凍える山
迷った。
鹿である故『言葉』というものを持たぬ小鹿であるが、しかし敢えて人の言葉を用いるなら、今はそのような感覚を抱いていた。
小鹿、とばかり呼ぶのも味気がない。いずれ呼ばれる事となる『アニミス』という名を、今の彼女にも用いるとしよう。
母の死を目の当たりにした幼いアニミスは、兎にも角にもがむしゃらだった。ひたすらに怯えていたとも言い換えられる。周りなどろくに見えておらず、ただただ走ってばかり。自分が何処に居るなど考えず、兎に角怖いものから離れようとした。
そうして走った末に辿り着いたのが此処。周りは真っ暗で何も見えず、足下が冷たい以外何も分からない。疲れきった事でほんの少し気持ちが落ち着いたアニミスはようやく足を止めた。
丁度その時に夜が明けて、周りを朝日が照らす。
地平線からやってくる輝きにより、アニミスの周りが一気に照らされた。それと同時に周囲がキラキラと輝きだし、驚いたアニミスはぴょんっと飛び跳ねる。おろおろしながら、光り輝くものを見下ろした。
それは雪だった。山の斜面を埋め尽くし、地面が一切見えないほど降り積もっている。木が生えていないため、雪の景色は何処までも何処までと続いて見えた。日に照らされた白銀の煌めきに満たされ、アニミスは眩しさから思わず目を細めてしまう。
雪の輝きに慣れても、アニミスは未だ雪に対し不信感を抱いたまま。何分生まれたばかりでまだ冬を体験した事のないのだ。『これ』がどんなものか分からず、恐る恐る踏み付け、その冷たさに驚いて後退、したらまた冷たい雪を踏んで驚く。これを延々と繰り返すばかり。
そうしておろおろしていると、アニミスの身体がぶるりと震える。
立ち止まり続けていた事で身体が冷え始め、ようやく辺りの寒さを実感し始めたのだ。アニミスの全身は毛で覆われているが、今はまだ冬毛に生え替わっておらず、雪が積もるような寒さに適したものではない。こんな場所に長居なんて出来ないと思い、アニミスは疲れた身体を動かしてくるりと後ろを振り返る。
振り向いた先は急斜面になっており、此処がかなり標高の高い山であると物語っていた。麓はかなり遠くであるが、しっかりとその姿を確認出来る。やや道のりが険しい事を除けば戻るのは難しくない。
しかし麓に広がる森を見て、アニミスはまたしても足を止めた。
今度の彼女は寒さではなく、恐怖から震えた。母を殺したものが、森には居るかも知れない。人間というものがどんな生き物か知らないアニミスは、すっかり故郷の森が怖くなってしまったのだ。山を下りて戻ろうという気にならず、後ろを向いた頭を前へと戻す。
しばらく此処に暮らそう。アニミスはそう思った。
住処を定めたところで、ごろごろとお腹が鳴った。空腹を知らせる音だ。昨日の夜から走り続けた事で、すっかりお腹を空かせてしまったのである。一晩中走り続けたので疲れていたが、お腹が空いて堪らない。
アニミスはキョロキョロと辺りを見渡した。周りにあるのは雪ばかり。木どころか草一本生えていない……ように見える。
しかしアニミスは辺りから草の香りがする事に気付いていた。優れた嗅覚により、餌となる植物の存在を察知したのである。早速くんくんと鼻を鳴らして匂いを辿り、それが足下の雪からやってきていると判断。早速顔を突っ込んでみる。一度目は冷たい感触にビックリしてすぐ跳び上がってしまったが、覚悟を決めてもう一度顔を埋めた。
二度目は、地面にあった植物をちゃんと咥えられた。
それは丸い玉のような、奇妙な形の植物だった。大きさは人間の子供の握り拳ほど。葉が何枚も重なってこのような形を作っており、非常に重みがあった。初めて口にする植物なので少し戸惑ったが、空腹に後押しされて噛んでみる……と、溢れ出した汁はとても甘く、アニミスはあまりの美味さに目を白黒させてしまう。
この植物は非常に寒冷な山地に適応し、独自の進化を遂げたもの。葉を何枚を重ねる事で、中心にある『新芽』を凍り付く寒さから守っているのだ。また雪の中で凍らぬよう、雪の時期にはたくさんの糖質を葉に蓄えている。
アニミスにとって幸運なのは、この植物……とある大陸の国で似たような形態の植物を栽培している事に倣い、ヤマキャベとでも呼ぼう……が非常に多くの栄養を持ち、尚且つこの辺り一帯にたくさん生えている事だった。寒さは体力を奪うが、十分な食事を取れればそれなりに抗える。この地に棲まおうとしているアニミスにとって、この植物は非常に重要な役割を果たしてくれるものだ。
野生動物であるアニミスにこうした理屈は理解出来ないが、されど美味しいものはたくさん食べたくなるもの。本能のままヤマキャベを貪り、アニミスは腹を満たす。
黙々とヤマキャベを食べていると、ふと雪の中から飛び出すものがいた。
ネズミだ。人の掌にすっぽりと収まる程度の大きさで、全身が真っ白でふわふわとした毛に覆われている。非常にすばしっこく、アニミスの前を小さな手足をちょこまかと動かしながら横切っていく。
名付けるならば、ユキネズミだろうか。ユキネズミ達が出てきた場所には穴だらけのヤマキャベがあり、彼等もまたこの植物を食べていたのだと分かる。
アニミスが歩くと、ユキネズミ達は次々と雪の中から逃げ出した。かなり数の多い動物のようで、アニミスは頻繁に彼等を目撃する。
如何に幼子とはいえ、鹿であるアニミスよりもユキネズミは遥かに小さな動物。腹が膨れ、体力も回復してきたアニミスは、そのちっぽけな生き物に興味を持つだけの余裕が出来た。とんとんとわざとらしく雪の積もった地面で足踏みをしてみたり、跳び出したものを追い駆けてみたり……ユキネズミ達からすれば迷惑極まりないが、幼い彼女は真新しい遊びに夢中になる。
段々とアニミスは、明るい気持ちを取り戻した。母を亡くしたばかりであるが、彼女は鹿である。人間ほど家族への情愛は持たず、その上後数ヶ月もすれば独り立ちした身。体験した悲劇の割に、立ち直りは早かった。
明るい気持ちになると、今まで見えなかった事、感じられなかった事が分かるようになる。陽光を浴びてキラキラと輝く雪の大地、至る所に生えている甘くて美味しい草、小さくて可愛い生き物達。
ネジレオオツノジカの頭に、楽園というものを理解出来るほどの知能はない。しかし此処がとても良い場所だとは思った。足取りは軽くなり、ますます遊びに夢中になる。もっとたくさんネズミが出てこないかと考えたアニミスは大きくジャンプし、結果驚いた一匹のユキネズミが雪の下から現れ、とととっと雪の上を駆けた
次の瞬間、空からやってきた何かが、ユキネズミを攫っていった。
それはとても大きな鳥だった。丸まったネズミが一本の足の内側に収まってしまうほどの。
鳥は所謂猛禽類で、非常に獰猛な面構えをしている。そしてその顔付き相応の食性をしているようで、鳥は捕まえたネズミを生きたまま空中で啄み始めた。だらだらと赤い液体が滴り、直下の雪を赤く染める。
アニミスは幸運だった。自らではなく他者がその命を以てして、此処が静かな楽園ではなく、弱肉強食の自然界であると教えてくれたのだから。
冷めた気持ちでアニミスが周りを見てみれば、猛禽が空を飛び、キツネが木陰から獲物を狙い、ネズミ達は雪の下に姿を隠そうとしていた。誰も遊んでなんかおらず、強者も弱者も死力を尽くしている。
そうしなければ生きていけない、苛烈な土地なのだ。
自分の置かれている状況を今になって理解したアニミスは、真剣に周りの様子を窺った。何匹かのキツネや猛禽の視線が自分に向いていたが、警戒するとその視線は外れる。浮かれている身ならばあわよくば狩れると、肉食獣が狙っていたのかも知れない。
そうした危機を回避したところで、アニミスは新たな危機を『予感』した。
雪の下に隠れていたネズミ達が、不意に次々と雪から這い出し、走り出したのだ。自然の厳しさを思い出してから、アニミスは迂闊に歩き回っていない。故にネズミ達を驚かせるような事はしておらず、またネズミ達が驚くような ― 猛禽やキツネが襲い掛かるなどの ― 出来事も近くでは起きていなかった。
違和感を覚えていると、アニミスは更なる異変にも気付く。ネズミ達がこんなにたくさん姿を現したのに、それを襲おうとする猛禽やキツネが一匹も現れないのである。彼等からすればご馳走が無防備に、食べ放題の状態だというのに。
何かがおかしい。奇妙な、否、異常な事が起きているのではないか。
それを予感したアニミスは――――ネズミ達を追う事にした。
追い駆けてくるアニミスに気付いたネズミは驚いたように跳ね、しかしアニミスに敵意がないと分かったのか、それとも構っている暇がないのか。慌てて逃げる様子はなく、そのまま走り続ける。
ネズミ達と共に駆ける雪山は、段々と険しさを増していく。ヤマキャベが生えていた場所が比較的平らな広間だったのに対し、ネズミ達が進む場所はごろごろとした岩の転がる地形だった。雪で地形が覆い隠されているのに加え、アニミスは幼く、足腰が未熟だ。歩みは遅くなり、アニミスが追っていたネズミの姿は見失ってしまう。
それでもネズミの行く先が分かったのは、アニミスの後ろから続々とネズミ達がやってきたからだ。ネズミの後を追うのではなく、ネズミ達の流れに従う形で、アニミスは険しい大地を進む。
やがてアニミスが辿り着いたのは、大きな洞窟だった。
洞窟と言ったが、山を貫くような横向きのものではなく、地面に向けて降りるように存在する『穴』だった。洞窟の奥深くは真っ暗で、どのぐらいの深さがあるのか分からない。少なくとも見える範囲はそこまで険しくなさそうだが、暗闇の中は断崖絶壁……という可能性も否定出来ない。
アニミスは臆し、その場で足踏みしてしまう。後ろからやってきたネズミ達は次々と穴の中に駆け込み、もしかしたらそこまで危険ではないのかも――――と考えるのは、鹿である彼女の知能には出来なかった。
そんなアニミスの背中を押したのは、空から聞こえてきたゴロゴロという唸り声のようなもの。
雷が走る音だ。アニミスが後ろを振り返ると、空には黒い雲が広がっていた。何時の間に来た雲なのかは分からないが、かなり近いように見える。
アニミスに気象学の知識はない。雷雲を大きな動物の唸り声だと勘違いしたアニミスは、堪らず目の前の真っ暗な穴に跳び込んだ。
何も見えない暗闇だったが、中は存外暖かく、居心地は悪くない。あまり奥には行かず、入口が見える場所でアニミスは座り込む。
しばらくすると、外から轟々と激しい音が鳴り始めた。外は真っ暗になり、何も見えなくなったが……入口から凍えるような風が入り込んでくる事から、猛烈な吹雪が起きているのだと分かる。
ネズミ達は吹雪の接近を、なんらかの方法で察知したのだろう。如何にアニミスの身体にしっかりとした毛が生えているとはいえ、種としては寒冷地に適応したものではない。この吹雪の中で棒立ちしていたなら、瞬く間に凍り付いていただろう。
難を逃れ、アニミスは一安心。
「ギョオオオオオギイイイィィィ!」
したのも束の間、外より何か――――『獣の叫び声』が聞こえた。
その叫びは、吹雪の轟音よりも遥かに大きな音だった。甲高い声だったが、小鹿の鳴き声のようなひ弱さや愛らしさは何も感じられない。ただただ獰猛で、狂気的で……全ての生き物を見下した声だ。
ぞわりとアニミスの背筋が震えた。恐怖の感情がふつふつと噴き出してくる。毛が自然と逆立ち、意識が遠退きそうなほど血の気が引く。
アレはなんの声だろうか。どんな奴なのだろうか。こっちに来るのだろうか。様々な考えが脳裏を過ぎるが、その答えは得られない。不安に苛まれたアニミスは、吹雪の来ない洞窟の中でぶるぶると震える。
そうしていると、アニミスの身体に何かが触れた。
アニミスはビクリと飛び跳ね、触れたものの方に顔を向ける。
するとそこには、一匹のユキネズミが居た。とても小さいユキネズミの中でも一際小さく、まだまだ幼い個体らしい。洞窟の中故にその姿はアニミスの目には殆ど見えないが、ぼんやりとした輪郭は映ったため、そこに居るのがユキネズミだと分かった。
触れてきたのが恐ろしい敵でないと知り、アニミスは再び腰を下ろす。すると幼いユキネズミはするすると歩み寄り……アニミスの足下にぴたりと密着した。
どうやらこの小さなユキネズミは、アニミスの暖かな体温を求めて来たらしい。
アニミスからすれば、居ても居なくても大差ない存在。敵でないのならくっつかれても怖くはないので、好きなようにさせる。
そうしていたら洞窟の奥から、ぞろぞろとユキネズミ達が現れた。
彼等は皆アニミスに密着してきた。好きなようにさせていたアニミスだが、段々重たくなり顔を顰める。しかしながらネズミ達の体温は高く、吹雪によって冷えてきたこの場の気温を思うと中々心地良い。
それに、一匹じゃないという感覚があると、吹雪の中から聞こえてくる声があまり恐ろしくなくなる。
その感覚が『寂しさ』の和らいだ結果であるとは、アニミスには分からない。しかし心地良い感覚であればそれに抗わないのが野生動物というもの。
吹雪の音を子守歌にしながら、アニミスは目を閉じる。
いずれこの地にて英雄となる彼女はこの日、小さな者達と共に、ゆっくと眠りに落ちるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます