×××:葛藤できない。
「オゲェェェエエエエェェ」
場所は変わり、ここは『ドン・キ○ーテ』1階の女性用トイレ。
その一室から嘔吐する声が響く。
だが、声だけだ。
液体の吐瀉物がバチャバチャと落ちる音───などはまるで聴こえてこない。
それもそのはず。
彼女───『坂本梨乃』は世界が変貌して以降、魔石以外を口にしていないのだから。
そもそも吐き出す物が体内にないのだ。
いやそれ以前に、彼女には食欲というものが完全に欠落しているのだが。
(うぅぅぅ……今日も気分が最悪ですぅぅ……。なんなんですかほんとに……。というか、わたし〈精神異常無効〉ってスキル持ってませんでしたっけ……全然役に立ってないんですけど……)
内心では愚痴を零しているが、実際はこの心の奥底から湧き上がる嫌悪感と嘔吐感に彼女は慣れつつあった。
というのも、人間と行動を共にしてからずっとこの気分の悪さが続いているからだ。
いくつか耐性スキルも手に入れている。
坂本は初日の頃を思い出し、それに比べれば随分とマシになったなと思い直した。
(でも……この気持ち悪さとも今日でお別れです)
ではなぜ、彼女はそんな状況にも関わらず人間と行動を共にしていたのか。
それは偏に認めたくなかったからだ。
自分が───人間ではなくなったことを。
これは坂本の、人間だった頃の残滓のようなもの。
魔物となり精神が変質しても、精神寄生生命体によって感情が歪められても、『人間性』というものが完全に失われるわけではなかった。
ほんの僅かだが残る。
坂本はその僅かな残滓にしがみつき、変わってしまった新たな自分を今まで受け入れられずにいたのだ。
「やりますよ……やりますよわたしはっ!!」
思わず声が出た。
だが、それも仕方がない。
それだけの決意なのだ。
今日彼女は、初めて人を殺す。
これは彼女にとって儀式だ。
新たな一歩を踏み出すための儀式。
人間を辞める儀式。
そして、生き残るために過去の自分と決別する儀式。
現在、ドン・キ○ーテ3階ではここを取り仕切る幹部たちによる、『渋谷へ移動する』ための最後の協議が行われている。
しかも、残りの戦力となる人間は渋谷までの経路を確認するために斥候として出ていたり、拠点の警備のため外にいるかのどちらかだ。
つまり、今ここの戦力は完全に分散している。
「超チャンス。超チャンスなんですっ! やるしかないんですっ! もうやるって決めたんですっ!」
敢えて言葉に出し、坂本は己を鼓舞する。
どうせ、ずっと人間と一緒にいることはできない。
いつかは決別しなくてはならない。
『魔物が入ってこれない場所』が見つかったと報告を聴いたときから、分かっていたことだ。
自分は人間ではなく、魔物。
たまたま人と形が似ていただけ。
───ガチャッ
その時、トイレのドアが唐突に開いた。
坂本は思わずビクッと跳ね上がる。
「大丈夫ですか坂本さん……? 何やら声をあげていたようですけど……」
入ってきたのは、由比ヶ浜という見知った年配女性だった。
「だ、だだだだ、大丈夫ですっ! お気遣いなくっ!」
「そう……それならいいんですけど……。何かあったら気軽に相談して下さいね。こんな時ですので」
「あ、ありがとうございます……。すぐ行きますので……」
「はい……。お節介ですいません」
「いえいえ、いつもありがとうございます……」
由比ヶ浜はペコりと頭を下げ、トイレから出ていった。
それに呼応するように坂本もペコりと頭を下げる。
坂本は再び一人となった。
由比ヶ浜が出ていき残ったのは、妙に静かな空間だけ。
洗面台のコックを回し、勢いよく出る水で手を洗いながら、坂本は鏡に映る自分の顔を見る。
幼く見える顔立ち。
地毛だが明るく茶色の、くせっ毛の長髪。
あまり曲線的ではない胸。
坂本はこの見た目で、なおかつ身長もかなり低いためよく“幼女”と言われてからかわれる。
しかし、坂本の歳は既に24。
立派に働く社会人なのだ。
坂本は鏡の中の自分を見ながら、由比ヶ浜のことを思い出す。
由比ヶ浜だけではない。
ここに来て親しくなった人間全てを思い出す。
短い間とはいえ、苦楽を共にした人たちだ。
坂本の心には様々な想いが込み上げて───こない。
意識してわざわざ思い出したその光景に坂本が抱くのは、道端で見つけた虫に抱くような感情とも呼べない微々たるもの。
(はぁ……。やっぱりダメですね……)
坂本が最も否定したいのは“これ”だった。
人間に対して、いや、“生者”に対してなんの感情も抱けない、変わってしまった自分を否定したくてあえて人間に紛れて今まで生活していたのだ。
だが、なんの意味もなかった。
それどころか最近は悪化しているといえる。
最初の頃は無感情だったのに、この頃は『殺意』が芽生え始めているのだ。
たいして理由のない、どうしようもない殺意だ。
『自分の周りを飛び回る蚊が鬱陶しいから殺したい』
坂本が人間に抱く殺意はこれと何も変わらなかった。
僅かに残る『人間性』ごときでは、もはや抑えられないところまできている。
(うぅ……怖いです……。こんな自分が怖いです……。でも───いい加減向き合わないとですよね……)
過去の自分と決別するには今日しかない。
もうやると決めたのだ。
坂本は、パチンッ、と両手で己の頬を叩く。
「行きますっ!」
その宣言とともに、坂本はゆっくりとぎこちない足取りで歩き出した。
───残り189秒。
───残り188秒。
───残り187秒。
───残り186秒。
坂本が人間を辞めるまで、残り────。
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