逆転

 幾度となく吹き付けられる暴風。

 肉体を痛め付けてくる疾風に、アニミスはひたすら耐え続ける。そんな彼女の頭上を大烏は悠々と飛び回り、側面から、背後から……様々な方角から羽ばたいて、風を打ち付けた。幾度となく風を当てられたアニミスはやがて膝を付き、蹲ってしまう。

 その姿を目にした大烏は甲高い鳴き声を上げた。攻撃ではなく、愉悦に浸るように。ガァガァと喧しい鳴き声にアニミスは苛立つが、攻撃が届かない高さを飛び回られてはどうにもならない。

 アニミスは大烏を睨み付ける事しか出来ず、されどこれだけで大烏を怯ませられるのなら苦労などない。大烏は笑うような鳴き声を出しながら、またしても四方八方から暴風攻撃を仕掛けてきた。鳴き声が五月蝿く、図に乗っているように聞こえる。

 しかしアニミスは気付いていた。この大烏は勝利を目前にし、嘲笑うような笑い声を出しながら、その実一切油断していない事に。

 自由気儘に飛び回っているようで、大烏は決してアニミスの正面で止まろうとはしないからだ。正面を横切る事は何度もあったが、一切笑いのない鋭い眼差しでこちらの動向を窺うだけ。決して攻撃はしてこない。

 単純に警戒心が強いのか、それともアニミスが何かを企んでいると感じているのか……アニミスにとって、大烏が油断していない状況はあまり好ましくない。本能的に状況判断を行ったアニミスは激しい苛立ちを覚えるが、それでも今は身を伏せて苛烈な攻撃に堪えるしかなかった。

 怪我をして動けなくなった……そう誤解してくれるのが最良の展開なのだが、大烏の鋭い視線は変わらない。この程度で油断するならとうに勝てているだろうが、まるで引っ掛かる気配がないものだからアニミスは奥歯を噛み締めた。

 大烏はアニミスには決して近付かず、遠巻きに暴風を当てるのみ。アニミスは伏せた体勢で風に構えたが、暴風の威力は凄まじいものだ。風を打ち付けられたその皮の下は内出血を起こし、分厚く頑丈な皮膚が弛んでいく。張りのなくなった皮は暴風の衝撃で大きく揺らぎ、内側の肉を傷付けていった。

 そしてついに皮の強度が限界に達し、切り傷が刻まれる。深い傷ではない、が、引き裂かれるように出来たが故に、強い刺激が走った。

「キュッ……!」

 堪らず苦悶の声が漏れ出る。しまった、と思った時にはもう遅い。

 アニミスの衰弱を大烏は聞き逃さなかった。

 大烏は素早く、力強く、再び暴風をぶつけてくる。その度にアニミスの身体では内出血が酷くなり、皮には傷が出来た。裂くように出来た傷口からはだらだらと血が流れ、アニミスの毛皮が赤黒く染まっていく。

 大烏はアニミスの右側に回り込む。アニミスは身体を引きずりながら後を追おうとするが、傷付いた筋肉は上手く動かず、大烏の動きに付いていけない。

 大烏はゆっくり、大きく息を吸い込む。胸が大きく膨らみ、これまでにないほど大量の空気を、その分厚い胸板の奥にある肺に取り込んでいると分かる。

 奴はこの攻撃で止めを刺すつもりなのだろう。

 アニミスは本能で理解する。この攻撃は防御を固めたところでどうにもならない。直撃を受けたなら、防御を貫通して内臓が傷付き、ゆっくり死に至るだろう。

 アニミスは歯ぎしりをする。大烏は高笑いのように鳴く。たっぷりと息を吸った大烏が攻撃準備を終えたのを見て、アニミスは人間的な言葉に訳せばこう思った。

 

 大烏が息を吐き出す、その直前にアニミスは――――全身の筋肉に力を込めた。

 これまでに幾度となく、そして満遍なく全身を叩いた大烏の暴風は、アニミスの皮の下に多くの出血を作っていた。所謂内出血であり、筋肉中に血がねっとりと溜まっている状態である。

 その血液を、筋肉の動きにより傷口付近まで運ぶ。

 運ばれた血液は筋肉の余熱を吸い、加熱されている。煮えたぎるような熱さに耐えながら、アニミスはひたすらにチャンスを待っていたのだ……大烏が、自分の右肩近くにやってくる時を。

 暴風に叩かれ続けたアニミスの身体の右肩部分には、小さな切り傷が出来ているのだから。

 ほんの小さな傷。あまりにもちっぽけなそれは、ちっぽけだからこそ良い。同じ量の液体を絞り出す時、穴が小さい方と大きい方、どちらが勢い良く飛び出すかは明白である。

 アニミスが肩の一点に全身全霊の力を掛けた瞬間、赤黒い液体が噴き出した!

 血液は真っ直ぐ大烏の顔面に向かい、その顔に当たる。ただの血液ならば、大烏を僅かに怯ませるのが精々だろう。しかしアニミスの血液は筋肉の運動により加熱され、高温化していた。

 焼けるような、というものではない。しかしそれでも熱さを感じるだけの温度になった血液が、敏感な目に入れば――――

「ガギャアアアッ!? ガッ……!」

 大烏が身を仰け反らせるほど怯むのも、致し方ない事だった。

 吐き出そうとしていた暴風は、怯んだ拍子に頭を上に向けた所為で空目掛けて飛んでいく。その暴風の反動により大烏は体勢を崩し、地面へと落ちてきた。慌てて羽ばたく大烏だが、息を吐き出してしまい肺が空っぽの身体は酸欠の苦しさを覚えているのか。もがくような動きになってしまい、空気を掴むための正しい羽ばたきが出来ていない。ぐるぐると身体を回転させながら、大烏はどんどん高度を下げてしまう。

 アニミスはこのチャンスを逃さない。

 全身の傷口から噴き出す血。皮と筋肉が剥離した影響で身体中に激痛が走る。筋肉が断裂しているのか力が上手く入らない。トラに襲われた時でも、ここまでの痛みは感じなかった。

 それでもアニミスは笑う。

 笑いながら、アニミスは駆けた! 傷みなど気にも留めず、猛然と速度を上げていき……

 大きな岩を踏み締めて、跳躍。

 この山で圧倒的な重さと巨大さを誇る体躯が、空高く浮かび上がった。無論あくまで大地を蹴った弾みで跳んだだけであり、いずれは落ちるもの。しかし一時でも空を駆ければ十分だ。

 大烏はもう、それだけで届くぐらいの高さまで降りてきたのだから。

 今になって大烏はようやく気付いたのだろう。自分の身体が、安全とは言い難い位置まで降下していた事に。アニミスの跳躍が、これまでにないほど高い事にも。

 アニミスは大きく前脚を振り上げた。大烏は広げていた翼を慌てて羽ばたかせる、が、最早間に合わない。アニミスは全身から煮える血液を噴き出しながら、全身全霊の力を己の前脚に乗せていく。

 そして解き放った力を、大烏の胸元にぶちかます!

 アニミス渾身の一撃を受けた大烏は、その目を大きく見開いた。開いた口からは血反吐が吐かれ、アニミスの頬を穢す。同時に翼を羽ばたかせ、鋭い爪の突いた足先をアニミスに向けてきた。

 未だ大烏の闘志は揺るがず。されどアニミスは怯まない。そう、まだ決着は付いていない。胸板にぶつけた己の足に更に力を込め……貫くように伸ばす!

 アニミス最後の、最大の力を受けた大烏の身体は、まるで弾丸のような速さで吹き飛ばされた! 翼を羽ばたかせるが、吹き飛ぶ大烏が止まる事はない。

 やがて大烏が辿り着いたのは、岩が剥き出しとなった大地。

 殆ど減速出来ずに大烏は大地に激突し、周りの岩を粉々に砕く。大烏の身体は大地に深々と突き刺さり、背中は殆ど埋まるような状態になっていた。

 大烏を殴り飛ばし、大地に着地するアニミス。怪我の影響で少しよろめき、全身が物凄く痛んだが、膝を付いて休む事はなんとか防ぐ。出来ればこのまま倒れ伏してしまいたいところだが、そうもいかない。

 大烏はまだ生きている。

 その証拠に、大地に食い込むほど強く打ち付けられた大烏は、未だその翼を激しく羽ばたかせていた。口から吐息と血を吐きながら藻掻く様は正しく最期の足掻きのようだが、手負いの獣が一番恐ろしい事をアニミスは知っている。

 油断せず大烏を睨むアニミス。大烏は頭を振り、アニミスを見付けるや睨み返し……しかし段々と、羽ばたく翼の力が抜けていく。睨み付けてくる眼差しからも、生気がどんどん失せていた。

 最後にかくんと首から力が抜け、大烏は動かなくなる。

 野生の世界に、決着を告げるものはいない。故にアニミスは自らの本能でそれを理解した。

 この戦いが、決着したのだという事を。

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