セーターの呼ぶ方へ
ある日、お気に入りのセーターがなくなった。
山吹色のチェック模様だった。生地はカシミヤ。父から十六歳の誕生日に貰った物だ。いつもは頓珍漢なプレゼントをくれるのだが、人生で初めて私の感性に合うものをくれた。それが突然にクローゼットから姿を消したのだ。もしかしてどこかで脱ぎ捨てたのかと思い、洗濯かご、押し入れ、布団の下と思いつく限りの場所を探したのだが見つからない。
「どこかに置き忘れてきたんじゃない? あんた暑がりだからさ」
友人に相談しても、たかがセーターだと思っているのかそんな冷たいことをいう。
あんな大事なものをそうそう忘れるわけがない。しかし、暑がりなのは事実だ。セーターという服自体は好きなのだが、身に着けると真冬でもない限り汗をかいてしまう。それは大切なセーターを汚してしまうことにも繋がる。ヤマアラシのジレンマ。愛して身に着けるほど、セーターを傷つけてしまう。そんな私を嫌っていなくなったのだろうか。
ああ、もう二度と着ることができないと考えるほどに愛おしくなってしまう。
私は苦肉の策として、同じセーターを新しく購入することを決意した。恋人に振られたからといって似たような人を見つけて付き合う心理状態を連想させて若干自己嫌悪に陥ったが、背に腹は代えられない。
私は会社にいる父へ電話をした。
「ねえ、お父さん。あのセーターどこで買ったの?」
父は突然の質問にどぎまぎした。
「……えっ、あっ、いやあ、確かA山の○○っているセレクトショップだった気がするなあ」
「○○?気がするじゃ困るのよ」
「ちょっと待って。レシートがあるから」
仕事中にもかかわらず財布を漁る父。よほど娘から聞かれたことが嬉しかったらしい。
「見つけた。O参道の××だった」
娘へのプレゼントを買った店を忘れるとは何事か。
「ありがとう」
私は父にそう伝えると電話を切った。
セーターを購入したセレクトショップを訪れた。割引率を示すポップすらオシャレに見える店だった。店員はマネキンのように整った姿勢で店内を巡回している。
「こんにちは。以前こちらで山吹色のセーターを買ったのですが、実は無くしてしまって。お気に入りだったので諦めきれずに再購入することにしました」
同じ服を二枚買うというファッションセンス無き行動と取られないように事前に理由を述べた。店員は本当に同情するように眉を下げていた。
「それはお気の毒でしたね。まだ、在庫があればいいのですが」
そう言ってストックを探してくれた。冬も終わりが近づいているので店内は春物で溢れかえっている。もしかしたらもう売っていないのかもしれない。
しばらくして、店員は申し訳なさそうな表情で戻ってきた。私はその顔を見て落胆した。あの服にはもう会えない。
「申し訳ございません。あいにく今シーズンの分は売り切れのようです。来シーズンには生産するでしょうが、全く同じものを手に入れるのは難しい状況と思います」
それを聞いて、私は打ちのめされた。
私が言葉も発せず、放心状態で店を去ろうとしたところ、店員はこんなことを言った。
「無くした服にも意思があるんです」
私は立ち止まった。何かおかしなことを言い始めたぞ。
しかし、今の私は藁にも縋る思いだった。
「どういうことですか?」
店員は振り向いた私を見てにっこりと笑った。
「実は私も大切な服を無くしたことがあるんです。そのときはお客様と同じように絶望の表情でいろんなお店を歩き回りましたが、結局は売っている店舗を見つけることはできませんでした。毎日のように後悔し、悲しい日々を送っていました。しかし、いつまでもくよくよしても仕方がない。願い続けていればいつかは戻ってくるかもしれないと信じることにしました」
引き寄せの法則か。新たな宗教勧誘か。猜疑心が渦巻いた。
「そして信じていた結果、服はもう一度私の前に現れたのです。それは休日に公園を散歩しているときでした。地面に何か光るものを見つけたのです。よく近づいて見てみると、小さなボタンのようでした。最初は一瞥しただけで何とも思いませんでしたが、少し歩いた先にもう一つ同じボタンが落ちていました。そこで私ははっとしました。そのボタン、私が無くして探し求めていた服に使われていたものとまったく一緒だったのです。もしかするのではと思い、私はそのボタンを拾い集めて歩きました。すると木陰の下に無くした服が落ちているではないですか。私は感動のあまりに泣き出してしまいました。信じる気持ちが服の意思を呼び覚ましたのです」
店員は猛烈な勢いで説明した。私はかなり引いてしまっていたが、それが彼女の私を慰める唯一の手段だったのかもしれない。他の似合う服を進めて購入させようとする商売根性がないことは幸いだった。
「参考にしてみます」
私は一応お礼を言うと店を後にした。
その後も私は店という店を練り歩いた。結果は惨敗だった。
見つからなかったなあ。いっそのこと同じカシミヤの毛糸を買って作ってみようか。でも一度も手編みのセーターなんて作ったことないし、仮に作れたとしても着る勇気がない。何度もため息をつき、寂しく一人で電車に乗っていると、車窓から遠くの公園がよく見えた。
あの店員が言っていたことを思い出す。願うことしか方法がないのなら、この際だから店員に乗っかってみよう。
私は最寄り駅の二つ手前で降りると先ほどの公園へ向かった。親子連れで賑わっている。ボールを投げる子ども、それを必死に拾う父親。なんと和やかな日常だろう。そんな公園で私は無くした服を探している。こんなところにあるはずもないのに。いや、だめだ。信じなければ。
私はぎゅっと目をつぶった。風の音、子どもの声、車の駆動音。すべてが素晴らしい音色だと感じよう。世界が私を導いてくれる。
目を開ける。すると足元には山吹色の毛糸が伸びていた。
「まさか」
私は想定もしていなかった展開に心臓が高鳴った。見覚えのある色だった。
セーターが私を呼んでいる。
毛糸の先を見つめた。ずっと先の森林のほうへと伸びている。子どもたちが走り回る中央広場をくねくねと蛇行しながらも横切るように続いている。子どもたちは誰もその毛糸の存在に気づいていないようだった。おそらくセーターが私にだけ発しているメッセージなのだ。
夢中になって追いかけた。毛糸の先端を拾ってくるくると巻きつけながら進んでいく。途中、目の前をボールが横切って驚いたが、周囲を見ていない私が間違いなく私が悪いので大人しく謝った。
広場を通り抜けると次第に人の気配はなくなっていく。子どもたちや車の音が消え、風と枯れた広葉樹がこすれあう音だけが聞こえる。私とセーターの邂逅を公園が祝福しているように感じた。
ついに森林の中でもひと際大きな樹の下にやってきた。手のひらには小さなカシミヤの毛糸だまが出来上がっている。そして、目の前には私の愛したセーターが横たわっていた。
しかし、歓喜と落胆は同時に襲った。
おいおい、セーターさん。呼んでくれたのは嬉しい。しかし、私がいくら暑がりだってノースリーブになったのでは意味がないでしょう。
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