成長
アニミスが山を訪れて、半年の歳月が流れた。
大体十五年程度で性的な成熟を果たす ― あくまで身体の話であり、精神的・知識的な意味ではないが ― 人間にとって半年という月日は、決して長いものではないだろう。しかしネジレオオツノジカの成熟年齢は僅か三年。山に辿り着いた時生後半年だったアミニスにとってはこれまでの生涯と同じだけの時間であり、成長著しい時期でもあった。
そう、半年という期間はアニミスを大きく成長させていた。
燦々と朝日が降り注ぐ外の世界。半年前まであった雪は全て溶け、岩肌が露出した山の斜面をアニミスは駆け登っていた。しかしその姿に、半年前の面影はない。
か細く弱々しかった体躯は、今や太くて長い剛毛と屈強な筋肉に覆われていた。分厚い胸筋により胴体は丸太のように太くなり、発達した脚の筋肉はその大きな胴体を軽やかに運ぶ。分厚い蹄は転がる岩の表面を砕き、颯爽と大地を駆けるのに役立っていた。
頭からは二本の大きな角が生え、前への突き出す形で伸びている。長さはアニミスの頭ほどはあったが、まだまだこれは幼いもの。大人のネジレオオツノジカの角は、頭の三倍近い長さにまでなるのだから。されどその角を持つ頭部はすっかり大人の形になっており、凜々しい瞳で前を見据える。
成長したアニミスは、とても大きく、逞しくなっていた。体重に換算すれば、大人の人間二人分はあるだろうか。そして成熟した大人のネジレオオツノジカと比べても、同じぐらいの体躯となっている。にも拘わらずアニミスの身体は未だ成長を止めておらず、日に日に大きくなっていた。
元々彼女は大きくなる体質の持ち主だった、という事もある。されど僅か一年で大人に匹敵するサイズとなるのは、それは異様な事態でもあった。
理由は二つある。
一つはこの地に、多くの高栄養価の食物があったという事。例えばヤマキャベはたくさんの糖質以外にも様々な、動物が身体を作るのに必要な栄養を多分に含んでいた。雪の下には他にもたくさんの植物が隠れていたが、どれも冬を越すため、或いは雪解けと共に芽吹くため、たくさんの栄養を蓄えている。量も比較的豊富にあり、少なくともアニミス一頭だけであれば食には困らない状態だった。
二つ目の理由は、寝床にしている洞窟と食べ物が豊富な場所までそこそこ険しい道のりである事。坂道の上り下りは人間も鍛錬として行う行動の一つであり、毎日毎日その道を往復した彼女の肉体は大いに鍛え上げられた。
よく食べて、よく運動する――――単純な理由であるが、だからこそ積み重ねれば効果も大きい。付け加えると元々ネジレオオツノジカは餌の量により身体の大きさがかなり変わる体質の動物だという事も、アニミスが普通の個体よりも大型化した要因だと言えよう。
アニミスの身体を変えたのはこれだけではない。山の過酷な環境も、彼女の肉体に変化を及ぼした。
アニミスが暮らしていた秋から春までの半年間は昼間でも十度を上回らず、夕方には全てが凍り付くほどの極寒に見舞われていた。動物の身体も例外ではなく、そのためアニミスの身体も寒さへの適応を迫られたのである。本来左程長くならない体毛は平均の三倍も長く太くなり、しなやかな筈の身体には冷たさを遮断する脂肪がたっぷりと乗った。何度も凍傷を負った皮膚は再生を繰り返し、まるで鎧のような途方もない頑強さを手に入れている。
ここまで本来の姿から劇的に変化したのは、アニミスが程々に若かった事が原因である。成熟した大人は身体が完成しているため大きな変化は出来ず、迫り来る寒さに耐えられなかっただろう。かといって若過ぎても体力が足りず、山を登る最中で力尽きたに違いない。アニミスの絶妙な年頃が、彼女の身体を大きく変え、過酷な世界への適応を許したのだ。
かくして山に馴染んだアニミスは、険しい坂をすいすいと登り、とある尾根の頂きまで登り詰めた。
この辺りで最も高いその場所からは、麓の様子が一望出来る。こうして周囲を見渡すのがアニミスの日課となっていた。理由は特になく、ネジレオオツノジカの本能がそうさせるとしか言いようがない。
周りを見下ろせば、山の麓に広がる森の姿も確認出来る。かつてアニミスが暮らしていた森だが、半年の間にますます縮んだように見えた。
それは人間達が大量の材木を求めて伐採した結果である。しかしアニミスにそんな事は分からない。勿論その材木が戦争で使う武器や陣地を作るために消費されているなど、アニミスの頭には理解すら出来ない事だ。そもそも山に暮らしているアニミスにとって、森の消失は最早どうでも良い事である。
ただ、故郷が小さくなった事に何かしら思うところでもあったのか。
「……キュオオオオオオオォンッ!」
アニミスはなんとなく、甲高い声で鳴いた。
鳴き声は遠くまで届き、山彦となってアニミスの下に戻ってきた。山彦なんてものを知らなかったアニミスは、戻ってきた自分の声に少し驚く。自分以外の仲間でも居るのだろうかとも思った。尤も基本単独生活を送るネジレオオツノジカであるアニミスは、仲間を探そうという発想など抱きもしなかったが。
それよりも腹が減った。
見回りを終えたアニミスは、軽い足取りで坂を下りていく。うっかり足を滑らせればそのまま麓まで転がり落ちそうな急勾配だが、半年間暮らしていたアニミスにとっては慣れた道。体幹を崩さずにすいすいと降りていく。目指すは山頂から少し降りた場所にある平地。
今のアニミスにとって一番の大好物である、ヤマキャベの群生地だ。
……………
………
…
雪解けの季節を迎え、ヤマキャベ達は花を咲かせていた。
丸い外観を作っている重なり合った葉を突き破り、一本の長い茎が伸びている。茎の先には十個ほどの小さな花が付き、空を向いて咲いていた。花は白く、あまり強くないながらも甘い香りを漂わせている。
そのようなヤマキャベの花が、雪解けにより剥き出しになった平地を埋め尽くすように生えていた。弱いとはいえ、数が揃えば香りが大気を満たす。こうした香りに惹かれた小さな虫が集まり、花畑にはたくさんの羽虫が飛んでいた。
羽虫達は花から僅かな蜜を貰い、その際に花粉を身体に付ける。飛び立った虫は別の花に身を寄せ、その時身体に付着していた花粉が雌しべに付いて受粉を果たす……虫と花が誕生してから幾万年と続けられた命の営みだ。この平地でもその営みは行われ、虫達のお陰でヤマキャベ達は今年も子孫を残す事が出来ていた。
そのヤマキャベを餌としているアニミスであるが、生憎彼女はただの鹿。生命進化や生態系云々など露ほども知らない彼女にとって、受粉を手伝う虫であろうとも、顔の周りを飛び交えば不快な存在だ。
アニミスはふんっ、と鼻息を吐いて虫を追い払う。邪魔者を視界外へと追いやったアニミスは上機嫌に鼻を鳴らし、それから真っ白なヤマキャベの花を口先で啄むように食べた。
花には蜜があるので甘く、尚且ついずれ種子を作る器官でもあるため様々な栄養素が集まっている。育ち盛りのアニミスにとって、これらの栄養素はとても大事なものだ。食味の良さも相まって、アニミスは何十もの数の花をあっという間に平らげていく。
ヤマキャベを食べるのはアニミスだけではない。ユキネズミ達も同じであり、雪が解けて露わとなった地上を駆け回っていた。開花に多くの力を費やしたヤマキャベの葉には、左程栄養は残っていない。その代わりたくさんの虫が葉に付き、寒さによる痛みで柔らかく腐った部分を食べて丸々太った肉となっている。ユキネズミ達はこの虫達を食べ、同じように丸く太っていた。
そんなユキネズミを狙い、空には猛禽類が、地上にはキツネが駆けている。たくさんのネズミ達を捕まえ、幼い子供や自分の腹を満たそうとしているようだ。
雪が積もっている間、ユキネズミ達は雪の下に隠れていた。物理的に視界を遮る事で、それなりに敵から隠れる事が出来ていたのだが……今は雪が解けてしまい、地面が剥き出しだ。たくさんのヤマキャベが生えているとはいえ、末広がりの葉ではないため地上を覆い隠すほどでもない。ユキネズミ達の姿は敵から丸見えである。
恐らくこれまでは、ユキネズミ達は易々と捕食者に捕らわれていただろう。だが今年は違う。
敵に気付いたユキネズミ達が向かうのは、アニミスの足下だった。うろちょろする小動物の存在に顔を顰めるアニミスだが、自分に危害を加える訳でもないので手出しはしない。それよりもヤマキャベの味を堪能する方がアニミスにとっては大事だ。
なので積極的に守っている訳ではないのだが、しかしキツネや猛禽類からすれば、大柄なアニミスに近付くのはかなり怖い事である。ユキネズミを捕まえようとしてうっかりぶつかれば、反撃されるかも知れないのだから。
結果的にアニミスの周りは、ユキネズミ達にとって安全な場所と化していた。アニミスの周りにはたくさんのユキネズミが走り回り、虫達を捕まえている。虫が減るとアニミスにとっては鬱陶しいものが消えるのと同義なので、意識はしていないが相互に得する関係だった。
――――さて、ではユキネズミ達はこれで安泰か? 残念ながら生態系はそんなに甘くない。
「キッ!」
一匹の若い雌狐が、アニミスの周りに居るユキネズミ達に向けて突っ込んだ。余程腹を空かせていたのか、アニミスという恐怖に彼女は打ち勝ったのだ。
ユキネズミ達は敵の襲撃を知り、右往左往する。たくさんのネズミがあちらこちらに走り回る事で、雌狐は狙いを上手く定められない。なんとか捕まえようと雌狐はがむしゃらにユキネズミを追い……
うっかり、アニミスの後ろ足にぶつかってしまう。
ぶつかった雌狐は後退り。おどおどした様子で顔を上げ、アニミスを見上げる。アニミスは食事に夢中で、雌狐には見向きもしていない。どうやら気にも留めていないようだと思ったのか、雌狐は安堵したように身体から力を抜いた
直後、アニミスは後ろ足で雌狐を蹴り飛ばした。
アニミスにとっては軽い蹴りだったが、キツネにとっては十分強力な一撃。雌狐はごろごろと大地を転がっていく。怪我はしていないようですぐに立ち上がったが、悲鳴を上げながら大慌てでその場から逃げ出した。
雌狐を追い払ったアニミスは鼻を鳴らす。心なしか上機嫌に聞こえるものだった。
半年という月日の間に、アニミスは随分と傍若無人な性格になっていた。
幼少期は自然の厳しさから日々震えていたが、なんやかんや周りに敵と呼べる動物がいない環境は彼女の性格を順当に横柄なものへと変えていったのだ。何しろ猛禽類は自分が角を振れば簡単に追い払えるし、キツネも蹴飛ばせばそれで退かせられる。ネズミ共など歩くだけで皆逃げていく。誰も自分に敵わないというのに、一体何に怯えるというのか。
勿論自然の厳しさは今でも忘れていない。吹雪は勿論、崖崩れやヘビなど、危険なものは幾つもあるのだから。故に常に気を張り、何事にも油断しない精神も育まれた。迫り来る事象を冷静に分析し、正しい判断を迷わず下す決断力もある。
つまり乱暴かつ慎重、ワガママであっても無理はせず、不遜だが隙は決して見せない。
人間なら、相当面倒臭い性格である。
とはいえそれはこの山に順応した証と言えよう。アニミスはすっかり山に適応し、そして山に暮らす様々な生物達の頂点に立ったのだ。山の小さな生き物ではアニミスには勝てず、アニミスは悠々と暮らしていける。山の天気はすぐに変わる上に厳しいので、楽園とは言い難いが……『住めば都』という何処かの国の諺ぐらいには、アニミスにとっては悪くない生活だった。
そう、この日までは。
この日、アニミスは知る。自分が井の中の蛙である事を。この山の頂点が獣達の支配者を意味する訳ではないのだと。
されど同時に、獣達も理解するだろう。
井の中の蛙が井を跋扈する獣の英雄に相応しくないとは、誰も言っていないのだと。
英雄へと至る道に、最初の障害が立ち塞がろうとしていた。
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