発覚

 大烏が全く動かなくなったのを見てから、アニミスは膝を付いた。

 大烏の風による攻撃はアニミスの全身に深い傷を与えており、酷い痛みを感じさせる。じわじわとした痛みが全身くまなく広がり、筋肉には刺さるように鋭い痛みが走った。体力も使い果たしており、回復にはかなりの時間が掛かるだろう。

 アニミスは本能的にそれを理解している。激しく呼吸をし、多くの空気を取り入れるのも、本能的に体力と傷の回復を試みている結果だ。しばしの間安静にし、休息に勤しむべきである。

 しかしアニミスは、数分も経たずに立ち上がる。

 身体は未だ痛い。大烏を怯ませるため血を噴かせた傷跡は未だ開いており、どくどくと鮮血が染み出している。少し血が流れ過ぎたのか頭がぐらぐらと、揺さぶられているような感覚に陥っていた。立ち上がり、動き回るには早過ぎる状態だ。

 それでもアニミスはやりたかったのだ。

「キュオオオオオオオオォォォォンッ!」

 勝利の雄叫びを。

 山の全域に響き渡るような、透き通った雄叫び。自らの勝利を山に棲まう全ての生き物に告げたアニミスは、傷付いた身体を引きずるように移動させる。

 辿り着いたのは、果実の付いた巨木の正面。

 大烏との戦いにより勝ち取った、この戦いの『報酬』だ。流石に今は食べる気などないし、すぐ傍まで近寄る体力もない。しかし回復次第この木に実る全てを自由に食べられる。アニミスはその感傷に浸ろうとしたのだ。邪魔するモノはもういやしないのだから。

 そう、邪魔者はいない。

 アニミスの手により、大烏は討ち取られた。大地に叩き付け、岩が砕けるほどの衝撃を受けたならば……死んでいてもおかしくない。事実のたうつように暴れた後、大烏はぴくりとも動かなくなった。山で何度も見た、キツネに内臓を噛み砕かれたネズミのような姿だった。

 獣であるアニミスは、他者の命を奪う事に罪悪感など覚えない。大事なのは自分の命であり、他の事などどうでも良いのだから。むしろ勝者となったアニミスは、その勝利の実感をもう一度味わうべく、自分が作った骸の方へと振り向いた。

 振り向いたのだが……大烏の姿が見当たらない。

「……? ……キュ?」

 アニミスは辺りを見渡した。

 アニミスに匹敵するほどの巨体がちょっとやそっとの風で転がっていく筈がないし、万一そんな風が吹いたならばアニミスも気付くだろう。されど何処を見ても大烏は姿形もない。アニミスには訳が分からず、混乱から動きが止まった

 そんな時である。

「ガァゴォォーッ! ガァゴォー!」

 アニミスの頭上から声が聞こえた。

 続いて、べちゃりと何かがアニミスの頭に落ちてきた。だらだらと垂れてくる臭い汁は……鳥の糞。

 アニミスは空を見上げる。

 ただそれだけで、アニミスは大空を覆わんばかりに翼を広げた――――大烏の姿を目の当たりに出来た。

 大烏は生きていたのだ。いや、死んだふりをしていたと言うべきか。恐らくアニミスの一撃を受けた後、反撃するほどの力が残っていなかったので、体力が回復するまで誤魔化していたのだろう。そしてアニミスが木の方に意識を向けて、飛び立てるチャンスがやってきたので静かに離陸。流石に奇襲を仕掛けるほどの体力はなかったが、それでもむざむざ逃げ帰るのも癪だったのか。ぷりっと出した糞による爆撃をお見舞いした……という訳だ。

「キュオ!? キュオォォォンッ! キュオォォォォーン!」

「ガァーガッガッガッ!」

 アニミスが怒りのまま叫んでも、大烏は笑うように鳴くだけ。糞による爆撃が成功すればもう気が済んだのか、大烏はそのまま遠くに飛んでいってしまう。

 アニミスと同等以上の怪我を負っている筈なのだが、大烏の飛行速度はかなり速い。アニミスが万全の体勢だったとしても、引き離されないようにするのが精いっぱいだろう。傷付いた身体では追い付くなど絶対に無理だ。

 アニミスは頭を振り、落とされた置き土産を振り払う。臭いまでは流石に取れないが、頭の上に広がるぐちゃっとした感覚は取り除けたので良しとした。獣であるアニミスに、鳥の糞が身体に付いた事そのものへの嫌悪は殆どないのである。何処かで水溜まりを見付けたら、その時水浴びすれば良いかとしか思っていない。

 アニミスは再び腰を下ろし、一息吐く。そよ風に鳥の糞の臭いが混ざるので、気分は良くないが……静かな大自然の中で興奮した心身を少しずつ休めていった。

 そうして気分が良くなると、段々と眠気が強くなる。

 しかし寝床までは遠い。時刻はまだ早く、仮に此処で居眠りしたとして、ちょっと寝過ごしても真夜中前には起きられるだろう。食べ物はもう十分に食べたし、起きた時に小腹が空いたなら、それこそ手にした木の実を食べれば良い。

 なら、ここで昼寝をしても良いか。アニミスはそう思ってうつらうつらし初めて――――

 唐突にその目を見開いた。

 気配を感じる。

 強い気配ではない。数は恐らく一つ。距離も少し離れている。少なくともこの気配だけなら全く脅威ではなく、このまま無視して昼寝をしても問題ないと思わせる程度の代物だ。

 しかし嫌な予感がする。

 そもそもこの気配、何故自分をじっと観察しているのか? いや、それ以前にこの気配、山で感じた事がない類のものだ。一体『誰』が自分を見ているのか、全く分からない。

 正体ぐらいは確かめるべきか。少し考えた後アニミスは立ち上がり、気配がした方へ向けて歩き出す。

 気配がしたのは近くにあった大岩。人間三人分の巨躯を誇るアニミスでは隠れきれないが、アニミスの半分ほどの大きさならば十分身を隠せるだろうもの。距離を詰めるほどに、大岩の後ろに潜む何かの気配は強く感じられるようになり……

 アニミスがその正体を確かめるよりも前に、気配は大岩の影から逃げ出した。

 気配はどんどん遠くなっていく。足は、速くない。大烏の戦いにより傷付いた身体であっても、問題なく追い付けそうだ。しかしそうまでして追い駆ける必要があるかといえば、それほどの脅威は感じられない。

 何より怪我が酷いので、あまり動きたくなかった。

 アニミスは念のため岩の裏を覗き込めるところまで来たが、やはり岩の裏にはもうなんの生き物の姿もなかった。残っているのは臭いだけ。嗅いでみたところ、山ではこれまで感じた事がない……しかし何故か覚えがある……臭いだった。脅威なのか、安全なのか、これだけでは判断出来ない。

 考えたアニミスは、追うのが面倒臭かったのでそれ以上調べる事はしなかった。

「……フシュー……」

 アニミスは大きな鼻息を吐くと、またしてもその場に腰を下ろした。恐れるものは何もないとばかりに。

 そう、アニミスは知らないのだ。自分を脅かす力というものを。幼い頃に体験した恐怖は、記憶の奥底にしまわれてしまったのだから。

 それよりも今のアニミスにとって大事なのは。

 早いところ傷を癒やして、目の前に実る果物を、満腹になるまで食べられるようになる事だった……




 森の中を、一人の人間が駆けていた。

 人間は四十代半ばの中年男性。彼は猟師をしている。尤も彼が駆けているこの森には、彼がこれまで獲物としてきた動物はもう殆どいなかった。猛烈な勢いで伐採を続け、出てきた獣をひたすら銃で撃ち殺していれば、そうなるのは当然だ。

 何もかも自業自得なのだが、人間というのはこの世界で最も強欲な生き物である。獲物が消えた事を反省するどころか、次の獲物を探し求めていた。

 その獲物に選ばれた一種が、大烏。

 大烏の羽根は装飾品として高く売れる。そうと分かった一年ほど前から、大烏狩りが始まった。空を飛ぶ大烏に弓や剣で挑むのは自殺行為だが、銃ならば容易く仕留められる。この森の辺境の岩場に暮らしていた、僅か百羽の大烏を全滅させるのにさして時間は必要なかった。

 尤もただ一匹、大烏の中でも最大最強の奴だけは、まるで歯が立たずに捕らえられなかったが。

 とはいえそいつも銃の力と人間の数により、住処から逃げ出す事になった。最後の一羽となれば、その羽根はこれまで以上の高値となる。故にその行方が血眼になって捜索された。

 そして彼はついに大烏の行方を見付けた。大烏以上のお土産も一緒に。

 ネジレオオツノジカだ。角が霊薬として取引されるあの鹿の角は、大烏の羽根の何倍、いや何十倍もの価値がある。あの鹿を仕留めれば、一生遊んで暮らせる大金が手に入るだろう。

 しかしながら、大烏と鹿の戦いも彼は目にした。

 正直、なんだありゃ、という感想しか出てこない。あんな出鱈目な強さと凶暴さを持った鹿など、彼は見た事がなかった。銃で胸を撃ち抜いてもそのまま突撃してくるような、そんな恐ろしさを感じた。

 一人では勝ち目がない。ではどうする?

 簡単な話だ。人間の力は、強力な武器でもなければ知力でもない……仲間と協力し、力を合わせるという事。徒党を組めば例え石と枝しかなくとも巨獣や魔物を打ち倒せる事は、古の歴史が証明している。

 そして一攫千金のネタが二つもあるのだ。仲間なんて幾らでも集まる。仮に村の猟師全員……十五人で山分けしても、しばらくは遊んで暮らせるだけの金が手に入るのだろう。集めるのは簡単だし、金額もそれだけ得られれば十分。人間はこの世界で最も強欲だが、無理なものを求めて自爆するほど馬鹿でもないのだ。

「へへ……こりゃ待ち遠しい。もしかしたら一年前に逃がした、あの親鹿の子だったりしてな! 恩返しに来るとは、ほんと素敵な小鹿だぜ!」

 男は欲に塗れた言葉を漏らしながら、夜の森を走り続け――――

 その歩みを阻むモノは、もうこの森にはいなかった。

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