かりを点けてからもう一度じっくりと箱を見た。街灯の下ではわからなかったが、想像以上に黄色くて、ガチャガチャのカプセルのように真ん中で割れるようになっていた。
いくら振っても何かが揺れる音はしない。箱自体の重さだけで中には何も入っていないのだろうか。せっかく拾ってきたのだが、面白味もない。
風呂から上がり、夕飯を食べることにした。冷蔵庫を開け、納豆と冷凍していた鶏のから揚げを取り出した。夜は炭水化物を取らないようにしていた。痩せたいわけではない。夜はできるだけ眠たくなりたくないのだ。
妻の残していった電子レンジに鶏のから揚げを入れた。祖母から貰った大事な品だと言っていた。ワット数が低くなかなか温まらなくて不便だが、買い替えることはできない。手持ち無沙汰になったので黄色い箱を手に取った。
相変わらずチープだ。
「つまらないところは僕と似ているね」
左右にひねりながら童心へ戻るように箱を開ける。
『かぽん』
空気の逃げ場がなかったのか、間抜けな音を立てて箱は二つに割れた。
中から小さな女の子が飛び出した。
僕は両手に持っていた箱を捨て、少女がフローリングに落ちる前にキャッチした。打ち付ける寸前だった。
『ありがとう』
少女は僕の掌の上でうつ伏せのまま礼を言った。
「どういたしまして」
少女はもぞもぞと手のひらを動き回ると僕のほうを見て笑った。
くすぐったい。
『何度も振られて気持ち悪かったわ』
そういえば、箱を開ける前に何度も揺すったのを思い出した。もし、自分があの中に入っていたらと思うとぞっとする。
少女は、幼い子どもでも日常的に来ていたら浮いてしまうような箱と同じ黄色い膝丈のワンピースを着ている。アクセサリーの類は特に身につけていない。小さすぎて見えないだけかもしれないが。
「申し訳ない。とっくに空箱だと思っていた」
僕は少女をテーブルの上に乗せた。
『喉、乾いた』
僕はキッチンへ行き、計量スプーンに水を入れた。
「君に会いそうなコップはなかった」
少女はそんな言葉を聞く前に両手で水を掬い、何度も口へ運んだ。
3分の1もなくならないうちに動きを止めたので、スプーンをシンクへ投げた。
「箱の中で何をしていたの?」
戻ってくると、少女は腕を組みながらテーブルの上を歩き回っていた。歩幅は約3センチくらいだが、健康的な歩調だった。
『何もしていない。閉じ込められたの。君に』
「そんなバカな……」
僕は君に覚えはない。そう言おうとして飲み込んだ。
『この5年間息苦しかったわ。なぜ私は忘れられたの?』
僕が妻と暮らしていた時間と同じだ。少女はじっと僕の目を見つめている。怒りを込めているのではなく、静かに答えを待っている。
「忘れていたわけじゃないさ。封じ込めて自分を変えようとしていた」
妻の期待する自分に変わろうとしていた。でも、潜在意識が変わらないと僕は僕のままだった。少女を通して妻に言い訳をしていた。
『封じ込められる私の身にもなってよ』
少女は僕に向かって手を伸ばす。爪楊枝のように細い手をどう握ればいいのか。
『今夜だけでも昔のように一緒にいてくれないかしら?』
昔のように。
「君はファンタジックな衣装に身を包んでいるくせに現代的な樹脂の箱から飛び出した。本当なら木箱から虹色の鱗粉をまき散らしながら飛び出すべきだった」
僕は誘いに答えなかった。
『わかったわ。あなた、変わったのね』
少女はテーブルの上に座った。膝を抱えて丸くなる。いじけたときの僕と同じだ。
ああ、客観的にみるとこんなにも情けない姿をしていたのか。忘れてもいいこととそうでないことがあるが、この姿は決して忘れてはいけない。
「変わるよ。嫌いな僕も含めて僕なのにそれを押し込めていた。受け入れるのが怖かったんだ。矮小な人間だと気づきたくなかった。きっと君を忘れたのもそのうちの一つなんだと思う」
僕は少女にそう言った。
『そうね、それはいい方向に変わっていると思う』
久々に自分を肯定された。唇が震える。
少女のことは何一つ覚えていないが、ひどく愛らしく思えた。
『それがわかってくれて嬉しいわ』
少女は屈託なく笑った。自分のことを5年間も閉じ込めて、忘れ去ってしまっていた僕をあっさりと許した。
箱の中身は入っていないと僕は勝手に決めつけていた。いや、空っぽであってほしいと潜在的に願っていた。入っていたら昔の自分に戻ってしまう気がしたから。
とっくの昔に捨てたのに、少女は忘れずにいてくれた。
気がつくと朝を迎えていて、僕はテーブルに突っ伏して眠っていた。
何もかも昨日のままだった。電子レンジには冷え切った鶏のから揚げが入っている。電気も点いたまま、カーテンも開いていた。
フローリングには、昨夜に拾った黄色い箱が転がっていた。太陽の光の下では随分と傷だらけだった。
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