第十話 ご利用は計画的に

 一陣の風が吹き抜けた。

私に反応する術はなく、ダイナにも、そして、ハッターにもなかった。


「…っぐぅ!」


 白い裾から覗く細い腕が、まるで重力を無視したかのように、子どもに比べれば遥かに大きな体格のハッターの首を締め上げ、持ち上げる。

脳みそが目の前の状況を理解しきる前に、ハッターの顔色が変わりだし、思わず叫ぶ。


「ハッター!」


 違う。


「マーチ、手を離せ!」


 どさりという音が耳に入る。

が、私は音のする方向に視線を向けることができずにいた。

無表情のまま、近付いてくるマーチから目をそらすことができない。

見つめ合う私たちの間に、ダイナが体を滑り込ませようとしたが、マーチが右手で空中をはらうと、風に飛ばされるようにダイナの体が飛び上がる。

ダイナが態勢を直し、こちらへと向かう頃には、既にマーチは私の目の前にいて、私の両肩を掴んでいた。

七歳の私よりは、身長の高いマーチは私を見下ろす形になる。


「…マーチ、オモシロイ」


 透き通るような声だった。

ピンク色の唇が震えて発する美少女ボイスに、私は人形が話したかのような衝撃を受けていた。


「ワタシ、マーチ。アナタ?」

「わ、私か?アリスだ」

「チガウ。ナマエ」

「あ!オクタヴィアだ!そうだろ!」


 私がそういうと、美少女は眉を顰め、頬を膨らませる。

何だ、この気持ちは…これが萌え…?

新しい扉を開きそうになっている私を置いてきぼりに、マーチは首を振る。


「お嬢様!」


 マーチの腕から私を抱き上げ、距離を置くダイナ。

その私の傍に、首を擦りながら苦笑したハッターが近付いてくる。


「参りましたね、お嬢様。当たって欲しくない推測が確信に変わりつつある今でも、あっしにはどうにも受け止めきれる度量というものは身に付きそうにないです」

「三文字で頼む」

「ドケロ」

「ちょ!ちょっと待っ」


 再びマーチに排除されそうになるハッターが異国の言語を口にすると、ぴたりとマーチは動きを止めた。

そして、睨み付けるマーチに慌てるようにハッターは口早に言葉を紡ぎ続ける。

一体何が話し合われているのか。

私にはわからなかったが、ダイナの表情も普段以上に固くなっていく。

まさか、ダイナも言葉がわかるのか?

異国の子守歌を歌っていたダイナは、もしかしてマーチの国の…?

いや、だがダイナは人間だ。

マーチはエルフだし、肌の色も違うし、確かエルフの国に人間はいなかったはず。

そもそも私が知らないだけで、エルフの言語は結構民間に広まっているものなのかもしれない。

義務教育の一つに組み込まれているのかもしれない。

ハッターもそうだし、この国の一般市民の教育水準は高い。

待て、それも全て推測にすぎないじゃないか。

ハッターがエルフの言葉を話しているわけではなく、人間とエルフ、そして他国にも通じる世界共通言語というものが存在している可能性だってある。

私には圧倒的にこの世界の知識が足りなかった。


 私が無駄に考え込んでしまっている間に、ハッターとマーチの間で何らの解決がなされたらしく、少なくとも今すぐにハッターが害されるといった状況からは回避されたらしい。

殺気の収まったマーチ、そして冷や汗を拭うハッター、私をお姫様抱っこするダイナ。


「さあ、お嬢様、交渉の時間ですよ」


 締まりのない顔でハッターは笑って、この場を私に預けようとしている。

花冠を外しただけで、マーチは奴隷の身分から解放されたわけではない。

だが、人間社会の理屈がエルフに通用するのか?

奴隷だから命令しても、マーチが拒めば、花冠のない私には強制する術はない。

人間であれば逃亡奴隷の烙印を嫌がるが、逃げきれれば問題ないのだ。

逃げ切るのが高難易度ミッションなのだが、エルフだ、私の知識で計れない。


 しかし、交渉に有利なことに、どうやらマーチ自身は私に対して恨みはないらしい。

それどころか、好感すら持っているようでもある。いや、好奇心か?

むしろ私の方が、マーチがなぜエルフの国から出て、奴隷という身分に落とされているのかが気になったが、その疑問は一旦横に置こう。

私がマーチに望むこと。

それを交渉のテーブルに乗せ、マーチに快諾させるためのメリット。


「…マーチに私の護衛をお願いしたい」


 この国の言葉に不慣れなためか、首を傾げるマーチに、ハッターが翻訳してくれる。

すると、マーチは笑顔で、


「イイーヨ!」

「あっさりぃ!」


 何も聞かないの?!他に聞きたいことないのか?!

ダイナに抱えられたままという間の抜けた格好で詰め寄る私に、マーチはその美しい顔を赤らめて、


「カリ、ケイヤク」


 ん?恥ずかしがること?

表情とのギャップに、言語の行き違いの危険性が頭をよぎったが、ハッターも特に異論なさそうなので、私は護衛契約を口頭で交わすことにした。


「セイヤク。マッテル」


 思わず、ハッターを見つめてしまう。

あー、と言い辛そうに頭をポリポリと掻くハッター。


「え?私が契約したのは護衛だけだよね?プロポーズを申し込んだっけ?」

「今の契約は確かに護衛契約ですよ?後で、書類で本契約をまとめる必要はありますが、それは閣下と相談して行うのが良いかと」

「それでこんな反応する???告白された乙女みたいになる???」


 三点リーダーを思う存分活用したハッターは、寝ているのかと思うほど目をギュッと閉じて、


「><;;」

「いや、だからどうやって発音してるのだ???」

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