1-2 私の存在

 少女は、先ほど出会ったばかりの、見知らぬ青年の声を背に、森の外に向かって歩き続けていた。けれど、何度も、立ち止まった。しかし、振り返えろうとはしなかった。彼の声が聞こえなくなると、少女は立ち止まり、そっと振り返った。青年の姿がないことを確認したようである。


 そして、彼女はゆっくりと、手を振った。


 暖かな陽光が差し込む森の空気に向かって、手を振っているだけであった。もちろん、彼に届くはずがなかった。手を振るのをやめ、おかしな行動をとってしまった自分の手を見つめた。


「なん……で?」


 手に巻き付けられた白い布に、透明な雫がしたたり落ちた。


「私がいても……いいの、本当に」


 しどろもどろな言葉であった。少女の頬は、赤く染まっていた。目の周りが熱くなって、顔全体が火照っているように感じる。こんな顔、とても誰かに見せられるものではない、と少女は思った。


 私に、このような言葉をかけてくれる者が……まだ、この世界にいたというの?


 彼は……何者なの?




 少女は、森を後にした。そして、走り出す。白い衣がたなびき、吹き抜ける風のようだ。


 彼女が目指す方向は、王都であった。先ほど竜を追い返した森は、辺境の地であった。森から最も近くの村までは広大な草原であった。建物もなく、人が行きかう道もない。少女は急ごうと思い、魔力を存分に利用し、体中に駆け巡らせ、加速した。


 いつの間にか、日は沈みかけていた。城下町の家々は明かりを灯し始め、人々は夜を過ごす準備に取り掛かっていた。少女は城下町の中心へとたどり着いていた。彼女の向かう場所は、湖の中心にあった。その島へは、レンガの橋を渡って行くことができる。魔法使いたちがぞろぞろと出入りする中を、彼女だけは、縮こまって歩く。


 そして、城の建つ島に辿り着くと、オルティスの中枢となる城、ブラッドフォード城へと続く、裏道をとぼとぼと歩く。


 裏道は、華やかな花壇で彩られた表の道と異なり、あまり整備のなされていない道である。木が好き放題に生い茂り、道の上は石ころだらけであった。たいそう歩きにくい道となっている。オルティスの使用人ではない人間が、通ることはない場所である。少女は、重い足取りだった。


 少女が出入りするための、小さな門に近づくにつれ、彼女の表情の曇りはどんどん強まっていった。そして、肩を震わせ始めた。体を縮こめ、弱々しくなっていった。きっと、この彼女の姿を見れば、大きな竜を追い払った魔法使いにはとても見えないと、誰もが思うだろう。


 少女は、一見何の気配がしないにも関わらず、恐る恐る門を開けた。ぎい、と危なっかしい音を立て、門は開いた。ブラッドフォード城の庭園の一区域に繋がっていた。裏道とは一変し、色とりどりの薔薇が咲き誇る、美しい庭園であった。立派な石の壁やオベリスクには、鮮やかな花をつけ、鋭い棘をも備えた荊が巻き付いていた。背の高い木はそれほど植わっておらず、開けた庭園であった。


 しかし、花木が迷路のように入り組んでおり、迷い込んだら出られなくなってしまいそうな場所でもあった。少女はきょろきょろと周囲を見回している。何に怯えながら、何かを探していた。


 不意に、強い声が少女に叩きつけられた。


「遅い」


 冷たく言い放ったのは、青年だ。くすんでいながらも輝かしい鮮やかな金色の髪に、青く鮮明な瞳をしていた。上着を羽織り、腕を組んで立っていた。強く、少女を見下している。


「オレは、時間を守れない奴が大嫌いだ。どうなるか、分かっているよな、女」


 依然として、少女を圧する口調であった。


「ご、ごめ……なさ……」


 少女の声までもが震えていた。少女はがくんと膝をつき、青年の前にかしずいた。彼の周りにいる男たちは、弱り切ったその姿に、にやにやと笑みを浮かべた。


「……アリステッド、様」


 彼は、オルティスの王子、アリステッド・デ・オルティスである。


 アリステッドは、オルティス王家の先例に違わず、若くして才覚を発揮した魔法使いの一人である。しかし、絵に描いたような暴君で、その才を持て余していた。名乗らずとも、初対面の誰もが彼を「王子」と称するにふさわしい、整った容貌の青年である。けれど、口を開けば暴言ばかり、部下に対する態度も酷い噂ばかり、とにかく悪評の絶えない王子であった。


 そんな彼は、リベリカルテスターを実質的に管理していた。オルティスが世界でただ一つの国となる以前には、彼はそれほど酷い人間ではなかったと、オルティスに仕える者たちは口々に言う。今現在彼に付き従う者たちは、彼のことを昔から知っている、よほど関係の深い者だけだ。


 彼がおかしくなったのは、父親である国王から、リベリカルテスターの管理を任されるようになってからだと、古くからの部下たちは口々に言う。


 彼は、リベリカルテスターのことを、特にひどくあしらっていた。おどおどしている姿がうっとうしい、怯える姿がみすぼらしい、何を言っているのかよく分からない、そんなところが、彼の苛立ちを募らせているようだった。


 そして何より、最も彼の神経を逆なでする事実は、これだった。


 ――何でこんな女が、オレの代わりに国を守る役目を与えられているのか。


 アリステッドは、今でも家族には従順だった。父と母のことを尊敬し、兄と姉のことを慕い、妹のことを大切にしていた。だから、「リベリカルテスターを管理せよ」という父の命には逆らえなかった。仕方なく、彼女のことを請け負っていた。


 彼は、リベリカルテスターの管理を行うものとして、国に危機が及んだという情報を聞きつけ、彼女に命令を送る。必要最低限の役目はきっちりとこなしていた。


 都合が良いと捉えるべきなのか、彼女は、有する魔力により、怪我に非常に強かった。どんなに負傷しようとも、四肢を切断される、内臓を引きずり出されるような、よほどの重傷でない限り、みるみるうちに治ってしまう体質であった。彼女がその力を引き出せたのは、オルティスの教育の賜物だと、アリステッドは噂に聞いていた。


 それすらも気に食わない。だから、彼女を虐げ続ける。どうせ、直ぐに治ってしまうのだから、どれほど痛めつけても、その跡は残らない。


 王子アリステッドにとって、リベリカルテスターは、目の上のこぶであると同時に、手ごろで性能の良い、憂さ晴らしの道具になっていたのだ。

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