空襲

 アニミスは空を飛べない。

 当然である。アニミスの身体は今や人間の大人三人分はあろうかという重量を誇り、その身体には翼など生えていないのだから。木よりも高い場所を飛んでいる大烏のように、空高く浮かび上がる手段など持ち合わせていなかった。

 ただ、ほんの一時空中に浮かぶぐらいなら難しくはない。

 無論魔法やらなんやらのような、不思議な力は使わない。ただの鹿であるアニミスに、そのような超常的な力は宿っていないのだから。そもそもそんなものを使わずとも、短時間空へと浮かび上がる術は多くの動物が持っている。

 跳躍だ。

 大烏の下へと駆けたアニミスは、ただ跳んだだけである――――強靱な後ろ足で大地を蹴り、超重量級である己が身体を大空に向けて撃ち出すように!

「グガッ!?」

 まさか鹿がとは思わなかったのだろう。大烏は驚く声こそ上げながらその身を傾けたが、逃げる事は叶わなかった。跳び付いてきたアニミスを避けきれず、その体当たりを真っ正面から受けてしまう。

 上手い事大烏に組み付けたアニミスは、一切の容赦をしない。そのまま押し倒すように、前脚を伸ばして大烏の胸部に体重を掛けた。アニミスが体重を乗せれば、大烏は呆気ないほど簡単に墜落する。大地に墜落する際更に力を込め、大烏に強烈な打撃を与えた。

 鳥の骨は非常に脆い。空を飛ぶための軽量化として、骨が虫に食われた朽ち木のように穴だらけとなっているからだ。アニミスにそうした知識はないものの、トラでさえも苦しめた自らの足技の威力には自信がある。胸の骨をへし折るぐらい造作もないと感じていた。

 結果は、アニミスの予想と異なった。

「グガアアアアァッ!」

 大烏は健在。胸を踏み付けられている最中でも怯えや恐怖は一切見せず、それどころか鋭い爪が四本も付いた大足でアニミスの身体に掴み掛かるぐらい闘志に燃えている!

 大烏の胸部には、アニミスの巨体を押し退けるに足る筋力を有していたのだ。この筋力は本来大きな翼を動かし、自らを大空に飛び上がらせるためのもの。されどその分厚さから防具のように働き、アニミスの足蹴を耐え抜いたのである。

 そしてアニミスが肉弾戦を仕掛けてきた事で、大烏もまた接近の手間が省けたのだ。

 大烏は翼を大きく羽ばたかせ、アニミスの顔面を殴り付ける。決して強い打撃ではないが、風と共に砂粒が舞い上がり、アニミスの目を僅かに刺激した。ほんの一瞬、反射的にアニミスが顔を背けた瞬間、大烏は一層強く羽ばたく。吹き付けてくる突風で足がもつれ、アニミスは後退を余儀なくされた。大烏に乗せていた足も下がり、地面を踏み付ける。

 自由を取り戻した大烏は、自らの翼を羽ばたかせて浮上。アニミスの首に爪を突き立てる。大烏の爪はアニミスの首の皮を貫き、脂肪と筋肉を傷付けた。表皮を通っていた毛細血管が切断され、滲むように赤い汁が傷口から染み出してくる。尤もこの程度の傷ならば痛みは大したものではない。

 問題は、その後繰り出された攻撃。

 肉に食い込んだ爪を大烏は外さない。それどころか更に力を込め、より深く食い込ませてきた。これにより大烏はアニミスの身体にしかと組み付き、ちょっとやそっとの動きでは振り解けなくなる。そして爪を突き立てた場所を足場としたまま、羽ばたきにより浮かび上がった大烏は、アニミスよりも視線が高くなった。

 その位置関係を保ったまま大烏は首だけを仰け反らせ、次いで一気に前へと振り下ろす!

 嘴による突き刺し攻撃だ。的確に顔面を、しかも目玉を狙う一撃はさしものアニミスも不味いと考えた。瞼を出来るだけ下ろし、攻撃を目から外させるように頭部だけを動かす。これによりどうにか最初の攻撃は避ける事が出来た。

 しかし大烏の攻撃は一回だけでは終わらない。何度も何度も嘴を目玉に突き刺そうと、執拗なほどアニミスの顔面を狙って攻撃してくる。アニミスはその度に顔を傾けて目への直撃は避けるが、嘴そのものを躱す事は出来ず。切っ先が頬を切り、額を抉り、鼻先から血が流れ出た。

「キュ……オオオオオオオオオオオンッ!」

 繰り返される攻撃に、アニミスの怒りが爆発した。

 猛々しい咆哮を上げた彼女が繰り出した行動は、一旦強く身を退く事。

 アニミスの突然の後退に驚く大烏だが、首に突き立てていた爪を離す事はない……否、出来ない。深く突き指した状態であったがために、簡単には外れなくなっていたからだ。アニミスの動きに従い、大きさの割に軽い大烏の身体はあっさりと引っ張られる。

 アニミスの後退は極めて瞬間的なもので、非常に高い加速度が大烏の身体を動かした。慣性による事象だ。アニミスに科学的な知識はないが、身体を引けば自分に掴み掛かっている奴も一緒に後退する事は経験で知っている。

 そしてその後退が、すぐには止まれない事も。

「キュオッ!」

「グギャッ!?」

 アニミスは後退した足を止めるや全速力で突撃! 慣性によりこちらに引き寄せられている最中の大烏の胸に、強烈な頭突きをお見舞いした! 大烏はアニミスの正面に陣取っており、角と角の間に入る形となったため角の先が突き刺さる事こそ避けたが、平たいアニミスの頭が打ち付けられる。強靱な胸板があるとはいえ、あまりにも強い打撃を受ければ衝撃は内部にまで伝わるものだ。大烏は顔を顰め、その苦しみをアニミスに見せた。

 この攻撃は有効らしい。ならばもう一撃喰らわせてやろうと考えるアニミスだったが、大烏からすればもう一発もらうなどお断りである。

 アニミスが次の頭突きの準備を終えるよりも早く、大烏は爪をアニミスから引き抜き、大きく羽ばたいてその身を浮かび上がらせた。浮上のための羽ばたきは強風を起こし、アニミスを僅かながら怯ませる。

 アニミスの身動きを封じた大烏は、素早くアニミスから距離を取ろうとした。アニミスはこれを邪魔すべく噛み付こうとして咄嗟に頭を前へと突き出すが、草食動物のおちょぼ口では羽根を数枚引き千切るのが精いっぱい。大烏は悠々とアニミスとの距離を開ける。

 しかし離れ過ぎる事もない。アニミスが闘志で燃えているように、大烏の方も戦意は衰えていないのだ。

 距離を取った大烏は空を飛んでぐるりとアニミスの背後へと回り込み、その背中に乗ろうとする。アニミスは素早く身を翻し、その勢いを利用して角を振り回した。大烏はこの角を警戒して接近を止めるが、アニミスと向き合うや鋭い爪で顔を引っ掻こうとする。その一撃はアニミスの顔に薄い傷は付けたものの、致命傷と呼ぶには程遠いものだった。

 されど煩わしい怪我でもある。怒りに任せてアニミスは頭を振り回し、その切っ先が大烏の翼を掠めた。羽根が何枚か切れ、皮膚が薄く傷付いたものの、それ以上の怪我ではない。大烏が更に高く飛び上がれば、角による攻撃も届かなくなってしまう。跳躍して追撃を試みるが、一度アニミスの脚力を見ている大烏は危機を察知して後退。攻撃は空振りに終わった。尤も、大烏の爪と嘴も届かなくなったが。

 攻撃の手段を失い、両者は睨み合う。ほんの一時訪れた戦いの合間に、アニミスは目まぐるしく思考を巡らせた。

 今のところ勝ち筋が見えない。

 強過ぎて歯が立たない、という意味ではない。こちらが殴り付ければ相手は呻くし、角を振り回せば切り傷を付けられる。胸筋の頑強さは厄介だが、逆に言えばあの胸筋以外はさして頑丈ではなさそうだ。だから胸以外、例えば頭は腰の辺りに渾身の攻撃を当てれば、あの大烏に大きな打撃を与える事が出来るだろう。足や嘴をへし折れば攻撃手段はなくなるし、翼を切り裂けば地面に落とせる。胸についても角さえ突き刺せたなら、仕留めるのに十分な傷を負わせられる筈だ。

 問題は、相手が中々こちらの射程圏内に入ってくれないという点である。

 空を飛び回るあの大烏は、こちらの追撃を容易に躱せる。どれだけ力を込めて頭を振り回しても、当たらなければ自分が疲れるだけだ。前脚による一撃も、届かなければただの地団駄でしかない。

 つまり決め手がないのだ。身体の重さと頑強さを思えば、アニミスの方が体力では勝るだろう。持久戦に持ち込めばいずれ向こうが先に疲れ果て、諦めて逃げ出すか、或いは大きな隙を見せる筈だ。逃げれば言うまでもなく自分の勝ちであり、隙を見せたならやはり止めを打ち込めるので自分の勝ちになるとアニミスは考えるが……大烏は未だ疲労の色を見せていない。むしろ肉体に張りが出て、一層強い覇気を発しているようにアニミスには感じられた。

 今し方繰り広げた戦いも、大烏にとっては準備体操ぐらいにしかなっていないのだろう。無論アニミスにとっても、今のやり取りでようやく身体が温まった程度の感覚だ。しかし圧倒的有利という訳でもない。大烏の方が体力に劣っているといってもあくまで相対的な話に過ぎず、このまま戦い続けてもすぐにバテてしまうほど柔ではないという事である。持久戦に持ち込んでも決着は中々付かず、下手をすれば夜中まで掛かるかも知れない。

 幸いにして大烏の攻撃手段は爪や嘴など、鋭くはあるが小さな傷しか付けられない攻撃ばかり。しかもこちらの手痛い一撃を避けるため、あまり肉薄は出来ないだろう。こちらだけでなく、大烏の方も決め手に欠いている。だから持久戦に持ち込むのは容易だ。

 アニミスはそう思っていた。

 ――――もしもあとほんの少しだけ強敵との戦闘経験を積んでいたならが、アニミスは気付けたかも知れない。敵もまた自分と同じように思索し、勝利への道筋を立てているという、ごく当たり前ながら見落としがちな観点に。

 大烏も勝利を求めた事で、体力面の不利と、自らの嘴や爪ではアニミスに致命傷を与えるのは難しいと気付いただろう。気付いたが、それでも尚おめおめと逃げ出さないという事は……『奥の手』があるという意味に他ならない。

 大烏はふわりと、高度を上げるように飛び上がる。しかし遠く離れていく事はなく、アニミスでは届かぬ位置まで上がったというだけ。そこで胸が膨れ上がるほど大きく息を吸い込み、

「グガアアァッ!」

 短く一鳴きした。

 直後、アニミスの全身に殴られたかのような衝撃が走る!

「クキュッ!? キュオッ……!」

 突然の衝撃にアニミスは呻き、膝を付く。致命的なものではない、が、アニミスの頭を混乱が埋め尽くす。

 何故自分の身体に、こんな衝撃が走ったのか?

 顔を上げてみたが、大烏は一鳴きする前と同じ位置を飛んでいた。目にも留まらぬ速さで体当たり、という訳ではないらしい。そもそもただ蹴られたり啄まれたりしたのなら、全身が殴られたように感じるものではないだろう。

 何かがおかしい。理屈はなくとも本能的にそう感じたアニミスは、大烏を観察するように凝視。大烏はアニミスの目論見に気付いていないのか、それとも気にも留めていないのか。アニミスが注視している中でも隠す素振りもなく再び息を吸い込み、

 アニミスの目の前で、を吐き出した。

 空気というのは本来目に見えるものではない。しかし大烏の口から吐き出されたそれは大気を揺らがせ、漂う埃が高速で飛ぶ時に線のような軌道を作り……注意深く観察すれば、空気の通り道が微かに目視出来る。

 その空気の流れがアニミスにぶつかった時、アニミスの身体に強烈な打撃が加わった!

「キュッ……!」

 来ると分かっていたがために全身の筋肉を張り詰めさせ、守りを固めていたアニミス。お陰で先程より被害は小さかったが、殴られたような打撃にまたしても声が漏れる。広い範囲の筋肉が強く痛み、負った傷が決して無視出来るものではないと理解した。

 それでも、得られたものは大きい。

 風だ。尋常でない密度と速さの。

 大烏は巨体に見合った肺活量を有していた。そうして吸い込んだ空気を、胸筋の力によって一気に吐き出す。空気とはいえ多少の質量はあるのだ。高速でぶつけられたならそこそこの打撃力を持つようになる。

 アニミスが足下をちらりと見れば、足場である大岩が僅かに削れているのが確認出来た。大烏の吐き出す風は、岩をも砕く破壊力という事だ。爪や嘴よりも強力な技であり、何回も喰らえばアニミスの強靱な肉体といえども危険だろう。

 しかし何より厄介なのは、その射程距離である。

 大空を飛ぶ大烏に、アニミスの角は届かない。だが大烏が発する暴力の風は、アニミスに問題なく届く。

 つまり大烏は一方的にこちらを嬲れるという事。持久戦に持ち込めば勝てるというのは甘い考えどころか、最初から破綻している作戦だったのだ。

「グガアアアアアアアアアアッ!」

 アニミスが事態の深刻さに気付いた、そのずっと前から大烏は自らの優勢を悟っていたのか。一層大きな咆哮と共に、更に強力な暴風を放つ!

 アニミスはこれにひたすら耐えるしかない。仮に背を向けて走り出したとして、逃げられるのだろうか? 機動力では空を飛べる大烏の方が遥かに上回っているし、暴風は射程の長さ故にちょっと引き離したところでどうにもならない。

 そもそも今更屈服の意思を示したところで、大烏は自分を見逃さないとアニミスは思った。

 何しろ大烏の瞳は、殺意と敵意に満ち溢れているのだから。

「グガアアアアアアアッ! ガアアアアアアアアアッ!」

 大烏は雄叫びと共に、何度も何度も暴風を浴びせてくる。勝利を確信したのだろう。心なしかその顔には笑みが浮かんでいるようだ。

 一方のアニミスは、その場で蹲ってしまう。動けず、じっとしている事しか出来ない。皮の下では打撲による内出血が起き、傷みに強いアニミスの身体にじゅくじゅくとした鈍痛が走る。痛みとは身体が発する危険信号であり、全身が痛むという事は身体がかなり危険な状態だという証。

 ゆっくりと、着実に迫り来る生命の危機。しかしアニミスの顔に、絶望の感情は表れない。ましてや屈服なんて微塵も考えていなかった。

 そして彼女は、己の身に力を滾らせていく。

 空を飛ぶ『羽虫』をアニミスはギョロリと睨み付ける。

 怒りと覇気に満ちた、何一つ諦めていない目付きを作りながら……

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