異変

 人間達からの攻撃を受けて、一月が過ぎた頃。

 入り込んできた朝日が瞼をくすぐり、アニミスは寝床である洞窟の中で目を覚ました。首を伸ばし、足を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。

 大烏や人間との戦いの傷はすっかり癒え、アニミスの身体は本調子を取り戻していた。

 いや、更なる成長を遂げたと言うべきだろうか。傷付いた筋肉が修復され、全身が二回り太くなった。皮はまた頑丈になり、猟師達の銃弾は勿論、大烏の攻撃でも簡単には破れないだろう。付けられた傷跡は周りの肉が盛り上がって塞がり、皮よりも強固な肉の『鎧』と化している。身体はずしりと重くなり、その身体を毎日運んでいる四本の足もより逞しくなった。

 一月前よりも格段に強くなった身体。しかし強い身体には、強いからこその弱点がある。

 たくさんの食べ物が必要である事だ。

 一晩ぐっすり眠ったアニミスの身体は、すっかり空腹状態になっていた。今日の天気は洞窟に居ても分かるぐらい爽やかな晴れ。早速食事に行こうと、アニミスは軽やかな足取りで洞窟の外へと出た。何を食べようか、毎日毎日赤い実ばっかり食べるのも飽きてきたなぁ……そんな事をぼんやりと考えながら、洞窟の外に広がる空を見上げる。

 朝日が燦々と輝いていた空は、しかしアニミスが外に出た頃になって、急に雲が流れ込んできた。雲の色は濃く、そう簡単には消えそうにない。

 どうやら今朝の天気は曇りらしい。それ自体は、アニミスにとって悪いものではない。今の季節は夏であり、山のてっぺんでもそれなりに気温は高いからだ。直射日光に当たらない方が心地良く一日を過ごせる。

 しかしやってきた雲はとても黒く、そして吹き始めた風に湿気た土の臭いが混ざり始めた。山暮らし一年になろうとしている経験から、近々雨が降りそうだとアニミスは理解する。アニミスは雨がとても嫌いだ。毛皮が湿って重くなるので。

 とはいえ、では洞窟に引き籠もるかといえばそれもまた否である。アニミスは空腹なのだから。数日ぐらいの絶食なら耐えられるだろうが、突然嵐がやってきて何日も洞窟に閉じ込められる……なんて事が起きるかも知れない。万一に備えて行ける時には行くべきである。アニミスが強くなるほどに、空腹というものは厄介な『敵』となって彼女の行動を縛るのだ。

 幸いにして大烏の時に奪い合った木の実が今全盛期を迎えている。腹はすぐに満たせるだろう。正直飽きてきたが、今日は食べ物探しをしている暇はなさそうなので仕方ない。

 さっと行って、ささっと食べて、さささっと戻ろう。そう考えたアニミスは早速中腹に向けて歩み出そうとした。

 その時に、ふと気付く。

 二つの大きな気配が、此処から少し離れた場所で生じた事に。

 アニミスはこの気配に覚えがある。『奴等』……かつて自分と戦ったトラと大烏だとアニミスは考えた。大怪我こそ負わせたが殺してはいないので、どちらとも生きていたとしてもなんらおかしくない。戦いの後、山の何処かでひっそりと暮らしていたのだろう。

 そして奴等と戦ってからそこそこの月日が流れている。自分と同じように奴等の傷も塞がり、すっかり力を取り戻している筈だ。いや、むしろどちらの気配も、以前より大きくなっている。怪我が治る過程でどちらの身体も成長したのか、或いは戦いの経験が奴等を一段階上の強さに引き上げたのか……いずれにせよもし再び相見あいまみえたならば、奴等と戦った当時のアニミスでは敵わないに違いない。

 しかしアニミスも以前と比べずっと強くなっている。戦いを切り抜け、より大きな力を手にした彼女は強くなった二つの気配を感じ取っても恐れなどしない。奴等がまた自分に挑むというのなら、正面から叩き潰してやる気満々だった。

 尤も二匹の気配はこちらに接近しているという訳ではなく、少し離れた位置で佇んでいるだけなのだが。

 つまりどちらも、アニミスと戦おうとしている訳ではないという事。それに気付いたアニミスは、気を張っていても仕方ないと考え臨戦態勢を解いた……という事はしない。

 遠くで佇んでいるだけなのに、どうしてアニミスは二匹の気配を感じ取ったのか?

 二匹が力を高めているからに他ならない。あの二匹も山に棲み着いていたが、大きな力を出さなかったが故にこれまで存在を察知出来なかったのだろう。その力が感じられるようになったという事は、闘争心を剥き出しにし、臨戦態勢を整えている筈だ。アニミスが近くに居ないにも拘わらず。

 即ち、二匹が警戒する何かがあったという事――――アニミスに匹敵する二匹が、だ。

 鹿であるアニミスは、論理的にこのような考えは導き出せない。しかし本能的に『違和感』を覚えた彼女は、ひとまず意識を研ぎ澄まし、山全体を探ってみた。

 そうしてみれば、奇妙な気配が山にあると気付く。

 最初に気付いたのは『中ぐらい』の気配。トラや大烏ほど大きな気配ではないが、キツネや猛禽類ほど小さくもない、丁度その中間ぐらいの力だ。アニミスからすれば、有象無象というほどではないにしても脅威と呼ぶには程遠いもの。だから普段なら気付いたところで気にも留めないだろう。

 しかし今回感じたその気配は、数がやたらと多い。

 多過ぎて、好戦的な性格であるアニミスすら嫌気が差すほどだ。もしもこの気配全てを相手するとなれば、かなりの苦労を強いられるだろう。勝てないとは思わないが、正直相手をしたくない。

 そして何より気になるのは、そうした無数の気配の中に潜む『特大』の力。

 周りに無数の気配がある中で、一際存在感を放つ大きな力。凄まじい力を持ったものだ……周りの気配が鬱陶しくて正確には測れないが、トラや大烏よりも大きいのではないかとアニミスは推察する。

 奇妙なのは、それらの気配が山の『地下』から感じられるという事。また、今日になって突然感じ取れるようになった事か。トラや大烏が警戒態勢に入った事を感知してからアニミスは気配を探った訳だが、そうだとしても今日まで何も感じなかったのはおかしい。

 何故今になって、この奇妙な気配を感じ取れるようになったのか? 答えはすぐに明らかとなった。

 地下に潜んでいた気配が、突然浮上してきた。猛烈な勢いで駆け上がってくるそいつらは、地上が迫っても止まろうとする様子すらない。一斉に、全ての気配が一塊になって地上を目指している。

 今日まで気配を感じなかったのは、今まで地下深くに潜んでいたから。今になって感じられるようになったのは、地上に近付いてきていたからだ。どうやらこの気配達は地上に出てくるつもりらしい――――それを察したアニミスは全身の力を高める。トラと大烏の気配も更に増大している事から、奴等もこの地下の気配を警戒していたのだと理解した。

 ネズミやキツネ達は、闘争心を上げるアニミスから逃げていく。巻き込まれたならそれだけで命が危ないと予感したのだ。それほど強い気配を発するアニミス達だったが、しかし地下に潜んでいた気配達は怯む事もなく猛進し……

 気配が地上に到達したのと同じくして、山の一部が弾け飛んだ。

 無数の岩が四方八方へと飛び散る様は、まるで噴火の様相。大量の粉塵が舞い上がり、空高く昇る。爆発は山のあちこちで置き、曇り空を更に一層暗くした。

 恐ろしい自然災害か? もしそうなら、如何にアニミスでも勝ち目はない。本能に突き動かされ、アニミスは全速力で逃げ出すだろう。

 だが、彼女は動かない。

 アニミスの本能は知っていた。これが自然の災害などではないと。アニミスの闘争心は告げていた。これより始まる戦いの苛烈さを。

 そしてアニミスは目の当たりにする。

「ギギョオオオオオオオオオオオッ!」

 おぞましい咆哮を発する、巨大な『人型』の何かが現れる瞬間を――――

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