天敵
アニミスが『それ』を察知したのは、煩わしいキツネを蹴り上げて間もなくの事だった。
遙か彼方に、大きな『気配』がある。
アニミスはただの鹿であり、魔法や特殊能力は持ち合わせていない。しかし毎日小さなユキネズミ達と暖を取り合い、急変する山の環境に身を置き続けた結果、アニミスには気配を察知する感覚が養われていたのだ。気配とは要するに『力』であり、大きな力、例えば雷雲のようなものならかなり遠くにあっても察せられる。
即ち遥か彼方からでも感じられる気配の持ち主とは――――それだけ力の大きな存在であるという事を意味していた。姿が見えないのに強い気配を感じさせる『そいつ』は、少なくともキツネや猛禽類とは比較にならない存在なのだろう。
「チチッ!?」
「クゥーン……クゥーン」
アニミスに続きネズミが、ネズミの次はキツネと猛禽が、『そいつ』の存在に気付いたのか。それぞれが感じた恐怖を声という形で表現し、わたふたしながら逃げ出した。ユキネズミ達は捕食者の前に姿を現す事を厭わず、キツネや猛禽は現れた獲物に見向きもしない。どの生物も、やってくる強大な気配から離れる事を優先している。
誰もが恐れていた。
誰もが怯えていた。
例外は、その気配を感じてもなお身震い一つ起こさなかったアニミスのみ。
「……………」
アニミスは食事こそ止めたが、ヤマキャベの花畑から動こうとはしない。他の動物達が逃げ出した平地に静かに佇み、気配がする方をじっと見つめるのみ。
山の頂上に近いこの場所に、大きな木は生えていない。今は精々ヤマキャベの花があるだけで、背の低いネズミやキツネならば兎も角、アニミスほどの大きさがあれば足の付け根までしか隠れられないだろう。
故にアニミスは麓の方角からやってきた、自分に歩み寄る獣の姿がハッキリと確認出来た。
それはとても大柄な動物だった。人間の大人二人分の体重はあるだろうアニミスよりも、かなり大きいようだ。ガッチリとした体躯は黄金と黒の二色の毛で覆われ、四本の指が付いた両足で剥き出しの岩肌を軽快に進んでいる。その身体に付いている丸い頭はアニミスよりもずっと大きく、裂けるように開いた口からは大きな牙が見えた。丸い耳はピンッと立ち、鋭い瞳は見開かれ、どちらもアニミスの方を向いている。
それは人間達からイゼルトラと呼ばれている、獰猛で恐ろしい肉食動物だった。
この世に生を受けて一年、アニミスは初めてトラと出会った。アニミスは大きくなった自分に匹敵する巨躯の動物に、強い驚きを覚える。
対するトラが覚えているのは、食欲だろう。
トラは半開きにした口から、だらだらと涎を垂らしていた。アニミスの姿をハッキリと見るや、歩みを早めている。アニミスに狙いを付けたらしい。足下にはたくさんのヤマキャベが生えていたが、トラはそれらを踏み散らしながら突き進んでいた。花を付けた茎が次々とへし折られ、トラの辿った道が一直線であったと物語る。
飢えたトラ相手に棒立ちしていたらどうなるか? ある程度距離を詰められた瞬間跳び掛かられ、喉元に鋭い牙が突き刺さり、血管と骨を引き千切られて一瞬で殺される……これが自然の掟。ネジレオオツノジカにとってもトラは恐ろしい天敵である。それは単に牙や爪があるため強いというだけでなく、瞬発力にも優れるため、至近距離で襲われたなら逃げきる事も難しいからだ。生き残る術は出来るだけ早くトラを発見し、トラより僅かに上回る最高速度に捕まるより早く達し、相手が諦めるまで逃げる事だけ。
だからアニミスは動いた。
――――トラに向けて。
しかしそれはパニックに陥り、逃げる方角を間違えたからではない。アニミスはしっかりとした歩みで、自らの考えに則りトラが居る方へと突き進んでいた。自ら距離を詰めてくる
距離を詰めた両者は同時に立ち止まった。間合いは、ちょっと跳び掛かれば相手に届く程度。
やはりアニミスよりもトラの方が一回り以上大きい。そして半開きの口からは槍のように鋭い牙が、地面を踏み締める四本の脚には刃のように磨かれた爪がある。全身が他者を殺す事に特化した、『捕食者』の出で立ちをしていた。
対するアニミスの足先にあるのは丸みを帯びた蹄であり、切り裂いたり突き刺すのには向いていない。口の中にある歯は植物を磨り潰すのに特化した平たいものなので、噛み付きだって大した威力にはならないだろう。そもそも植物を効率的に磨り潰すためよく発達した頬があるので、噛み付くために口を大きく開くのが苦手だ。どうにかこうにか噛み付いたところで、薄皮一枚切り裂くのが精いっぱい。
身体付きからして、アニミスのそれは動物を殺すのに向いていない。そしてここまで接近されたなら、今更アニミスが背を向けて逃げてももう襲い。トラの瞬発力の方が、ネジレオオツノジカの加速度よりも上なのだから。
「ガアアアァッ!」
自らやってきた間抜けな獲物に、トラは大きな口を開けて襲い掛かった。どんな獣の皮でも貫く牙を剥き出しにし、アニミスの長い首を狙っている。迫り来るトラを前にして、アニミスは頭を下げ――――
「キュオッ!」
大きな鳴き声と共にその頭を振り上げた!
同時に、彼女の頭にある角もまた振るわれる! 角の描く軌道の先に居るのは……アニミスを襲おうとしていたトラ。
肉食動物に相応しい優秀さを持つトラの動体視力は、接近するアニミスの角をしかと捉えた事だろう。しかしもう襲い。跳び掛かろうとしたトラの全身は空を飛んでおり、トラに空中で動きを変えるような力はないのだから。
「ガブッ!?」
角の一撃を顔面に受け、トラは悲鳴を上げた。アニミスの捻れた角の先端は鋭利な槍のように鋭く、トラの額の肉が深く抉れる。
もしもトラの頭蓋骨が肉食獣らしい、大きな筋肉を支えるために分厚く固く発達したものでなければ、骨を砕いて角の先が脳まで達していたに違いない。目に当たればそのまま奥まで貫き、一撃で死に至った可能性もある。
トラは最悪こそ避けたが、しかし受けた衝撃は未だ消えていない。トラの身体は激しく吹き飛ばされ、ヤマキャベが生い茂る大地に落ちる。ヤマキャベの花弁を舞わせながら、肉食獣の巨体がごろごろと転がった。
どうにかトラは体勢を立て直し、再びアニミスと向き合うものの、アニミスとの距離は大きく開いてしまった。予期せぬ形で頭を揺さぶられたダメージもあり、僅かに身体が震えている。気持ち悪さも覚えているのか、開いた口からはだらだらと涎が出ていた。
いずれ回復するだろうが、すぐには走り出せまい。今こそトラから逃げるチャンスである。
「キュオオオオオオオオッ!」
されどアニミスは逃げず、トラに向けて野太い咆哮を上げた。あたかも、逃げるのは貴様の方だと言わんばかりに。
――――アニミスは、トラがどんな生物なのかを知らない。
本来、それは親から教わるものだった。どの動物を見たら逃げるのか、どのぐらいの距離に居たら危ないのか、どのぐらい必死に逃げるのか……そういったものを親の態度から覚えるのである。
しかしアニミスの親は、アニミスにそれを伝える前に死んだ。アニミスは大きな捕食者相手にどう接するのが正しいのか、何一つ知らない。
だから感情のまま行動する。
自分の大切な餌場であるこの平地に侵入し、あろう事か美味しい花を踏み付けながらやってきたコイツは許せない。恐ろしい牙? 鋭い爪? そんなのが一体なんだと言うのか。
自分はこの山で最強だ。
アニミスにはその自信があり、それを戒めるものはいない。これまでも、これからも。
「キュオオオオオオオオオオオオオンッ!」
甲高く勇ましい鳴き声を上げ、アニミスはトラを脅し付ける。地面を蹴るように蹄を鳴らし、どっしりとその場で構えた。
気高き誇りか、愚かな蛮勇か。それは結果論でのみ語られるものであり、少なくともトラにそれを判断するような知能はない。
ただこのトラの目には未だ激しい闘志が宿っていた。自分に立ち向かう草食動物への不気味さや苛立ちよりも、空いた腹から込み上がる虚無感が上回ったのだろう。
どちらにも退く気はない。ならばぶつかり合う以外にない。
両者が動き出すのに、さして時間は掛からなかった。
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