対決

 動き出したアニミスは、迷いなくトラへと突撃する。

 アニミス達ネジレオオツノジカには、肉食獣のような鋭い爪も牙もない。しかしだから戦う術がないというのは、あまりにも早計な考えだ。

 例えば大きな身体。巨体というのはそれだけで破壊的な力を有している。とりあえず身体の一部を当てれば、自分より小さなものを死に至らしめる事が可能だ。大人の人間二人よりも更に大きな質量を有するアニミスの身体は、途方もなく大きな破壊力を秘めた『武器』なのである。

 そして二つ目は、頭にある大きな角。

 これこそがネジレオオツノジカにとって、『武器』としての使用を想定した唯一の部位。雄も雌も角を生やす彼女達は、縄張りを犯す侵入者や、自分を追い詰めた外敵に対する武器としてこの角を使う。

 よってネジレオオツノジカの基本的な戦い方はごくシンプル。頭にある角を敵に向け、全速力で突撃して体当たり――――ただそれだけ。それだけで十分な効果がある一撃だ。

 アニミスの本能にも、その攻撃方法が刻まれていた。餌場を荒らされた怒りで我を忘れたアニミスは、兎にも角にも頭にある角を前へと向き出し、全速力で突進する。

 トラはこれを、激突する寸前に横へと跳び、ひらりと躱してみせた。

 躱されるとは考えてもいなかったアニミスは驚きから目を見開いたが、されどこの結果はさして意外なものではない。

 何故ならこのトラは、かつてアニミスが暮らした森に生息していたのだから。

 アニミスには知る由もないが、この個体は人間の森林伐採により生きる場を追われ、食べ物を求めて山へと逃げ込んだものだった。ある意味ではアニミスと同じ境遇であるが、彼女 ― このトラもアニミスと同じく雌だった ― とアニミスの違いは、トラの方は十分に成熟した個体であるという事。このトラはこれまでに様々な獲物を仕留めてきた熟練の狩人であり、その中にはネジレオオツノジカも含まれている。トラはネジレオオツノジカがどのような攻撃を仕掛けてくるか、長年の経験からよく知っているのだ。

 そして突撃攻撃の弱点も把握している。

 一つは角を前へと突き出すために、頭を下げた格好になるという事。これでは周りがよく見えず、目標の細かな動きに対応出来ない。素早さに自信がある動物なら、衝突直前で動けば簡単に躱せる。トラの瞬発力はネジレオオツノジカ以上のものがあり、突撃を回避するなど造作もなかった。

 二つ目の問題はもっと致命的だ。

 全速力の体勢になっているため、土手っ腹が無防備になっているという事である。しかも角から加わる衝撃に備えるため、首に力を込めざるを得ない。力を込めているという事は筋肉が収縮しているという事でもあり、非常に強張った状態だ。これでは自由に頭を振れないため、脇腹に迫る攻撃への反撃が行えない。

 トラが無防備なアニミスの腹を攻撃する事は、非常に容易であった。

「グァオンッ!」

 勇ましい咆哮と共に放たれたのは、鋭い爪による一撃。

 トラの爪は鋭く、アニミスの頑丈な毛皮を易々と切り裂いた。肉を抉り、血が飛び散る。

「キュウッ!?」

 アニミスは苦悶の声を上げた。痛みは判断力と身体の動きを鈍らせ、次の行動に支障を与える。トラはすぐさまもう一方の腕を振り上げ、二撃目を与えようとしてきた

 瞬間アニミスは傷付いた身を労る事なく翻し、トラ目掛け頭を振り回した!

 今度はトラの方が驚き、その身を強張らせてしまう。動けなくなったトラの腹にアニミスの角が横から激突し、強烈な打撃を与えた。先端からの一撃ではなく、側面から殴るように叩き付けたため突き刺さりこそしなかったが、硬い角は鈍器のように重たい打撃をトラに与える。大きなトラの身体は突き飛ばされ、花が広がる大地を激しく転がっていく。

 致命的なダメージはないのか、トラはすぐに立ち上がる。しかし揺れる瞳が動揺を物語っていた。何故肉を切り裂かれたのに、この鹿は怯みもしない? そんな事でも考えているのだろうか。

 トラには知り得ない事だが、アニミスの身体は痛みに対し非常に強くなっていた。

 その理由は二つ。一つは全身に蓄えた脂肪だ。美味しいものをたくさん食べ、寒さ対策としても活躍した脂肪……これが痛みに対しても耐性を有した。脂肪には神経が殆ど通っておらず、痛みを殆ど感じない。つまり脂質をたっぷりと含んだ肉体は、面積当たりの神経が少なく、与えられた痛みに強くなったのである。

 二つ目の理由は、山で暮らしていた半年の間に受けた凍傷。アニミスはこの山で暮らす中で、何度も凍傷を負った。命に関わるほどのものではなく、若さ故に活発な新陳代謝で自然と治癒したが……表皮の神経は完全な再生が出来ておらず、非常に鈍感なものとなっていた。

 脂肪により神経密度が低く、数少ない神経は反応が鈍い。この結果アニミスは痛みに対し極めて強い耐性を獲得したのだ。余程致命的な一撃でない限り、アニミスを苦しませる痛みは与えられないだろう。

 トラは構えを取りながら、アニミスを睨んだ。アニミスもまたトラを睨み、両者は再度対峙する。

 二匹が再び駆けたのは、同時だった。

 アニミスは再び頭を前へと突き出し、トラへと全速力で突撃する。トラはその動きをしかと見定めようとアニミスを凝視しながら疾走。自分と角がぶつかる、寸前のところでトラは左側へと跳び退いた

 瞬間、アニミスが動く。

 前足を支点にし、後ろ足だけでへと跳躍。己の胴体を一瞬で横向きにした!

「――――ガッ!?」

 不意にアニミスの胴体が迫り、トラは驚く間もなくアニミスの頑強な臀部と顔面が激突した。最大スピードでぶつかり合い、両者に大きな衝撃が走る。トラからすれば顔面をとんでもなく重たい一撃を受けたようなもの。受けたダメージの大きさに、トラは僅かながら怯んだ。

 対するアニミスは怯まない。

 彼女の身体にたっぷりとある脂肪が、激突の衝撃を和らげたのだ。痛みがなければ次の動きに素早く移れる。そして怯んだトラにチャンスを与える必要はない。

 アニミスは身体を横向きにした際の勢いを、

 まるで巨大な丸太で殴り飛ばすように、全身の力を用いてトラを押し出した! トラの巨体は大きく飛ばされ、ヤマキャベの株がバラバラに飛び散る。

 大きな衝撃を受け、トラはまたしても頭を激しく揺さぶられた。体勢を崩し、その場で膝を付く。

 アニミスは、そのトラに駆け寄る。されど今度は角を突き出さず、真っ直ぐに背筋を伸ばして。

 しかし敵意がない訳ではない。

 もしも敵意がないのなら、膝を付いたトラの前で大きく右前脚を掲げる筈がないのだから。

「キュオォッ!」

「ゴアッ!?」

 アニミスはトラの頭目掛け、強力な『鉄拳』をお見舞いした! 巨体を支える図太い筋肉から繰り出される怪力に加え、岩山を上り下りする中で硬く鍛え上げられた蹄がその足先にはある。全力で叩き付ければ石ぐらい簡単に砕く一撃を眉間に喰らい、トラは堪らず呻きを上げた。

 しかしアニミスは手を弛めない。何度も何度も、執拗にトラの顔面を殴り付ける。殺すつもりがあるかといえば、アニミスにそんな気は一切ない……ただ『怒り』が収まるまで殴り続けるだけであり、その結果トラがどうなろうと知った事ではないだけだ。

 アニミスの打撃により、トラの顔面の皮膚が切れ、だらだらと血が流れる。容赦のない攻撃に、トラの身体は段々と力を失っていく……

 否、それは違う。

 トラは力を蓄えていた。痛みを堪え、反撃のチャンスを窺っていたのだ。

 アニミスには戦いの経験が足りなかった。もしも経験があれば、トラが何かを企んでいると察しただろう。しかし若く、これまで好敵手と呼べるような相手がいなかったアニミスにはそれが分からない。むしろこの状況を己の一方的な有利と錯覚し、ますます攻撃の手を激しくしていく。

 そして止めとばかりにアニミスは両足を高々と上げてしまい、

「ゴアアアアアアアッ!」

 トラはこの好機を逃さなかった。

 トラは瞬発力に優れていた。その瞬発力をフル活用し、アニミスの土手っ腹に頭突きを喰らわせる! 腹部もまた厚い脂肪に守られているアニミスは、この打撃を受けても致命的な怪我はしていない。しかしトラのパワーを抑えきれるほどの足腰はなく、そのまま押し出されるように横転させられてしまう。アニミスは仰向けになる事こそ避けたが、伏せるように倒れてしまった。

 トラはそんなアニミスの背にのし掛かるや、その身体に爪を立ててしがみつく! 爪はアニミスの背中の肉を裂いたが、されどトラはその爪を引いて傷口を広げようとはしない。

 代わりにより深く、奥に爪を侵入させた。

「キュオ!? キュオオオォンッ!」

 アニミスはトラの狙いに気付いた。奴はこのまま自分に組み付くつもりなのだと。 

「ガァッ! フガ! ゴゥ!」

 事実トラはアニミスの身体に鋭い爪を突き立て、肉に食い込ませる。大きく開いた口で背中の肉を噛み、がっちりと己の身体を固定した。

 アニミスは四肢をばたつかせて暴れるが、トラの方が体重があり、上手く起き上がれない。仮にどうにかこうにか起き上がって飛び跳ねたところで、爪と牙で身体を固定しているトラを振り払うのは困難だ。

 そしてトラは噛む位置を変え、爪を何度も突き立て直し、少しずつアニミスの首を目指すように前進している。

 もしも首を噛まれたなら、その瞬間トラはアニミスの首をへし折るだろう。具体的なイメージは湧いていないが、アニミスの本能はそれを察した。

 このままでは殺される。

 どうしたら良い?

 どうするのが良い?

 焦りの中でアニミスが下した決断は――――ごろんと身体を転がらせる事だった。

 立ち上がる事は出来なかったが、四肢で大地を蹴れば身体の向きぐらいは変えられた。そのパワーを使い、ごろんごろんと地面の上を転がる。その拍子にアニミスが上へと来れば、都度重さがトラの身に襲い掛かった。

 大柄なアニミスののし掛かりを受け、トラは顔を顰める。しかしそれだけだ。牙や爪を放そうとはしない。アニミスはこれでは足りぬかとばかりにごろごろと転がり続けるが、やはりトラは放れない。体格差で上回るトラ相手に、体重を掛けた圧迫がさして有効な筈がなかった。

 爪と牙で攻撃するトラと、諦めず体重で圧迫するアニミス。両者は互いに離れる事なく、延々と転がり続けた。

 トラは思った事だろう。無駄な足掻きだ、もうすぐ首に噛み付ける。その時に勝負が終わる、と。

 そしてアニミスは思うだろう。

 と。

 ごろごろと転がるアニミスとトラ。トラの爪がついにアニミスの喉の付け根付近に到達した

 直後、アニミスとトラは浮遊感に見舞われた。

 トラは目をパチクリさせ、困惑を露わにしていた。反面アニミスは表情一つ変えないどころか、むしろ顔の筋肉が僅かに弛んでいる始末。何故ならこの浮遊感はアニミスの思惑が成功した証なのだ。

 そう、二匹揃って崖から落ちたという証。

 アニミスとトラは、山に出来た切り立った崖から落ちている! 断崖絶壁と呼べるほどではないが、アニミスやトラの身長の五倍近い高さだ。両足からしっかりと着地すればなんとか無傷でやり過ごせるが、そうでなければ大怪我は避けられまい。

「ッ!? ゴ、ゴァッ……!?」

 アニミスよりも遅れて自らの置かれている状況を理解したトラは、困惑の鳴き声を上げる。声を上げた際に口を開いたので、アニミスを掴んでいたものの一つが外れた。

 アニミスは感覚からその事を理解するや力いっぱい身を捩る! 空中でぐるんと回転した拍子にトラの爪はアニミスの肉から抜け、トラとアニミスは離れ離れに。

 続いてアニミスは二本の前足を僅かに伸ばし、トラの背に自らの蹄を乗せた。

 トラはギョッとしたように目を見開き、溺れるように藻掻いた。藻掻いたが空中で変えられる体勢などたかが知れている。何より地面はもう間近。

 危機を脱するには何もかも遅く。

 トラの身体が大地に打ち付けられたのと同時に、アニミスは強靱な前足を振り下ろすのだった。

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