分岐鏡像Ⅰ:かくも、事態は空転する
爪先で屋根を蹴り、他の屋根に飛び移り、闇を切るように駆け抜ける。
重力を無視したかのような身のこなしに、しなやかな肢体。
見ている者がいたなら、完成された動きの美しさに見とれたかもしれない。
だが実際はあまりの速さに目を止められないだろう。
静まりかえる家々の上を、音もなく女は駆けていく。
月の光だけが女を見守っている。
時は王国歴217年。
神が遣わせた勇者と神子による伝説の時代から数百年経った後、世界は激動の時代を迎えていた。
神国と呼ばれ崇められた古の大国の姿は消え、分かたれた国々は互いの利権のために争っていた。
豊かだった土地は荒れ、不作に苦しむ農民たちとそれを気にせず税を加増し富を貪る貴族たち。
深まる身分と貧富の差。
悪化し、増えていくばかりの犯罪と売春、癒着に賄賂。
利権のために戦争を繰り返す国々。
世界は混沌と化し、多くの人間が死んでいく中、後に一柱の神として崇められるまでになった一人の英雄がいた。
英雄は王となり、いくつかの国を併合し、人々はようやく安寧を築き上げ、年月を経て、いつしか王国は巨大なものとなっていた。
内部に火種を残しながら…。
女の胸の中にも火種は燻っていた。
復讐という名の火種が。
様々なものを切り捨て、切り捨てられ、女が手にしたのは地獄への片道切符一枚であった。
綱渡りのような、その復讐を止める者すら既にいない。
ふと、女は屋根の上から、一室の部屋の窓をのぞき込む。
部屋の中央では、束で積まれた書類を前に机に向かっている男がいる。
しなやかな体格、伸びた茶髪を後ろで一本に結び、日に焼けた顔からは普段の道化のような雰囲気は消え失せ、苛立ちを隠しきれていない。
眉間に皺を寄せ、苛立たしげに前髪をかき上げていた男は突然何かに気付いたかのように、徐ろに手を挙げた。
先ほどまでの機嫌の悪さはどこにいったのか、男の声には喜色があらわだった。
「ディアーナ、来たのか」
「その名は捨てた」
吐き捨てながら、窓から音もなく室内に入ってきた女に男は笑う。
「名前が捨てられたら苦労はしないってな」
気に食わない、と女は常日頃から思っていることを視線に載せて、男を見つめる。
普段の欠落した感情は、同胞を前にすると、女自身ですら制御できずに甦ってしまう。
余計なことを思い出させる男の存在自体が女には疎ましい。
それでも、目的遂行のため、女はどんなことでも受け入れると過去のあの日、決意したのだ。
その決意は微塵も揺るがない。
「だからこそ、あのお嬢様は厄介だ」
「カリストゥス」
女が男の名前を呼んだのは、女の真名を呼んだ男への嫌がらせでもあったし、男を諫めるためでもあった。
男は唇を吊り上げ、歪な笑みを浮かべる。
「そうでございました。閣下はご承知でしたねえ。あっしはもちろん、閣下の御意志がどうあれ、従いますよ。卑賎の身ではありますが、どうぞ、如何ほどにもご利用ください」
「閣下はお嬢様の制御を求められている」
「制御?」
声を上げて、男は笑った。
「無茶なことをおっしゃられる!一体、俺に何ができるって言うんだ!ただの奴隷商のこの俺に!」
「お嬢様は何も知らない。だからこそ、示し手が必要だ」
「おお、偉大なる我が主よ、艱難辛苦に身を置く下賤なわたくしを導き給え」
「ふざけている場合ではない」
「ふざけているのは俺ではない!!この状況だ!!」
男は目をぎらつかせ、女ににじり寄った。
女は近付く男を避けるように、壁際によりかかる。
男は女の顔の真横の壁に手を置くと、そのまま女の耳元で囁く。
「お嬢様は知らない?
既に魔法は起動しているというのに」
ダイナ、お前も実感しているだろう?
「お嬢様は、一体何故、名前をつけ始めた?」
「そのようなこと」
「おかしいだろ。
お嬢様は、これまで一度も魔法を起動したことがなかった」
女は、自らが仕える主人の御令嬢が死の淵を彷徨った期間、傍にいた。
だからこそ、男の推測を察した女は、間違いだと指摘する。
「確かにあの方は、閣下の御息女だ。そこに疑念の余地などない」
男は一瞬悲し気に目を伏せる。
瞬きの出来事に女は気付かない。
男は首を振り、女から身を離す。
「どうあれ、俺には不可能だ」
怪訝気な表情を浮かべる女に、男は言葉を選ぶために少し黙り込む。
全ての情報と知識を、二人の間で共有されることはない。
女は、それがただの魔法だと思っている。
それは女の身に着けざるを得なかった知識の範疇外であるからだった。
魔法に関しては、男一人の身の内に沈めるべき、秘め事であった。
例えそれが、本人である御令嬢であっても。
「しかし、閣下が望むのであれば、御令嬢自身の手で魔法を隠蔽することならお教えできるだろう」
女は安堵の溜息を吐く。
他方、男は行く末の見えない未来を憂えていた。
隠蔽できたとしても、既に発動した魔法を隠すことはできない。
法の番人は必ず、目をつけた。
既に選択はなされた。
思惑はどうあれ、男は自身が道化となって、舞台をかき乱すことを決めた。
どう足掻いたところで、全て闇へと消えていくのだから、と。
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