海を越えれぬ者たちよ
ヒロ
第零話
「あっはは……やべぇ」
苦笑いを浮かべながら、
目の前の巨人はただ大きいだけではない。筋肉は異常なまでに膨らんでおり、口からはセイウチを思わせる一対の牙が生えている。まるで神話に出てくる怪物を相手にしているかのようだ。
「覚悟はいいんだよなァ……? 喧嘩売ったんだ。死ぬ覚悟できてんだよなァ」
男はボサボサの逆立った髪をかき上げ、そうドスの利いた声ですごむ。威圧感が夕暮れの路地裏をゆっくりと支配し、そして威圧感は殺気に変わっていく。
明確に近づいてくる。死が。
ふと、湊は後ろを振り向く。そこには彼が助けようとした青髪の少女は居なくなっている。逃げたのだろうか。
「ざまァねェな。ヒーローなんざ気取るからこうなるんだよ……!」
男は笑いながら、しかしその殺意を今にも行動に変えてしまいそうなほどの鋭いまなざしで湊を睨んでいる。
あーあ、またやっちゃった。湊はため息をつきながら自嘲気味に笑った。
やはりこんな世界で、女の子の叫び声がしたからといって助けに参上してしまう正義のヒーローは流行らない。やめないけど。
「哀れな奴だ。笑うことしかできねェなんてな。今楽にしてやるよォ!!」
男の拳が、咆哮と共に湊を目掛け圧倒的なスピードで襲い掛かる。当たってしまえば、恐らくグチャッと音を立て、原形をとどめないほど潰されてしまうだろう。
しかし迫りくる拳を前に、湊はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……なんてな。
湊の声と共に何かが湊が背中に背負っていた大きなボディバッグから飛び出し、そして男の拳を完全に止めてしまった。
「な、なんだこいつはァ!?」
男の拳を止めた者は、
牛の頭に、人間の上半身。そして、馬の下半身を持ち、全身を鎧のような装飾で飾っている、ケンタウロスとミノタウロスのあいの子のような出で立ちの砂像。大きさは湊より少し大きいくらいだが、三メートルはあろうかという大男の拳を完全に受け止めている。
「こ……の野郎ォ!!」
自慢の拳を止められたことがトサカに来たのか、男は砂像に連続で拳を振るう。
しかし、砂像はその攻撃をものともせず、ゆっくりと一発の拳を男の頬面に叩き込んだ。
「ぐァァ……ッ!!」
ドン、と重い音が響き渡り、男は数メートル吹き飛ばされる。よほどのダメージなのだろう、背中から地面に叩きつけられるように着地し、のたうち回って悶絶している。口元からは血を流し、立派な牙は片方折れていた。
「てめェ……ッ!?」
「
何をされたのかも分からないほどの一瞬だった。しかしその一瞬は、男を青ざめさせるのに充分であった。
湊にすごもうと顔を上げた男の目の前に、穴が開けられたのだ。弾丸のようなものが、ただの一瞬で、音もたてずに。地面に鉛筆の直径ほどの穴をあけたのだ。
男は視線を湊に向ける。先ほどまでいた砂像は既におらず、代わりに湊の肩に透明な何かが乗っていた。
それは、水のようだった。西部劇に出るガンマンのような格好の水が、同じく水でできているのだろう拳銃を男に向けている。当たってしまえば、自分の体に風穴が開くことになるだろう。
「覚悟、できてんだよな?」
水の言葉を代弁するかのように、湊がそう言い放った。先ほどまでの様子とはまるで違う。その口元は自信のために笑みを浮かべ、目はまっすぐに男を捉えていた。
「て、てめェは……!?」
その豹変ぶりに、問わずにはいられなかったのだろう。
男の問いに、湊は待ってましたとばかりに親指で自分の胸をさし、そして自信満々に、見得を切るように名を名乗った。
「
決まった。あまりの自信に呆気に取られている男を前に、湊は満足げに目をつむり決め台詞をバッチリ決めた快感に浸っている。
その、直後であった。
「何がヒーローになる男よっ! 死ね!!」
突然、空からナイフを持ったヒロインが降ってくる。幻想的な言い回しをすればそう取れる光景だが、実際は湊が助けようとした少女が彼に殺意を向け上空から不意を突き奇襲しているだけだった。
「なっ!? お前らグルだったなぁっ!?」
これで何度目だろう。この国では善意で人を助けた者から死んでいく。それでも、人の情に訴え隙を突くことはポピュラーな戦術だった。
もっとも、何度も引っかかる湊ほどの間抜けはそうは居ないが。
「くそっ……!!」
湊は落ちてくる少女のナイフを後ろに下がり回避し、肩に乗せている水のガンマンが少女に銃を向ける。
「…………!!」
先ほど、水の威力を見てしまった大男は顔を青く染め猛ダッシュで少女を抱え、そのまま進行方向にあった建物の壁に激突する。轟音と共に壁に穴が開き、そして二人はそのまま建物の中へと入っていった。
「さて……」
湊は腰に刀のように巻いている、数十メートルはあろうかという針金に手を当てながら、様々な思考を巡らせていた。
ここからだ。
しかし、欠点がある。威力が高すぎる上に加減ができないのである。威嚇のために一発撃って、それで相手が戦意喪失してくれなかったらただの置物だ。
そして、相手は生きるために必死でこちらを殺しにかかっている。特に男の方は、二度と威嚇射撃程度では怯まないだろう。
もう一つの能力、
そんな時、どうすべきか。湊はすぐにその答えを導き出し、そして実行に移した。
賭けになるが、それ以外に方法はないに等しい。
「なぁ、デカブツ」
湊は穴から建物に入り、怒りに叫ぶ大男をまっすぐ見据えた。男も、こちらを血走った目で見ている。
「……今日のところは、これで許してくれ」
湊は懐から一つのパンを取り出し、男の背後に居る少女に投げ渡した。少女は目を見開きながらそれを受け取り、そして男はあいも変わらず怒りの視線を向けている。
「何のつもりだ」
「そのままの意味だ。これで許してくれ」
頼む。そう言って湊は頭を下げる。そうだ、もうこれしかない。こんなことで誰かを殺すような人間が、ヒーローになどなれるはずがない。
「……何で逃げなかった。こんな貴重なモン俺らに差し出して」
パンは貴重品である。少なくとも、この二人のような追いはぎが盗んだ金程度で買えるものではない。
男には、それが分からなかったのだろう。
「中途半端はしない。お前と戦った時点で、俺に逃げる選択はない」
きっぱりと、湊はそう言い切る。
「俺がこのままてめェを襲えば?」
「このまま戦う。今度は容赦せずに」
でも、そんなことはしたくない。そう付け加えると同時に、湊の背後に砂が集まり砂像が現れる。
「……分かった。さっさと失せろ」
先ほどの戦いで、このまま戦いになれば負けることを知ったのだろう。男はそう言い、パンを物珍しそうに見つめる少女に向き直った。
湊はそれを見届けると、その背後にいた砂像が崩れ去り、そしてそのまま湊は建物を後にした。
「へへっ……ひもじぃぃぃ」
しばらく歩いた後、湊はそう言いながら笑った。
そういえば今日は朝から何も食べていない。早朝から仕事をしていたからだ。
……そう、湊は仕事をしていたのだ。
「あっ、また師匠に怒られるな。今日は殺されるかなぁ」
「あぁ。今日は殺すぞ」
背後から突然聞こえたその聞きなれた妙に明るい声に、思わず湊は乾いた笑い声をあげる。またこのパターンだ。
「また仕事サボったなお前ー!!」
「すいませんでしたぁっ!!」
夕焼けに赤く染まった貧民街を、二人の元気な師弟が駆け回る。捕まれば、湊はいつものようにこってりと絞りつくされてしまうだろう。
だが、それでいい。それがいい。
いつか師匠を超え本物のヒーローになるまでは、いつか逃げ切ってしまえるほど強くなるまでは。
師に捕まり、一発強烈なゲンコツを頭に貰った湊は。痛みに涙を流しながらも、しかし笑顔であった。
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