5 海を越えて、冷たい床の上、暗澹に包まれる
時間はどれほど過ぎたのだろう。
何かが起こって、それが終わるまで、という事実があるからこそ時間が定義づけられるのであって、始めから何もなかったのなら、そこに時間というものは存在しなかったということになるのだろうか。
少女は目を覚ました。何か重いもので繋ぎ止められているのが分かった。自分の体があったのが見えた。目を閉じている間、自分はどうなったのか全く分からない。
しかし、この身が大切に扱われていないことだけは、確証がある。いろんなもので汚れてはいるが、傷はあまりなかった。相変わらず蒼白だった。けれど、生きているようなものではなかった。
自身に対してそう思うのは変であるのかもしれないが、今ばかりはそう述べなければ表せないというような状態であった。長く黒い髪が体にまとわりついている。衣服はほとんどないようなものだった。
広い空間があった。鎖に絡めとられた少女を中心に、たくさんの人影が空間の上部に、円を作るようにずらりと並んでいる。少女は、その空間の中心の、床がだんだんと低くなった部分に置かれていた。
人影たちは彼女のことを話しているようだった。低い声ばかり聞こえてきた。そして、人影の一人が少女の方を向いた。それと同時に人影のいたところに灯りがともされ、彼らの顔が少女の目に入った。全て、少女のいた場所の人間とは異なる容貌をした者たちだった。
「異国の娘よ」
黒い衣装を纏った壮年の男だった。
「生きたいか?」
少女は応えなかった。
「そうだな、我々の言うことさえ聞いていればよい。なに、難儀なことは要求しない」
男は、丁寧に語る。
「お前は『黒の魔法使い』の一部だそうだ。その魔法を、我々は預かりたいと思っている」
――――『黒の魔法使い』。『魔法』。
少女が幼いころ発していた不思議な力を示す、言葉なのだろうか。
少女は、堂々と語りかける男の方を見ていた。虚ろだった。
「その力を如何に使うのか? 我々の治めるこの国と、そこに住まう者たちを守るために振るってもらう。ただそれだけだ」
心当たりのある役割だ、と少女は思った。
でも、もう、昔の自分が何であったのか、思い出さないようにしていた。ただひたすらに愚かなだけであったからだ。
「どうせ、あのちっぽけな国で、お前の力は忌まれていた、もしくはただ便利なだけのものだとして軽視されていたのだろう? 我々はそのようなことはしない。お前の力だけでなく、お前自身も我々が預かってやろう」
殊に穏やかな声だった。けれど、どこか野心に満ちているようでもあった。それが何であるのかは、想像がついた。あの男と近しいものだろう。彼女はそう思った。また、自分のいたあの地を滅ぼしたのが、彼らだということを悟った。
「少々痛みを伴う役目もあるだろうが、命が損なわれるようなことは決してしないと神に誓おう。娘よ、頑張りたまえ」
中心の男が一旦話を止めた。少女は、繋がれたまま、別の部屋に移された。それに伴い、少女を取り囲んでいた者たちも共に移動した。
そこは、不思議な空間だった。真っ白だ。
この世に存在しないものを祀るかのように、白い花が中心の祭壇に溢れ返っていた。空間と配置された物の、その白さはこの世に比類なく、混じりけのない美しいものであったが、生気のない、ある意味気味の悪さ、息苦しさを感じさせるようでもあった。
少女は、祭壇の上に寝かせられた。再び、少女の周りを男たちが取り囲んだ。先ほどと違う者たちのようだが、皆仮面を付けていた上、白い装束で体を覆っていたために、どんな者たちかはよく分からなかった。そして、彼らは少女と近い距離にいた。
彼女を円形になって取り囲み、手に長い棒のようなものを持っていた。魔法の杖である。金属で作られたもののようで、それぞれ微妙に形状が異なっていた。彼らはそれを一斉に構え、ぶつぶつと何かを唱え始めた。
それはちょうど、儀式の始まりを示していた。少女を取り囲む者たちは大人数で、大掛かりな儀式であった。しばらくして、杖に光が纏わされ、鼓膜に響く音が立ち始めた。そして、一斉に少女に向かって光を放った。
杖から放たれた光と同時に、祭壇を中心に、奇怪な文様の陣が表れた。それから放たれた同様の光も、彼女の身体を取り巻いた。
光はまるで鎖が命を宿したかのように、少女の四肢を締め付けた。その柔らかな白い肌に覆いかぶさり、組織を蝕もうと枝を延ばした。少女の全身には想像を絶する感覚がほとばしった。それは、全身の神経の一筋一筋に、何かするどいものを通され、ゆっくりと、時に激しく、それらを引き裂くようなものであった。今にも、身体の奥深くから、何かよくないものが全身を犯し、中身をぐちゃぐちゃにされる、そのような痛みが少女を襲った。
部屋の外まで悲鳴が聞こえてしまいそうなほど、彼女は泣き叫んだ。声が出せなくなっていてもおかしくないほど、長い間口を閉ざしていたことが嘘のようだ。これ以上口が開かないほどに大きく口を開き、消えることのない痛みを逃がそうと、声をあげた。今の彼女の瞳は、虚ろな紫色ではなかった。受け止めきれなくなった痛みが、涙になって流れ落ちる。それは止まることを知らなかった。体は思わず動いてしまうが、光に縛りつけられ、空しくもがくのみであった。
悲痛な声とは裏腹に、少女を取り巻く者たちは冷静だった。あるいは、笑みを浮かべながらその姿を見つめる者もいた。
やがて、少女の身体にある現象が引き起こされた。少女の肉体に取り入る光は、身体の各所を拘束する純白の帯へと変化した。腕・大腿・胴・首に巻き付けられ、衣となった。そして胸部の桎梏となるものが現れた。それらは柔肌をきつく押さえつけた。所々に、ひらひらとした飾り布、蝶のような形に結われた布が取り付けられた。
儀式は終った。
長時間にわたるものであった。けれど、少女にとってはそれ以上の時間に感じられた。彼女は祭壇の上で横たわっていた。先ほど放たれた術により引きおこされる痛みは未だ残り、全身は痙攣していた。しかし、意識は保っていた。
自ら動いたわけでは無いのに、少女の呼吸は荒げていた。儀式の最中の叫び声に比べれば、随分とましにはなったが、それでもなお、苦痛にあえぐような息遣いであった。涙を流し続けた。
少女は、ゆっくりと、震える体を起こす。そして、自分の身体が目に入った。こうやって自分自身を見つめたのはいつ以来だろうか、と訝しく思った。
先ほどの、暗い空間にいた際の、裸同然の格好よりはまともであるように思われる。しかし、明らかに心地の良くない部位に取り付けられた帯に、身体を覆うためのただの衣装に対して、普通は抱くことのないような違和感を覚えた。さらに、肌を晒す面積それ自体は多くないものの、あまり見られたくない箇所に限って、顕わになっている。
なぜこのような意匠にする必要があったのか、彼女にはまるで理解不能である。多くの視線を集めてしまうため、隠そう思ったが、まだ思うように手足が動かせず、それは叶わなかった。
そうこうしているうちに、中心の男が口を開いた。そして厳かな足取りで少女の前へと歩み出る。
「ここに、リベリカルテスターの誕生を記録する」
少女は、その言葉の意味は分からなかった。周りの者たちは、全て理解していた。少女が理解したのは、もう、「璃月」という娘の存在は、とうの昔に消え失せているということ、たったそれだけであった。
「さて、リベリカルテスターよ。お前は我らが国、オルティスのため、その魔の力を
振るえ。我々を脅かす、全てのものへ立ち向かうのだ」
もちろん、彼女にそんなことをする義理はない。しかし、彼女は拒まなかった。
「……わかりました」
微かな声だった。
昔のことはもう、どこかに置いてきた。けれど、この身に宿したこの力を何らかの目的に使うこと、それは、彼女自身にとっての唯一の存在価値だった。この国は、自分のいた場所を滅ぼした憎き国である。しかし、ないものに縋り付くことがどれほど無益なことであるかは、自分が最もよく知ることであった。もう、何であってもいい。
だから、自分の存在がここにあること、その感覚が欲しい。ただそれだけだ。こんな弱い自分に生きる意味などない。生まれた時からあるのはこの魔法だけ。
守るべきもの、変える場所もない。死ぬこともできない。死ぬのは……こわい。
――戦うしか、なかった。
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