夏の憂鬱

 退屈だ。

 アニミスは寝床として使っている真っ暗な洞窟の中で座り込んだまま、人間の言葉に直すと大凡このような意味合いになる思考を抱いた。

 トラとの戦いから月日は流れ、山は夏を迎えた。

 育ち盛りであるアニミスの身体は、春と比べてまた一回り大きくなっている。トラとの死闘により刻まれた傷はすっかり塞がり、勲章のように全身の至る所に刻まれていた。大半の人間、特に女性にとって消えない傷というのは忌むべきものであるが、雌とはいえ鹿であるアニミスにそのような考えはない。むしろ塞がった傷跡は他の皮膚よりも弾力と硬さがあり、身を守る上で好都合であるように感じていた。その皮の下にある筋肉も著しく発達し、より頑強な身体付きとなっている。

 数ヶ月前に繰り広げたトラとの戦いの傷や疲れやらは、今ではもう何も残っていない。むしろあの時の経験により、一層の成長を遂げた。身体機能的には何かするのに問題はない。

 問題はないのだが……アニミスはちらりと、外へと繋がる洞窟の入口に視線を向ける。

 洞窟の外では、ざあざあと音を立てるほどの勢いで雨が降っていた。

 雨はかなりの激しさで、洞窟の入口の上部からは川のように水が流れ落ちている。洞窟の中にも水は流れ込んでいて、小さな川が出来上がっていた。トラ相手に真っ向勝負を挑み、見事打ち破ったアニミス。しかしそんなアニミスでも濡れるのは嫌なので、流れこむ雨水から逃げるため洞窟の隅に逃げ込んでいる。

 同居人であるユキネズミ達も水は嫌いなようで、無数のユキネズミがアニミスの背中に乗っていた。背中が埋め尽くされるほど乗られると流石に重いし暑苦しいのだが、追い払ったところでしばらくすると戻ってくる。いっそ踏み潰せば、とも思うのだが、逃げ足が速い上に数が多くてきりがない。我慢出来ないほど辛くもないので、アニミスは渋々ユキネズミ達を無視していた。

 重たさと熱さの中、アニミスはぼんやりと洞窟の外を眺める。

 この雨はもう十日も続いていた。確かにこの地域の夏は一年の中で最も雨量が多いのだが、こうも連日降られるのは珍しい。珍しいだけで全くない訳ではないので、ただの『お天道様の気紛れ』なのだが。

 ネジレオオツノジカは、あまり雨を得意としない。身体を覆う毛には油分が多いため水を弾くが、大雨の中に何時間居ても元気はつらつというものではないのだ。雨が降ったなら、最低限の食事の時間以外は素直に雨宿りする。それがネジレオオツノジカとしては正しい暮らし方だ。

 故にアニミスもその習性に則り、雨の日は大人しくしている。一日ぐらいならどうという事もない。しかしこうも雨続きだと、鹿らしからぬやんちゃな性格に育ってしまった彼女にとっては大変不愉快なものであった。

 これで食べ物が美味しければ、まだ我慢のしようもあるのだが……夏も盛りを迎えた山の食糧事情は、決して良いものではない。

 冬の間は凍るほどの低温に耐えるため、多くの植物が糖質を蓄えていた。春には子孫を残すために、栄養満点の花が咲き誇った。どちらもアニミスにとって美味なるものであり、尚且つ潤沢にあるものだった。

 ところが夏の盛りには、これらがない。

 春の内に花は咲き終え、役目を終えた大きな株は皆枯れてしまった。その後迎えた初夏では、柔らかくて美味しい新芽が一斉に芽吹いてアニミスを満足させたが……夏盛りになった今、新芽達は硬くてボロボロな『大人』になっている。しかも甘くない。この季節の植物達は身体を大きくするため、作った糖質を片っ端から消費しているからだ。

 おまけに夏は大量発生する虫を寄せ付けないため、植物達は葉や茎に、冬や春とは比較にならないほど多量の有毒成分を含んでいた。それらの毒はアニミスを死に至らしめるような代物ではないのだが、基本的には苦味となってアニミスの舌を刺激する。ちょっと苦いぐらいならまだ楽しめるが、凄く苦いものは避けたいところ。

 唯一好ましい食物は、アニミス含めた動物達が食べた後、植物が損傷を補うべく生やす新芽ぐらいだ。この新芽なら柔らかくて、春先のものほどではないがそこそこ美味しい……のだが、残念ながらこれは数が少ない。一日中探し回っても到底腹を満たせないだろう。そのためどうしても主食は古くて硬い葉になってしまう。

 こうした理由から、ここ最近のアニミスは充実した食生活を送れていなかった。外で遊べない上に食べ物も良くなくては、機嫌も悪くなるというものである。

 これはアニミスの身体にとっても、決して好ましい事態ではない。味覚というのは食事を楽しむためにある訳ではなく、快・不快によって食べるべきものを選別するための機能である。例えば人間の場合、強い酸味のあるものが一般的に好まれないのは、そうした食べ物は腐敗している可能性が高いからだ。強い苦みや渋みは毒物という判断になる。人間の場合学問や文化によりこうした本能の警告を『美食』として判断出来るが、知識がない野生においては味覚こそが食べられるものの指標なのだ。

 生物というものは、基本的には好きなものだけ食べていれば生きていける。逆に嫌いなものを食べ続ける事は文字通り生命の危機に瀕する事もあるし、そこまでではなくとも毒の分解で体力を消耗するのは非効率だ。

 美味なるもの、即ち今の自分の身体に適した食べ物を探した方が良い。

 アニミスにこうした理論はとんと分からないが、何億年と進化を積み重ねた彼女の身体はそのための衝動を引き起こす。本能がぎっしりと詰め込まれた脳から様々な物質が出て、強力に食欲と冒険心を刺激するのだ――――等と小難しい事を語れども、実体は要するに「美味しいもの食べたいなぁ」と思わせるだけ。

 しかし野生の獣であるアミニスに、この衝動を我慢するような理性はない。

「……………」

 のそりと、アニミスは立ち上がる。ユキネズミ達は驚いたように跳ね、慌ててアニミスから降りていく。

 軽くなった背中をぶるんと振って、気分を一新したアニミスは再度洞窟の外を眺める。

 考え込んでいる間に、雨は止んでいた。空から降り注ぐ光が洞窟内に射し込み、空を覆い尽くしていた雨雲が急速に薄れていく。このまま一気に晴れるだろう。

 アニミスは洞窟の入口へと向かい、全身は出さずに首を長く伸ばして外の景色を見る。別段何かを警戒しているのではなく、単に身体全体が外に出るまで動くのが億劫なだけ。もしも今が夕方近くなら、流石に今日はもう洞窟の中に引き籠もって寝るしかないからだ。

 しかし外に見える太陽は、まだまだ東側の空で輝いていた。

 この世界では太陽が上る方角を東と呼び、沈む方角を西と呼ぶ。東に太陽が輝く時は朝方であり、多くの昼行性動物が活動を始める時間帯だ。アニミス達ネジレオオツノジカにとっても同じである。

 そしてアニミスの腹が、ぐるると猛獣のように鳴った。

 アニミスは軽やかな足取りで洞窟の外へと出た。雨上がりの外はひんやりとしていたが、空から降り注ぐ日差しは夏らしい強さがある。陽光は時間が過ぎるほどにどんどん強くなり、気温は一気に上がっていく事をアニミスの本能は悟った。

 迷う必要はない。

「キュオオオオオオンッ!」

 久しぶりに見た晴れ間に向けて、アニミスは歓喜に満ちた声で鳴く。

 軽やかな足取りで山を駆け出した彼女は、足下に生い茂る苦い葉を踏み付けながら当てもなく山を下りるのだった。

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