空からの来客

 山と一言でいっても、場所によってその気候にはばらつきがある。

 例えばアニミスが普段暮らしている山の頂上付近は気温が非常に低く、樹木が育つ事の出来ない環境となっている。そのため大地を埋め尽くすのはどれも草だ。しかし標高が下がるほど気温が上がるため、樹木の生育が可能になり、中腹辺りでは疎らながら木々が並ぶようになる。生えている植物の種類も変化し、山頂では見られないものが色々と見られた。

 そうした植物を手当たり次第口に咥え、咀嚼し、味を堪能し――――

「ベッ!」

 アニミスは吐き捨てていた。

 今し方食べた草は若葉のような色合いをしており、実際若葉のように柔らかかっま。味は微かな苦みはあるものの、若葉の香りがあるので悪くはない……が、舌触りが酷過ぎる。分厚く頑強なアニミスの舌が傷だらけになりそうなぐらいザラザラしていた。

 この草は食べられないと覚えたアニミスは、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 続いて黄色い花を咲かせている他の草を食べようとした、が、花から漂う悪臭に気付いて止めた。まるで糞のような臭いだ。アニミスの印象を保証するかのように、ハエが花の周りを飛び交い群がっている。こんなものを口に含んだ日には、他の食べ物がみんな糞のような臭いになってしまう。

 その傍にある蔓植物を咥えたところ、唇にチクリと痛みが走る。どうやら小さなトゲが生えているらしい。我慢して食べてみたが、汁が苦くて美味しくない。蔓植物が巻き付いている草も齧ったが、こちらの汁はもっと苦い上にべたべたしていた。しかも臭い。地面を這うように生えている草を見付けて咥えたが、これはなんの味もしない有り様。他よりマシといえばマシだが、わざわざ探して食べる気にもならない。

 食べても食べてもろくなものが当たらず、苛立ったアニミスは近くの草を蹴散らす。潜んでいた虫達がわっと飛び出し、ぶつかってきた虫の衝撃がこそばゆくてまた腹が立つ。アニミスはどんどん不機嫌になっていた。

 山の中腹近くまで降りてきたアニミスだったが、この辺りの植物で美味なものは中々見付からなかった。どの植物も極端に硬いか、極端に不味いか、極端に舌触りが悪いか。他は及第点なのに、一ヶ所の失点だけで帳消しを通り越して不合格になってしまう。単純な『不味さ』でいえば、山頂よりも此処ら中腹の方が酷いぐらいだとアニミスは感じていた。

 その不味さには理由がある。気温が低い山頂よりも、この中腹付近の方が生物相は豊かであった。そのため喰うか喰われるかの生存競争が厳しく、植物達は身を守るため様々な方法を進化させたのである。山頂は環境が過酷な分外敵も少ないため、その地に生える植物達は身を守るための術をあまり進化させなかった ― 或いは無駄なものとして退化させた ― のである。その結果味という点に限れば、山頂の植物の方が上だった。

 合理的に考えるなら此処で食べ物を探しても、過酷な競争に勝ち抜いた強者ゲテモノばかり。さっさと山頂に戻るのが得策だろう。しかし何故不味いものばかりに当たるのか、その理由を知らないアニミスに「さっさと引き上げるべき」なんて考えはない。苛立ちながら歩き、辺りを見渡す。

 此処らでは虫や鳥が山頂とは比較にならないほどたくさん飛び交っており、アニミスの視界を頻繁に横切っていった。虫の中には飛ぶのが下手なのか、アニミスの顔面に激突してくるものもいる。「鬱陶しいなぁ」と思いつつ、追い払うのも面倒なのでアニミスはそれらを無視した。

 もしもアニミスに人間のような知性があれば、気付いたかも知れない。山の中腹に位置するこの地で、麓で生活しているような鳥や虫を何故か頻繁に目にすると。

 理由は麓で行われている、人間達による開拓だ。夏を迎えた頃になって、アニミスの故郷である麓の森は更に切り拓かれていた。森の傍にある小さな集落は更に発展し、森から大量の木々を搬出している。伐採した跡地は開墾されて畑に変わっている。畑や人里に適応出来る種にとっては天敵のいない心地良い環境であるが、森に暮らしていた生物の大半はそうではない。生きる場を追われた森の動物達は少しでも自然のある場所を求め、一部が人の立ち入らないこの山へと逃げ込んできていたのである。

 人間達は余程森の木が気に入ったのか、それとももう此処ぐらいしか木が残っていないのか。いずれにせよ尋常でない速さの伐採だ。このままでは今年の冬が来る頃には、森の木々は殆どなくなっているかも知れない。

 それはアニミスからすれば故郷が消えるという事に他ならない。尤もそんなのは『故郷』という概念があるから気になる話である。自分の産まれた場所に大した価値を見出さないアニミスにとって、今の住処ではない森の姿に感傷など抱かなかった。

 それよりも気になる事がある。

 当てもなく歩き回っていたところ、鼻先を良い香りがくすぐったのだ。匂いが良いからといって、味が良いものとは限らない。しかし今回鼻をくすぐった香りは甘いもの。甘い香りがするものは、大抵食べても甘い事をアニミスは知っていた。

 勿論例外はあるが、此処であれこれ考えても結論は出ない。アニミスは匂いを辿るように歩き出す。不味い植物ばかり食べていたので、この甘い匂いに強い期待を抱いた。

 つまるところアニミスは漂う香りに夢中だったのである。そのため色々な感覚が疎かになっており、普段ならば……もしかしたら気付けたかも知れない事を見落とした。

 例えば山の麓からやってくる微かな、そして恐ろしく強い、なんらかの気配さえも――――

 ……………

 ………

 …

 歩けば歩くほど、甘い香りは強くなってくる。

 その強い香りは、アニミスの期待だけでなく食欲も刺激した。口の中には涎が溢れ、息を吐くために開けた隙間からだらだらと流れる。欲求が強まるほど無意識に足の動きは加速していき、今やアニミスはちょっとした駆け足で山を進んでいた。

 香りは中腹の中でもやや高い位置から、下るようにやってきている。必然山を登る形になった。大きな岩が地面を埋め尽くすように転がり、人間ではそれなりに鍛錬を積んだ身でなければ危険な道のり。しかし今や森よりも山で暮らしていた時間の方が長くなったアニミスからすれば、特段険しくない道である。空腹で少々体力が減っていても、この程度は楽々と進む事が出来た。

 大岩を幾度も跳び越え、ついにアニミスは香りの正体を見付ける。

 それは大きな木だった。山頂では見掛けぬ種であり、尚且つアニミスが降り立った中腹でも見付からない……山頂と中腹の狭間付近にある、大岩がごろごろと転がるこの地帯にだけ生えている種のようだ。高さはアニミスの背丈の何倍もあり、一番地面に近い枝葉でも首を伸ばさねば届きそうにない。濃い緑色の葉を茂らせており、非常にたくさんの枝を四方八方に広げている。同種らしき木は他にもあったが、それぞれの間隔はかなり広く、アニミスが見渡せる範囲にはたったの六本しか生えていなかった。

 そして真っ赤な実を付けているのは、この辺りでは一本だけ。

 他の木にも実は成っているが、未だ緑色をしている。見付けた木が偶々早熟なのか、或いは栄養条件が良かったのか。細かい理由は、アニミスは特に考えなかった。そんなうんちくなんかよりも大事に夢中だからだ。

 赤い実は食べられるし、甘くて美味しいもの。

 親からそのような知識は教わっていないが、アニミスは赤い果実の『価値』を理解する。植物にとって動物は、『糖質果実』という代金と引き替えに、遠くまで種を運んでくれる便利な乗り物だ。その契約関係はアニミスの本能にも刻まれていたのである。

 強い食欲を覚えたアニミスは木に近寄る。

 果実は木の至る所に実っており、アニミスの背丈では届かないものも少なくないが、一番地面に近い位置にある枝に生ったものならば届く。果実の一粒一粒は小さなものだが、その分数は膨大。巨体を持つアニミスでも流石に食べきれそうにない。

 首を伸ばしたアニミスは、一粒、果実を口先で摘まんで食べる。草食動物らしい平らな歯で磨り潰し、溢れ出た汁の味をじっくりと吟味した。

 かなり酸っぱい。

 けれども同じぐらい、甘い。

 純粋に甘い方がアニミスの好みであるが、この果物の味でもアニミスの機嫌を直すには十分なものだった。美味しいと分かれば躊躇いは必要なく、次々と木の実を食べていく。噛み潰す度に口を満たす酸味と甘さが更なる食欲を促した。

 果実には活力となる糖質のみならず、アニミスの身体に不足していた様々な栄養素が含まれていた。栄養素はアニミスの身体にすぐ染み込み、血流に乗って必要な場所へ運ばれていく。疲労が急速に回復していき、苛立ちに塗れていた頭もスッキリと冴え渡る。

 気分上々体調良好。アニミスは止まらない食欲に従い、どんどん果実を平らげる。食べきれそうにないという先程の印象を塗り潰すかの如く、全て喰い尽くすような勢いで食べ続けて――――

 そんな平穏に浸っていた、丁度その瞬間の事だ。

 突如として、背後に強い『気配』が現れたのだ。『気配』の正体は不明だが、アニミスの身体はアニミス自身が考えるよりも早くその場から跳び退く。すると何か大きな影が、アニミスが先程まで居た場所を高速で通り過ぎ……浮かび上がる。

 奇襲を回避したアニミスは、すぐに空を見上げた。

 頭上を高速で、大きな弧を描くように飛んでいる影がある。大きくて頑強そうな翼を二枚持ち、大きな足には鋭い爪が付いていた。頭には獰猛な眼光を放つ眼差しと、ナイフのように鋭く巨大な嘴がある。身を包む羽毛は全てが真っ黒で、青空によく映える姿をしていた。

 この生物は人間から大烏おおがらすと呼ばれている鳥類だ。しかも通常ならば人間と同程度の大きさのところ、コイツはその三倍近く――――身体の部分だけでもアミニスよりも大きな、超特大の大烏である。翼を広げた大きさは更にその三倍はあるだろう。

 大烏そのものはアニミスも森で暮らしていた頃見た事があるが、これほど大きなものは始めて。空を飛んでいる、というのも陸を走り回るアニミスには信じられない。呆然とその姿を見つめてしまう。

 すると大烏は見せ付けるようにアニミスの前で大袈裟に旋回し、やがて赤い木の実を付けた樹木のてっぺんに止まった。そこからアニミスを見下ろすように睨み付けてくる。我に返ったアニミスも睨み返すが、大烏は退く気配すらない。

「グアアアアアアアアアアアッ!」

 それどころか大烏は麓にまで届きそうな大声で鳴き、アニミスを威嚇してきた。

 アニミスは理解した。この大烏の目的は、甘くて美味しい果実が生るこの木から自分を遠ざける事であると。

 つまりこの木を、自分だけのものにするつもりなのだ。

「……………」

 アニミスはじっと大烏を見つめる。

 トラという強敵と出会い、経験を積んだアニミスは理解する……この大烏は強い。少なくとも春に戦ったトラと同じぐらいか、もしかするとそれ以上に。

 大烏もこちらの実力は把握しているのだろう。でなければ背後から奇襲し、威嚇をしてくる筈がない。実力が大きく勝っているのなら容赦なく踏み潰してくるだろうし、劣っているのならわたわたと逃げ出しているに違いないのだから。自分という『圧倒的強者』がそう振る舞えば、キツネや猛禽類といった圧倒的弱者は我先に逃げ出す事をアニミスは知っていた。

 この大烏と戦うのなら、相当激しい争いを覚悟せねばなるまい。負ければ死ぬかも知れないし、勝っても酷い怪我をする可能性がある。

 けれども争った末に得られるのは、美味しい実の生った木が一本だけ。

 満腹ではないものの、今日を生き抜くのに十分な量はもう食べた。ここで帰っても、アニミスに損はない。それに他の木にも果実は生っており、もう少し月日が流れれば、此処いらが真っ赤に染まるぐらい実が一斉に熟すだろう。そうなれば大烏は一本の木を大事に守る必要がなくなり、追い払われなくなったアニミスは心ゆくまで果実を食べられるようになる筈だ。いや、そこまで待たずとも、また明日この大烏が留守にしている間にちょちょいと頂けば良い。

 少なくとも今日、アニミスがこの木の果実に拘る必要はない。

 アニミスは背を向け、果実の生る木から離れていく。大烏は離れていくアニミスを見て上機嫌に鼻を鳴らした

 その直後の事である。

 アニミスがくるりと振り向くや、実が生る木へと突撃を始めたのは!

 アニミスの突然の行動に、大烏も反応出来なかったらしい。その身を僅かに強張らせる事しか出来ず――――アニミスの頭が木に激突するのを邪魔出来なかった。

 一切の躊躇がないアニミスの突進を受け、木は激しく揺れた。大烏は翼を羽ばたかせて空へと飛び上がり、木から大きく離れる。

 その大烏の前でアニミスが行ったのは、堂々と木の実を食べる事。大烏を嘲笑うようにじっくりと、好きなようにその甘みを堪能する。

 確かに、今この木を確保する理由はない。

 しかしアニミスはもっとこの木の実を食べたかった。明日も明後日も、食べたい時に食べたいだけ食べたかった。未来がどうだとか、今の利益がなんだとか、そんな事はどうでも良い。

 この木は自分のもの。

 それをこの『鳥』に徹底的に分からせるだけだ!

「……グガアアアアアッ!」

 アニミスの意図を本能から理解したのだろう。大烏は野太く勇ましい声を上げながら、アニミスを睨み付けた。

 大きくその翼を羽ばたかせているが、アニミスから離れていくような気配はない。向こうもアニミスと同じく、この木を我が物とするまで退くつもりはないのだろう。

 幾つかの果実を食べてから、アニミスは木から離れて大烏と向き合う。頭を下げ、全身の筋肉に力を込めた。

 腹ごなしには丁度良い。

 言語能力があればそのような事を思ったであろう、適度な興奮状態に入ったアニミスは、大烏目掛け躊躇なく駆け出すのだった。

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