凍える山のアニミス
彼岸花
死別
とある宇宙に浮かぶ、大きな星がある。
その星は星系の中心に浮かぶ太陽から程良く離れ、適度な水と大気を有していた。星の表面には大きな海原が広がり、巨大な大陸が二つ、鏡合わせのように並んでいる。
温暖な気候と豊富な雨量から、本来この二つの大陸には多くの森が出来ているのだが……とある生命の『開拓』により、どちらも多くの大地が露出していた。平坦な地形が多いため川は少なく、乾燥化が進んだ今の大地は森に変わって草原が支配している。
星の名はニブルヘルムという。この呼び名は星に住まうとある生命――――人間が名付けた名であるが、しかし人間達は自分の住む場所が『星』である事を知らない。馬で大地を駆け、帆船で海を渡り、戦場では剣と弓矢が飛び交い、手紙をハトか足で送る人間達にとって、世界とは己の目に見える範囲のものであった。
そんな世界であるニブルヘルムの、二つある大陸の一つの南端に、とある森がある。古より人間達が幸を得て、しかし昨今開発により伐採され日に日に小さくなっている森だ。広葉樹で形成され、人の手が加わっていない古木が生い茂っている。秋の終わりが近付いてきた今、木々の葉は古びたものと化しており、はらはらと落ち始めていた。
此処に、一頭の小鹿が居る。
小さくてか細い、雌の小鹿だった。傍には小鹿の三倍はあろうかという身の丈の母親が居て、共に地面に生えている草を食べている最中。小鹿は時折母鹿の身体に頭を擦り付け、幼子らしく親に甘えていた。
この小鹿に名前はない。彼女はただの鹿であり、産みの親である母もまたただの鹿であるため、名前を付けるような知性はないのだから。
唯一付けられた名は、人間が彼女達の種族を呼ぶため勝手に与えたものだけ。
ネジレオオツノジカ。大人になると雄も雌も枝分かれしていない捻れた、そして大きく立派な角を持つ事から、そのように名付けられた。小鹿はまだ幼いため角を持たないが、母鹿は大きくて立派な角を二本生やしている。角は何回転も捻れながら前へと伸び、付けられた名前を体現していた……しかしながら彼女達の名を知るのは、人間の中でもごく一部の者だけ。王と貴族が支配し、飢えと病が人口を抑制するこの世界において、大多数の一般人は有り触れた生物の名になど興味すらない。ネジレオオツノジカなど、時々畑作を荒らす害獣程度にしか思われていなかった。
……ほんの二百年ほど前までは。
そんな事など露知らず、小鹿は親に思うがまま甘えていた。尤も草を食べて満腹になると、とことこと勝手に歩き出して親の傍から離れる。好奇心旺盛で、活発な女の子だ。勿論独りぼっちは怖いので、そこまで遠くに行くつもりはないが。
親から少し離れた場所に小高い丘があったので、小鹿はその丘の上に向かった。周りに木々はなく、開けた場所だった。
丘の下に見えるのは広大な、しかし数年前と比べ半分以下にまでなった森。そしてその森と隣接するように存在する、人間達の住処である『村』だった。木で出来た家の傍には畑が並び、皮の服を着た人間達が
今、この国は隣国と戦争をしている。そのため燃料や武器製造の資材としての需要が高まり、木材の価格が高騰していた。その莫大な金は村に大きな富をもたらすため、人間達は祖先が残してきた森を一気に刈り取っているのである。今も小鹿の視界内で、樹齢三百年はあろうかという巨木が切り倒された。
何十人かが生きるために用いる分だけ切り倒すのなら、森の再生力は伐採量を上回り、何時までも木材を生産しただろう。しかし今この森には、この国の全需要が集結している。森の生産力を上回る圧倒的な伐採により、森はみるみる縮んでいた。それは人間達も分かっていたが、目先の利益に目が眩んだ彼等は未来について何も考えていない。或いは、森の木々なんて勝手に生えるとでも思っているのだろう。
尤も小鹿である彼女に、人間のしている事の意味は分からない。過度の伐採により森が小さくなるという事も理解していない。なんだか変な生き物が変な事をしているなぁ、という暢気な感想しかなかった。
「キュオォーン」
のんびりと森と人間を眺めていた小鹿だったが、ふと母親から呼ばれた。移動をするぞ、という意味だ。小鹿は小走りで母の下に駆け寄り、寄り添った。
小鹿は幸せだった。幸福や不幸の概念はないが、心地よいという意味では間違いなく。
されどその幸せは間もなく終わる。
自分が丘に立った。その行動が原因となって――――
陽が沈み、森に夜が訪れた。
ネジレオオツノジカは昼行性、つまり明るい時間帯に活動する動物である。食べ物を求めて今日もたくさん歩いた親子は、親の方はもう休もうとしていたが、子供の方はまだまだ元気だった。
小鹿は月明かりの差し込む森の中を、ふらふらと歩き回る。親は大地に寝そべりつつ、小鹿の方をじっと見ていた。親に見られている中、小鹿は虫を追い駆けたり、木の芽を齧ってみたり、好き勝手に遊ぶ。
森は日に日に小さくなっているが、少なくとも小鹿が実感出来るような変化はない。小鹿にとって世界とは自分の周りだけであり、それよりも遠いものは『存在しない』のだから。
そうして暢気にしばし遊んでいると、段々と眠たくなってきた。
ぷるぷると頭を振ったが、まだ眠い。眠たくなったら眠るのが野生の本能。そしてお母さんの傍が、産まれた時から決まっている小鹿の寝床だ。眠たくなってきた小鹿の身体はよたよた歩き。母鹿はそんな我が子をじっと、優しい眼で見続ける
そんな時だった。
パアンッ、という弾けるような音が森に響いたのは。
小鹿はいきなり聞こえてきた大きな音に驚いた。驚いたが、しかしどうしたら良いのかなんて分からない。逃げた方が良いのか、隠れた方が良いのか……
こんな時は母に頼ろう。そう思い小鹿は母の下に駆け寄った。
母は、何時の間にか倒れていた。
……寝ているのだろうか? 小鹿は母鹿を鼻先で突いてみたが、母はぴくりとも動かない。鳴いて呼んでみたが、鳴き返してくれない。
そして母の頭には小さな穴が開いていて、そこからどくどくと赤黒く、つんとした臭いの液体が溢れ出ていた。
「へへっ、どうだ一発だぜ!」
困惑する小鹿だったが、不意に大きな声が聞こえて驚いた。跳ねるように、声が聞こえた方へと振り向く。
そこには人間が居た。数は二人。大人の男達だ。男達の手には棒のようなものが握られていて、棒の先からは朦々と煙が漂っている。
小鹿は知らない。その棒のようなものが『銃』と呼ばれる武器である事を。
小鹿は知らない。その銃から放たれた弾丸が、自分の母親の脳天を貫き、命を奪ったのだと。
「親父、小鹿もいるがどうする? 撃つか?」
「馬鹿野郎、弾代の無駄だろ。今時鹿肉なんて臭くて戦場の兵士様すら食わねぇよ。むしろ逃がして角を大きくした方が得だろ? その前にトラとかに喰われても、俺達は損をしねぇ」
「成程。そういうもんか」
「このぐらいの計算ぐらいさっとやれよ。馬鹿の下には嫁が来てくれねぇぞ」
人間二人は大きな声で話しながら、死んだ母鹿の方へとやってくる。それから母鹿の角を掴んで持ち上げると、懐から大きな刃物を取り出し、角の根元を切り始めた。
人間達の目当ては、母鹿の角である。
その噂は二百年ほど前、とある村で始まった。ネジレオオツノジカの角を煎じると、病気によく効く薬が出来ると。
それは風邪を引いた我が子に向けたおまじないか、はたまた金持ちに売り払うための虚言か。いずれにせよ全く出鱈目な話であったが、医療は町に暮らす老婆の知識便りであるこの世界において、その迷信を否定出来る者はいなかった。
医療が未熟なこの世界において、風邪薬一つであっても貴重なものだ。それが畑を荒らす害獣から手に入るのだから、こんな有り難い話はない。人々は山から下りてきた個体だけでなく、やがて自ら山に入ってネジレオオツノジカを狩るようになった。
今までにない狩猟が行われ、ネジレオオツノジカはどんどん数を減らした。数が減ると角が稀少になり、価格が吊り上がる。高額になるとこれで稼ごうとする人間が増える。そうするとますます数が減り……
一時期この大陸に一千万頭も棲息していたネジレオオツノジカは、ほんの百年で百万頭以下にまで減った。ネジレオオツノジカにとって不運な事に、そんな百年前に銃という武器が作られてしまった。金属の弾を飛ばし、生き物を殺せる武器。決して精度が良いものではなく、価格も高いが……高価な角と大柄な身体を持つネジレオオツノジカを仕留めるのに、こんなにも良い武器はない。何より長時間の訓練をしていない、ただの農民でも銃ならばそれなりに扱える。
本格的な狩猟が始まって二百年、銃による殺戮が始まって百年……ネジレオオツノジカは、今や絶滅の危機に陥っていた。小鹿と母鹿はその数少ない生き残りだったのである。
そして残り少ない生き残りは、更にその数を減らした。
「おう、退け退け。大きくなったらまた来いよ」
怖くて震えていた小鹿だったが、人間の一人が銃を振り回してきた。人間の言葉など分からない彼女は、しかし人間達が怖くて、堪らず走り出した。
後はもう、何も分からない。
小鹿は自分の足で立てるぐらいには育っていたが、まだまだ未熟であり、何度も木の根に蹴躓いた。それでも走り続けて草を蹴ると、驚いたのかそこに隠れていたウサギが跳ね、ウサギを見た彼女も跳び退くほど驚き、一層早く駆けた。
彼女は、ただただがむしゃらに逃げる。月明かりの照らす森の中を走り、走り、走り続けて……
辿り着いたのは、とある山だった。
途切れた森の先にある山はごろごろとした岩が転がり、木々や草は疎らにしか生えていない。お陰で森の中より幾分見通しは良いのだが、人間達から逃げてきた彼女からすれば、見通しの良い環境はあまり近付きたくない。
どうしたものかと二の足を踏む彼女だったが、不意に背後から聞こえたガサガサという草を掻き分ける音に驚き、ついつい森を出てしまう。
それは人間が立てた音としてはあまりに小さなもので、恐らくはネズミのような小さな生き物が出したものだろう。しかし森から出てしまい、一層動揺した彼女にそこまでの考えは回らない。
彼女は何も考えず、がむしゃらに目の前の山を駆けた。険しい斜面だったが、身軽な彼女はどんどん登っていく。木々は姿を消し、生えている草の丈も短くなるが、彼女はそれでも止まらない。
自分でも知らないうちに、小鹿は山の頂上を目指して進んでいた。
これは荒ぶる英雄の物語。
英雄は未だ幼く、か弱く、未熟である。
されど英雄はいずれ辿り着く。
この地で最も高きこの山のように、
この地の獣達の頂点に。
これは、この地に英雄が君臨するまでの物語である。
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