2.肉を撒く御仁
これは,彼ことU-Maと飲みに行った時に聞いた話である。
まだまだ終電には間に合う時間だったので,JR線O駅近くの静かな店に入った時のことである。
遅まきの暑気払いとしては,まずまず良い店だったと思う。
何年か前の暑い夏の日の夜の出来事だ。
休みの日だったから,夜21時過ぎに犬の散歩に出た。
いつも自宅近くの運河を向こう岸に渡って土手沿いの遊歩道を歩く。
その日は普段より蒸し暑く感じ,また虫の鳴き声も五月蝿く耳が痛いほどだった。
犬の散歩だが,夏は特に犬のために夜になってから散歩に連れ出すようにしていた。
日が出ている時間は気温も高く,道も焼けているから,犬が火傷をしないようにとの対処方法だった。
今の時間だと,主人が蒸し暑くても歩道の熱は冷めているようで,犬は普段通りに歩いている。
まあ,犬の散歩といっても往復で40分程度の道のりを犬のペースに合わせて歩くだけなのだ。
まれに少し離れたE川まで歩くこともあるが,こちらは往復で100分ほどかかるから,翌日仕事だとわかっていて,かつさすがにこの暑さではそこまで行くという選択肢すら出てこない。
とりあえず運河に着いたので,いつも通りに遊歩道に向けて階段を降り,浮き橋を渡って散歩を始めた。
遊歩道はここ何年かで作られたので,きちんと舗装されている。
遊歩道ができる前は,車が通る道を歩いて散歩していたので,だいぶ安全にはなったと思う。
ただ,台風などの大雨が来ると遊歩道が川に沈んでしまうので,その時は別の道を行くだけなのだがw
他には夜だと時々届く車のライトが鬱陶しいくらいか。
犬も慣れたもので,いつも通りにあっちでクンクン,こっちでクンクンしながら用を足して歩いている。
ただ,もう何年もこうして夜の散歩に出ているが,今日は特に奇妙な感覚に囚われている。
もしかしたら道すがら顔を撫でる生暖かい風がそう思わせるのかはわかっていないが,いつもと違う雰囲気が漂っている。
そんな気がするのだが,犬はというと特に変わりなくいつも通りだ。
こういう時は,おそらく人よりも犬の方が感覚が優れていると思うので,何もないのだろうと気のせいだと自分に言い聞かせて歩いた。
何事もなくいつもの折り返し地点に着き,往路は問題なく終了。
いつも通りに「犬の散歩」に来ているだけなのだから,何のことはない。
虫の鳴き声を聴きながら,あとは犬を連れて家に帰るだけなのだ。
「あはは,我ながら阿呆な奴め・・・」
何を気にしていたのだろう,自分で自分を笑わずにはいられなかった。
あと30メートルほど歩いたら浮き橋を渡り,土手を上がればすぐに家に着く。
何気ない不安を吹き飛ばそうと考えながら,ふと浮き橋を見た時,思わず足を止めてしまった。
そして自分の予感が正しかったことを呪った。
何故なら浮き橋の上で行われている光景があまりにも不自然で,その光景に見入ってしまったからだった。
浮き橋のちょうど真ん中あたりに老人のようなモノが立って,河に向かって何か赤いモノを撒いているのだ。
この老人のようなモノはこの世のものではないことは一目でわかった。
明かりのない橋の上にいるはずなのに,俺の方からはっきりと見えているし,人として何かが欠けていることも,その行動を見てもおかしかったからだ。
先ほどからどこから出しているのかがわからないが,赤いモノを河に撒いている。
撒かれたモノがバシャバシャと音を立てて河に入っていっているが,すでに小山のように積もっている。
積もっているのだから,バシャバシャと音もなるはずはないのだが,音は鳴り続けている。
それに赤いモノをよく見ると,何かの動物の肉片のようだった。
この老人のようなモノは,淡々と表情を変えることもなく,河に向かって肉片を撒いているようだった。
とりあえず,犬を見ると大人しく動こうとはしていなかった。
俺自身も動くに動けない状態だったから,少し安心をした。
異常な状態ではあるが,ようやく気持ちも落ち着いてきたので,周りを気にする余裕も出てきた。
いつの間にか,あれほど五月蝿かった虫の鳴き声もピタリと止んでいて,バシャバシャと肉片が撒かれる音だけが響いていた。
どれくらい待てばいいのか,どのくらい時間が経ったのだろうかと思った瞬間,時間が動き出したように感じた。
見ている目の前で,その老人のようなモノは一瞬で消えてしまい,同じく積もった肉片も消えてしまったからだ。
その替わりに虫の鳴き声が再び五月蝿く鳴き始めた。
ここまで五月蝿い虫の鳴き声が心地よく聞こえたのは,おそらく最初で最後の経験になったと思う。
ある意味,ピリピリとしていた空気が元に戻った気がした。
何もなかったかのように,周りの雰囲気もいつも通りに戻っていた。
浮き橋を渡る時はさすがに警戒をしたが,結局何事も起きなかった。
とりあえず,老人のようなモノの気紛れに巻き込まれただけなのだろう。
家に着くまでの間,一連の出来事を振り返って考えてみたものの,あの老人のようなモノは何者であったのか,何をしたかったのか,結局のところ判らずじまいだった。
やや呂律の回らない口調でU-Maは思い出したのであろうか,その時のことを改めて考えているようだった。
私にも判らないことだらけではあったが,取りあえずできることをしようと思った。
それは,店にあるパイン酒を頼むことで,ちょうどその辺りにいたマスターに声をかけることだった。
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