第7話 目を瞑るマーシャ
その音は、教会の裏手からだった。
かすかな、けれども人でしかあり得ない響き。
気配はなかったはずだ。
だが現に、背後から足音は近づいてくる。
「……遅いぜ。シスター」
振り向かずに、マーシャ。
ほどなく小柄な老婆が、正面に姿を現す。
しわがれた顔に笑みを浮かべながら。
「お邪魔かと思いましてね」
「どうせ見てたんだろ」
「“聞こえてるだろう、マーシャ”」
「……まあ最近は体調良さそうで何よりだ。しかし喰えねえな、どこに潜んでたやら」
「これでも、突然の来訪者から身を隠すくらいの事は出来たんですよ」
それが「誰から」とはさすがに訊きかねた。
先方が長く独り身と、マーシャは知っている。
ここ数年のことでは、恐らく無い。
「驚かせたのは謝っとく。だが一応言っとくが、この敷地で起こった事は」
「ええ、私も歳ですからね。ずいぶんと忘れっぽくなりました。孫娘の年の子に、嫌われたまま渡りたくはないですからね」
「よく言うぜ。……いま左手は使えねえ。こいつはそちらで外して、受け取ってくれ。手当ては終わったらでいい。自分でやってもいいが」
「いえいえ、手当もいたしますよ。では」
外套を脱ぎ上着をまくり、下腹を晒す。
幾重にも巻いた布切れ、その下から現れる紙袋たち。
十数個の粉袋、重さはざっと2キロほどのはずだ。
中身は無論、小麦粉などではない。
「はい、受け取りました」
中身について、軽く聞いてはいた。
この鎮痛薬には特殊な使用法がある。
ゆえに勘違いされないよう、君の手で運んで欲しいのだと。
その運び先が顔見知りなのは予想外だったが。
具体的な内容までは聞いていない。
マーシャにしても、詳しくは知らない。
加工すれば薬になること以外は。
建前か、それとも。
知ったことではないと、マーシャは思っていた。
詮索好きの運び屋など、ひどく危ういものだ。
「……ひとつ、聞いてみていいか」
「ええ、ええ。ひとまず、伺いますよ」
それでも、気にかかる事はあった。
加工目的であれば、もっと多くを運ぶのではないか。
大勢への処置で使うにしても量が少ない気がする。
直接聞けば済む話だ。
この鎮痛薬を使うのは。
あるいは。
「……いや、やっぱ何でもねえ」
「あら、隠し事?」
「ああ。取り返しのつかない事、てのはあるからな」
聞いてしまうこと。
ただそれだけで、何かを変えてしまうこともある。
意図した保留もまた、選択肢の内なのだろう。
「でしたら、私もあまり言わない事にしましょう」
「人助けが上手いぜ、シスター。好きなままでいられる」
獰猛な顔で、マーシャは笑った。
無性に、笑わずにはいられなかった。
「ついでの話だが」
血まみれの左手を差し出し、言う。
「こいつを処置してくれると、もっと好きになれるぜ」
(『ポーランド戒厳令 I』・了)
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